第三十六話 生きる
フロンテーラ付近。
多くの兵士達が交戦する戦場。
それは、唐突だった。
イチヤに降り注ぐ魔術の数が、何十倍にもなった。
青野が放つ魔術はどれも威力が高く、かつ、異常なほど数が多い。
増えたのは、明らかに青野以外の魔術だった。威力も精度も高くない。しかし、その数は、青野が放つ魔術の数を大きく上回っている。
イチヤの体は、すでに傷だらけだった。無数の切り傷。浅くとも体に刺さった、鋭い氷柱。滴り落ちる血。致命傷だけはなんとか避けている状態。
極端に増えた魔術を見て、イチヤの頭の中に、嫌な予感が過った。
――レトがやられたのか!?
周囲にノースの兵はいない。味方とも呼べない、同じ国に属しているだけの兵士達。
味方がいないから、レトは、たった一人で敵兵の魔術に対応していたはずだ。魔力の消耗は尋常ではなかっただろう。いくら優れているとはいえ、彼女はただのエルフ――ただの人間だ。才能はあるだろうが、人間の限界を超えた能力などない。召喚者とは違う。
レトがやられてしまっていても、何ら不思議ではない。むしろ、多勢に無勢のこの状況なら、やられていない方が不思議なのだ。
イチヤが青野と戦い始めてから、恐らく五、六分ほどだろうか。何もしていなければ、あっという間に過ぎる時間。しかし、戦いにおいては長時間と言える。どれだけ体力があろうとも、五、六分も全力で走り続けられる人間など、まずいない。召喚者であるイチヤでさえ、息切れし始めているのだから。
剣を振って無数の魔術を防ぎながら、イチヤは小さく舌打ちした。形勢を逆転できる可能性は、ゼロと言っていい。唯一の希望はハイディアの援護だが、その気配もない。
――ハイディアもやられたのか?
自軍の中にいる、たった二人の信用できる人達。
彼女達の死という可能性が、頭の中に浮かんで。
その可能性が高いことに、絶望を感じて。
イチヤは、自分の死が迫っていることを実感した。
青野は自分よりも強いと、イチヤはすでに理解している。彼女一人が相手でも、手も足も出ない。さらに大勢の魔術師が援護に回っているのだから、勝てるはずがない。
どうせ死ぬなら、このまま、青野に向って特攻でもしてやろうか。命を捨てて前進すれば、彼女と刺し違えることくらいはできるかも知れない。
イチヤは剣を振りつつ、青野の顔をじっと見た。
青野千里。かつて五味と共にイチヤを貶め、人生を滅茶苦茶にした女。確かに美人だ。彼女の愉悦に満ちた表情は、イチヤに嫌悪感しか与えないが。
イチヤを地獄に堕とした二人。五味は死んだ。青野に殺された。イチヤの人生の仇は、あとは青野だけだ。
青野を殺せれば、ある程度は満足して死ねるのではないか。
そもそも、この世界に転移してくるまで、別に死んでもいいと思っていた。ただ生きているだけだった。
それなら、ここで死んだとしても、青野を道連れにすべきじゃないか。
――そうだ。
もともと、生きる希望なんてなかった。生きる意味もなかった。生きながら死んでいるようなものだった。
剣を握る手に、イチヤは力を込めた。逃腰になっている馬に蹴りを入れ、前進させようとした。
だが。
イチヤの頭の中に、蹂躙された村々が思い浮んだ。
ノースの国境付近で、サウスウェスト軍に侵略された村。イニシオ村では、幼馴染みに恋い焦がれていた少年が、好きな人を守るために命を落とした。
サウスウェストでは、引き連れてきたノースの兵が、村の住人に暴虐の限りを尽くしていた。
頭の中に、自問が浮かぶ。
自国の兵に忌み嫌われながら、それでも戦い続けたのは何故か?
答えは簡単に出た。
理不尽な暴力に泣く人を無くしたいからだ!
では、ここで自分が青野と刺し違えたとして、そんな世界になるのか?
なるはずがない。
イチヤと青野が死ねば、ノースもサウスウェストも、新しい召喚者を転移させる。これからも戦争が続く。さらに、五味がサウスウェストとの交戦を活発にしたから、これからますます被害が出る。ノースにも、サウスウェストにも。
両国で、戦いとは無関係な人達が犠牲になる。
今の自分に何ができるのかなんて、分からない。青野より弱い自分が戦争を終結させることなど、できないかも知れない。
けれど、自分がここで死んだら、
確実に、今の負の連鎖が続く。
イチヤは、自分の生きる意味を思い出した。この世界で得た、自分の生きる目的。
――まだ死ねない!
