第三十七話 嫉妬と、嫉妬を生み出した気持ちと
フロンテーラから丸一日ほどかけて逃走し、レトは、国境であるデルパイース川に辿り着いた。
太陽は空の真上にあり、強い日差しを放っている。
レトの隣りには、逃亡を促したハイディア。
サウスウェストの待機所には、まだ誰もいなかった。
サウスウェスト側にも、待機所に兵を補充する余裕がなかったのだろう。フロンテーラでの戦いに備えるために。
目の前を流れる、デルパイース川。待機所にいたサウスウェスト兵を殺し、この川に捨てた。川底には、多くの死体があるはずだ。もっとも、血はすでに流され、川の色は元通りになっていたが。
レトの疲労は、すでに限界に達していた。フロンテーラの戦いで、限界を超えて魔術を使い続けた。さらに、多少の休憩を挟んだとはいえ、国境に向って走り続けた。体は重怠く、瞼はすぐにでも閉じそうだ。
「レトさん、もう少しです」
励ますように、ハイディアが声をかけてきた。
無言で頷いて、レトは、彼女と共にデルパイース川に入った。水深は一メートルほど。この川にしてはかなり浅い場所。馬に乗っているので、それほど濡れることはない。
川を渡り切ってノース国内に入ると、これまで以上の疲労が一気に襲ってきた。国内に入ったことで、緊張が解けたのだ。急激に体がフラつき、レトは馬から落ちそうになった。
「大丈夫ですか?」
ハイディアの問いに、小さく頷く。もう、声を出すのも重労働だ。けれどレトには、まだすべきことがある。
「もうフロンティアが見えてますよ。まずは宿にでも泊まって、疲れを取りましょう」
促すハイディアに馬を近付け、レトは、彼女のローブの袖を掴んだ。
「待って、ハイディア」
言いながら、レトは、ハイディアをじっと見つめた。彫刻のように綺麗な、彼女の顔立ち。エルフには美形が多いが、ハイディアほど綺麗な女性を、レトは見たことがない。彼女の耳はエルフのものではないから、たぶん、人族との混血なのだろう。
レトとハイディアの視線が交わった。無意識のうちに、レトの頭の中に、サウスウェストでの出来事が浮かんできた。イチヤがハイディアを信用していたこと。それに対して、レトに対する彼の信用は、確実に目減りしていたこと。
胸が痛んだ。この気持ちをどのように表していいのか、レトには分からなかった。自分よりもハイディアの方が、イチヤに信用されていた。それが、ひどく苦しい。
自分は、イチヤの信用を失った。
それなら、せめて――
「ここでイチヤを待たせて。イチヤが生きて帰って来るなら、必ず、この浅瀬の部分を渡ってくるはずだから」
――せめて、イチヤが生きて帰って来るところを出迎えたい。
「……」
ハイディアは沈黙した。レトから視線を逸らさず、じっとこちらを見ている。
「レトさん」
彼女が口を開いた。
「自覚はあると思いますが、あなたの体力は、ほとんど限界まで消耗してます」
「ええ」
「大きな怪我はしていなくても、内側から体を壊す可能性があります」
「分かっている」
「それでも、ここでイチヤ様を待つんですか?」
躊躇いなく、レトは頷いた。
「私は、イチヤの付き人だから」
――違う。
レトの心が、自分自身の言葉を否定した。イチヤを待ちたいのは、彼の付き人だからじゃない。
レトは、心の声を無視した。
「私は、イチヤの付き人として、十分な働きができなかった。だから、もう一回イチヤを出迎えて、仕切り直すの」
ハイディアは小さく息をついた。
「レトさん」
「何?」
「私は、レトさんとイチヤ様を助けるために、逃亡を提案しました」
「ええ」
「レトさんのフォローが続く限り、イチヤ様は戦い続ける。でも、戦い続けたら、確実に負ける。確実に殺される。だから、少しでも生存の可能性が高い方を提案しました」
「分かってる」
「それでも、あの状況でイチヤ様が生き残る可能性は、かなり低いです」
「……」
