第三十八話 胸が痛い
レトとハイディアがノースに辿り着いて。
イチヤを待ち始めてから、五日が経った。
まだ完全とは言えないが、レトの体力は概ね回復していた。ハイディアが寝やすい寝台を作り、食料まで調達してくれたお陰だった。
昼間。
今日は、空がやや曇っていた。あと二、三日後に、雨が降るだろう。
この五日間、ハイディアはレトと一緒に野宿をしてくれた。彼女が作った土のテントで寝泊まりしているため、野宿とは言えないかも知れないが。
テントの中でも、外の物音はよく聞える。風の吹く音。川の流れる音。
レトは常に、耳を澄ましていた。川がバシャバシャと激しい音を立てたら、テントから顔を出して外を見た。イチヤが川を渡ってきたのか、確認するために。もっとも、その全てが期待外れだった。
聞こえてきたのは、川に捨てたサウスウェスト兵が腐り始め、浮かんできた音。死体同士がぶつかりながら、流れてゆく音。死体はこの先、川魚の餌になる。骨だけになったら、ゆっくりと分解されてゆく。
サウスウェストの待機所を攻め、死体を川に捨てた時期から考えると、もう、川底に死体は残っていないだろう。浅瀬の部分は、すっかり綺麗になったはずだ。
この先、川を渡る激しい水音が聞えたら。
それはイチヤかも知れない。
レトは、いつも以上に耳を澄ましていた。
曇り空のさらに高いところで、太陽が傾き始めた。
もうすぐ、ここで寝泊まりを始めてから五回目の夕方がくる。
バシャッ
レトの耳に、流れるだけではない川の音が聞えてきた。
今度こそイチヤかも知れない。
レトの胸に、久しく感じていない気持ちが湧き出てきた。
だが、その期待は、すぐに疑念に変わった。
バシャバシャバシャバシャ
レトの耳に届いてきたのは、あまりに激しい水音だった。単騎で――イチヤ一人で川を渡ってきたなら、こんなに激しい音はしない。
サウスウェスト軍だろうか。もしくは――少し考えにくいが――イチヤがノースの兵と和解し、彼等を引き連れて戻ったのだろうか。
レトとハイディアはテントから出た。
大勢の兵が、馬に乗って川を渡ってきた。ほとんど全ての兵が、薄汚れた格好になっている。土や草がこびり付いた汚れではない。何度も戦場に出ているレトには分かる。あれは、血の汚れだ。
テントに繋いでいた馬に乗り、レトは、川を渡ってきた兵士達に向かって行った。ハイディアも、すぐに後ろから着いてきた。
川を渡ってきた軍。先頭に立っているのは、カボだった。ブランコ村でイチヤに殴られ、失神した千人長。
全ての兵が川を渡り終えたところで、レトとハイディアは、彼等に接触した。
こちらに気付いたカボが右手を上げ、兵士達に止まるよう指示をした。
レトとハイディアは、カボに近付いた。
「レト殿。もう戻られていたんですね。お早い帰還で」
「イチヤは?」
率直に、レトはカボに訊いた。
途端に、彼は嘲笑を見せた。
「さあ。軍の士気を下げて敗戦を招いた奴のことなんて、知りませんよ」
「劣勢の状況をどうにかするのが、指揮する人の仕事なんじゃないの?」
フロンテーラの戦いの中で、レトは気付いていた。早々に、自軍が敗走を始めたことに。イチヤはその時、まだ戦っていたのに。
「あんた達は、勝つことも、イチヤのことも、全て捨てて逃げただけでしょ?」
「……当然だろ」
唐突に、カボは敬語をやめた。
「何の楽しみも報酬もないのに、命を賭けて戦う馬鹿がどこにいる? イチヤは、そんな馬鹿なことを強要したんだ」
「報酬なら、ちゃんと給料が出てるでしょ?」
侯爵から――元を辿れば国から――の給料。
「普通の給料だけで、命を賭ける気になるわけないだろ。特別な手当がないと、戦争なんてやってられないんだよ。イチヤはそれを、俺達から奪ったんだ」