目的を果たすまでは、生き残らないといけない。
イチヤは手綱を握り、馬を反転させた。敵の魔術師部隊とは逆方向に向って走り出した。
イチヤは、敵の前衛部隊と後衛部隊に挟まれている。敵の前衛部隊は、今まで、イチヤに向ってこなかった。下手にイチヤを討とうとすると、後衛の魔術に巻き込まれてしまうから。
後衛部隊の魔術が止まれば、当然、前衛部隊が襲ってくる。
イチヤが、敵軍前衛との戦闘に入った。
魔術で切り裂かれ、血まみれになった体で、イチヤは剣を振った。傷付いたイチヤの腕や体から、血が飛散った。イチヤ以上の大量の血を、敵兵が撒き散らした。
出血が、イチヤの体力を奪っていった。それでも、生への執着が体を動かした。
敵の前衛部隊を切り続け、包囲を抜ける頃には、イチヤの全身は真っ赤になっていた。ほとんどが敵兵の返り血。その隙間を流れる、自分の血。
敵の包囲を抜けると、イチヤは、そのまま逃走した。追ってくる敵兵は当然のように斬り捨てた。
いつの間にか、イチヤの周囲には敵兵がいなくなった。
太陽はすでに傾き始め、これから夕方になる。
イチヤの体力は、すでに限界近くまで消耗していた。一つ一つの傷は決して深くないが、数が多くなれば、それだけ出血量も多くなる。加えて、命のやり取りとなる戦いを、ずっと続けていた。
疲労と出血で、いつ意識を失っても不思議ではない状態。
イチヤの馬が走る速度は、明らかに遅くなっていた。この馬も、敵の魔術や剣で傷付けられ、ボロボロになっていた。
走り続けて、どれくらいフロンテーラから離れただろうか。
限界を迎えた馬が、その場に座り込んだ。敵兵の返り血で分かりにくいが、イチヤの馬も、かなり出血しているのだ。命の危険が迫るほどに。
イチヤは馬から降りた。
ここはまだ敵国だ。生き残るためには、逃げなければならない。傷付いた馬を気に掛けている余裕はない。
「ごめんな」
今まで自分を乗せていた馬に、詫びの言葉を伝えた。そのままイチヤは、ノースの方向へ足を進めた。
戦地から離れて気が抜けたのか、急に、体中に痛みを感じた。全身に負った傷。消耗した体力。もう、立っているだけでも辛かった。それでも、一刻も早くノースに逃げなければならない。
手にした剣が重かった。普段なら軽々と振れるのに。
少しでも休息を取りたい。食べ物と飲み物が欲しい。
ノースに向いながら、イチヤは森の中に入った。
森の中で、一本の木の前に立った。剣を強く握る。両腕が震えている。木に向って、剣を横一線に振った。切られた木が、ズシンと音を立てて地面に倒れた。
木に茂る葉を、イチヤはむしり取った。毒がないことを祈りながら、口に含んだ。
苦い。まずい。だが、葉を噛むことで染み出してくる水分は、この世のものとは思えないほど旨く感じた。体力を少しだけ回復させてくれる、命の水。
近くの木に寄りかかり、イチヤは座り込んだ。
すでに陽は沈みかけている。今晩は、ここで夜を明かそう。
目を閉じた。体中に痛みを感じながら、浅い眠りについた。起きているのか夢を見ているのかが曖昧な、浅い眠り。
ほんの少しだけ、明確な夢を見た。悪夢だった。
裸のイチヤを――一夜を撮りながら、五味と青野が笑っていた。撮られた写真が学校中に共有され、嘲笑の対象となった。忌まわしい過去の記憶。
忌まわしい記憶は、イチヤに生きる力を与えた。
こんなところで死ねない。今の自分には、生きる目的がある。目的のために青野が邪魔になるなら、あいつも殺す。そのために、もっと強くなる。
瞼の奥に光が差し込んできて、イチヤは目を開けた。
いつの間にか、朝日が昇ってきていた。
剣を支えにして、イチヤは立ち上がった。
当然だが、たった一晩で傷は癒えない。激しい全身の痛み。疲労からくる気怠さ。体が重い。走ってノースに向いたいが、その体力もない。
歩いていると、傷が数カ所開いた。まだ血が流れてきた。
血液は、体内で酸素や栄養を循環させる。血を失えば、体力も気力も失われる。たとえそれが、命を失うほどの出血量ではないにしても。
浅い眠りで回復する体力は、せいぜい、一、二時間歩ける程度。本格的に治療をし、しっかりと栄養を摂らなければ、ノースに戻るのは困難だ。たとえ国境に辿り着けたとしても、デルパイース川で死ぬかも知れない。川を渡る途中で流され、溺れ死ぬ。
さらに、サウスウェスト兵に発見される恐れもある。
普段のイチヤなら、一〇〇人以上を相手にしても問題なく勝てる。だが、今のイチヤでは、三、四人が相手でも負ける可能性が高い。
人の意思は、それほど強くない。気力の減退は、生きる意思をも失わせる。
『もう死んでもいいから、楽になりたい』
苦しみの中でそう考えるのは、自然なことだ。
それでもイチヤは、ノースに向う足を止めなかった。
「俺は死なない」
自分を鼓舞するため、息も絶え絶えの声で呟いた。
「俺は生きる」
かつての自分と今の自分は、違うんだ。
剣を杖のように地面に立て、イチヤは、足を進め続けた。
※次回更新は7/3を予定しています。