あのまま戦い続ければ、いつかレトの体力は尽きた。体力の尽きたレトは殺され、敵軍の攻撃は、チサトの魔術も含めてすべてイチヤに向う。結果として、彼も殺されただろう。
レトが逃亡することにより、敵軍の攻撃は、すべてイチヤに向けられたはずだ。彼が戦い続けたなら、確実に殺されている。
仮に、イチヤが逃亡を選択したとしても。
敵軍の魔術を振り切り、敵軍前衛の包囲網も突破しないと、逃げ切ることはできない。
ハイディアの言う通りだ。あの状況でイチヤが生き残る可能性は、かなり低い。絶望的とも思えるほどに。
けれど――
「ハイディア」
「はい」
「お願いがあるの」
「何でしょうか?」
イチヤが生き残っている可能性は低い。もし彼が死んでいたら、レトは、次の召喚者の付き人をする必要がある。母親を助けるために。
だから、期限を設けることにした。イチヤの生存を願い、彼を待つ時間。
「一週間だけ、私はここでイチヤを待ちたい。だから、食べ物とかの調達をしてほしいの。私の体力はもう限界だけど、ここでイチヤを待っていたいから」
ハイディアの表情が動いた。綺麗な顔から感情が消え、まるで絵画のように見えた。『太陽のもとの美女』という絵のタイトルが、レトの頭に浮かんだ。
レトは、ハイディアと絡んだことがほとんどない。彼女と二人きりで話したのは、この逃亡時が初めてだった。
とはいえ、周囲の人達と話している様子から、ハイディアの人物像は想像できた。純粋で優しい女性。どこか世間知らずなところさえ感じさせる、絶世の美女。
しかし、逃亡時の様子や今の表情は、ハイディアに対する印象を一変させた。イメージしていた彼女の人物像が、演技だったのではないかと思えるほどに。
「レトさん」
ハイディアが馬から降りた。
「一旦、馬から降りてください」
「ええ」
ハイディアに促され、レトは馬から降りた。地面に足をついた途端に、視界がグラリと揺れた。フラつく体。想像以上に疲弊している。
「自分がどれだけ疲れているか、自覚していただけましたか?」
「うん」
「それでも、一週間も、ここでイチヤ様を待ち続けますか?」
「待つ」
迷いなく、間髪入れず、レトは答えた。
ハイディアの表情が、若干緩んだ。少しだけ優しくなったように見えた。
ハイディアは土の魔術を展開し、簡易な寝台を作り上げた。ソファーくらいの高さの寝台。その周囲を、土の魔術でテントのように囲む。日差し避け。
「繰り返しますけど、レトさんは、著しく体力を消耗しています。なので、一旦は横になってください。もう、魔術もロクに出せないほど疲れ切っているはずです」
「うん。ありがとう」
ハイディアに促されるまま、レトは寝台で横になった。土の魔術なのに、寝台には、それほど硬質感がなかった。土が石のような状態にならないよう、コントロールされている。疲れ切った頭で、レトは、あらためてハイディアの能力を実感した。
「あとは――」
ハイディアは、ローブの懐から革袋を取り出した。中身のない水筒。蓋を開ける。水の魔術を展開する。革袋が水で満たされたら、蓋を閉じる。
「――喉が渇いたら、これを飲んでください。たぶん、今のレトさんは、こんな簡単な魔術を使うのも難しいでしょうから」
ハイディアから渡された水筒を受け取り、レトは再度礼を言った。
「ありがとう」
「いえ」
ハイディアは馬に乗った。
「私は、フロンティアに戻って食べ物を買ってきます。たぶん一時間もかからないと思うので、眠っていても構いません。今の状況なら、サウスウェストが攻め込んでくることもないでしょうし」
フロンテーラの戦いは、ノース側が敗走することになった。とはいえ、サウスウェスト側の被害も小さくなかったはずだ。
「うん……お願い……」
言いながら、レトは早くも眠気に襲われていた。体に力が入らない。ここまで逃げて来られたのが、嘘のようだ。
ハイディアが作った寝台の上で。彼女が作ったテントの中で。
レトは、すぐに微睡んだ。
※次回更新は7/6を予定しています。