憎々しげに吐き捨てながらも、カボの嘲笑は消えなかった。イチヤに対して、もう敬称すらつけていない。彼と出会った当初は、あんなにも敬っていたのに。
当然といえば当然なのかも知れない。カボにとっての召喚者は、共に敵を討ち滅ぼし、敵国の民を蹂躙するための人物なのだから。つまり、彼にとってのイチヤは、召喚者とも呼べない独善者なのだ。
ふいに、レトの頭に疑問が過った。
レトが逃亡したのは、フロンティア軍の中でもかなり後の方だ。ほとんどの兵は、レトよりも前に逃げ出していた。カボ達も、レトやハイディアより先に逃げていたはずだ。
では、なぜ彼等は、レト達より五日も遅れて帰還したのか。
疑問の答えは、簡単に出た。カボ達についた返り血が、答えを教えてくれた。
回答を知りつつ、レトはカボに疑問を向けた。
「あんた達、私達より先に逃げたよね? 今まで帰還しないで、何をしてたの?」
見ると、カボの後ろにいる兵士達もニヤニヤと笑っていた。嘲るように。それでいて、どこか満足そうに。
「イチヤが俺達から奪った報酬を、取り返してただけだ」
逃亡した挙げ句に、彼等は、サウスウェストの村を襲っていたのだ。そして、イチヤの前ではできなかった蛮行を、再び行った。彼等が浴びたのは、殺した村人達の血。
吐き気がするような蛮行。
レトは唇を噛んだ。少し前まで、こんな蛮行を知っても、顔色ひとつ変えずにいられたのに。心を殺せていたのに。
「じゃあ、俺達は帰還するんで」
再びカボは、敬語に戻った。ただし、嫌味な口調は崩さないが。
「あと、イチヤが死んだなら次の召喚者様が来るんでしょうけど。あんたも付き人なら、しっかり教育してくださいよ。シュウ様は、理想的な召喚者だったんだから」
カボ達が馬を進めてゆく。レトとハイディアを通り過ぎてゆく。
レトの耳に入ってくる、馬の蹄の音。見なくても感じる、兵士達の嘲りの視線。
カボが最後に吐いた言葉が、レトの頭で反芻された。
『シュウ様は、理想的な召喚者だったんだから』
レトは覚えていた。イチヤが元々いた世界で、彼を貶めた人物の名前を。
五味秀一という名前。
五味を語るイチヤの口調が、あまりに苦々しくて。レトの記憶に、はっきりと刻み込まれていた。
レトには聞えていた。イチヤが、サウスウェストの召喚者と交わした会話が。
『前のノースの召喚者が五味だったんだから』
シュウは――前召喚者は、イチヤの人生を滅茶苦茶にした奴だった。彼が一番憎み、嫌悪している男。
――そんな男に……。
そんな男に、体を許していた。痴態を晒していた。
レトの胸中で、苦渋の声が漏れた。変えられない過去に、鳥肌が立った。懺悔にも似た気持ちに、胸が痛んだ。
周囲を、兵士達が通り過ぎてゆく。蹄の音が続く。
蹄の音に交じって、鼻で笑う音も聞えた。何人かの兵士達が、「うわ、泣いてるよ」と吐き捨てている。
自分でも気付かないうちに、レトは涙を流していた。
どうして流れた涙なのか、自分でも分からない。後悔か。嫌悪感か。あるいは罪悪感か。
ただひとつ、分かることがある。
レトは、もう何年も泣いていなかった。最後に泣いたのは、母親が発病したとき。今の医学では治せないと知ったとき。ロキに出会い、母親を助けるために、自分の心を殺した。感情を閉じ込めた。だから何でもできた。
涙は、感情を殺せなくなったことを意味していた。
「……イチヤ……」
誰にも聞えない程度の声で、彼の名を口にした。口にすると、ますます涙が溢れていた。
やがて、兵士達が全て通り過ぎ。
そのまま二日、国境付近で待ち続け。
レトとハイディアが国境を越えてから、七日が経ち。
レトが定めた期間を過ぎても。
イチヤは、戻ってこなかった。
※次回更新は7/8を予定しています




