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第三十一話③ レト(中編②)


 レトの体が震えた。自然と、両目から涙が零れてきた。


 もう助からないと思っていた母が、助かった。まともに動くこともできなかったのに、以前のように立ち上がった。


「……お母さん……」


 ゆっくりと、レトは母に手を伸ばした。まだ十二歳のレト。背丈は、母より小さい。震える手を、彼女の背中に伸ばした。そのまま、静かに抱きついた。母の体調がよくないという考えが染みついていて、力一杯抱き締めるのが憚られた。だから、静かに、そっと抱きついた。


「おかあさん」

「レト」


 レトよりも強い力で、母が抱き返してきた。彼女の声も、涙声になっていた。


「ごめんね、レト。心配かけてごめんね。苦労させてごめんね」

「お母さん。よかった……お母さん」


 レトの目から、止めどなく涙が溢れてきた。母はもう助からないと思っていた。大切な人を失う恐怖に、日々怯えていた。弱っていく母を見ているのが辛くて。でも、目を離すこともできなくて。毎日毎日、吐き気がするほど悲しくて、苦しかった。


 でも、母は助かった。皇帝が助けてくれた。


 レトはもう、ロキが皇帝であることに疑いを持たなかった。フェイタル病を治したのだから。


 母は完治した。今の母を見て、レトはそう信じ切っていた。ほんの少し前に、ロキが言ったばかりなのに。


「感激してるところで悪いけど、いいかな?」


 抱き合うレトとマセリアに、ロキが声を掛けてきた。


「さっきも言ったけど、マセリアのフェイタル病は完治したわけじゃない」

「!」


 言われて、ようやくレトは思い出した。先ほどのロキのセリフ。


『今すぐ完治させることはできない』


 レトは母から体を離した。涙を拭きもせずに、ロキをじっと見つめた。


 母もロキを見つめていた。


「とりあえず、マセリア。君は少し横になってて。まだ体調は完全じゃないはずだから。今までに比べたらずっと良くなっただけで」

「……はい」


 言われた通り、母はベッドに戻った。


「それで、レト」

「はい?」

「お前に大事な話がある。マセリアを――お前の母親を助けるために必要な話だ。少し込み入った話になるから、ついてきて欲しい」

「……」


 ちらりと、レトは母を見た。

 母はどこか不安そうな顔を見せていた。


 母の病気は完治したわけではない。つまり、まだ治療が必要な身なのだ。そんな彼女に、不安そうな様子は見せたくない。レトはゴシゴシと涙を拭き、母に笑顔を向けた。


「お母さん、よかったね。今はまだ完治じゃなくても、お母さんは治るんだよ。私も頑張るから、お母さんも頑張って」


 母は何も言わなかった。不安を隠すように、少しだけ微笑んだ。


「じゃあ行くよ、レト」

「はい」


 レトはロキに連れられ、家から出た。しばらく歩き、村を出て森に入った。周囲にひと気はない。鳥の鳴き声が、遠くから聞える。


「この辺りでいいか」


 独り言を呟き、ロキは足を止めた。

 レトも足を止めた。ロキと向き合う。

 ロキはもったいぶることなく、いきなり本題に入った。


「で、レト。母親を助けたいか?」

「はい」


 一瞬の間もおかず、レトは頷いた。母を助けたい。当たり前だ。大事な、世界でたった一人の母なのだから。


「俺なら、お前の母親を助けられる。それは、さっきの魔法を見て分かっただろう?」

「はい」

「といっても、俺は慈善事業者じゃない。確かに俺はこの国の皇帝だが、国民一人一人を情だけで助けたりしない。だから俺は、お前に見返りを求める。お前には、俺のために働いて貰う」

「私が……?」


 もちろんレトは、母を助けるためなら何でもするつもりだった。どんな仕事でもするつもりだった。けれど、腑に落ちないことがある。あれほど圧倒的な魔力と魔法を使えるロキが、レトに何をさせるつもりなのか。そもそも、レトにできることなら、ロキにだってできるはずだ。わざわざレトを使う意味がわからない。


「お前は、トレフォイル大陸の三国が、二〇〇年ほども戦争を続けているのは知っているかい?」

「はい。ただ、私が生まれる前から、もうずっと、大きな戦いは起こってないって聞いてます」

「そう。ずっと小競合い程度で、戦争を続ける意味さえないような状態だ。ただそれは、和平を考えてるからじゃない。敵国に攻め込むリスクに尻込みしてるからだ」

「?」


 レトは首を傾げた。ロキの話を理解できない。

 レトの心情を察したのか、ロキは丁寧に説明してくれた。


 三国には、皇帝が呼び寄せた召喚者が一人ずついる。圧倒的な力を持つ召喚者が戦いの前線に立てば、目の前の敵を蹴散らすことは可能だ。だが、召喚者同士が戦い、自国の召喚者が死んだらどうなるか。召喚者を失った自国は、戦争において不利になる。皇帝が新しい召喚者を呼び寄せたとしても、その新しい召喚者が戦場に立てるようになるまで、それなりに時間がかかる。


 リスクを恐れているから、なかなか攻め込めない。侵略したいのにできず、かといって和平をする気もない。それが今の状況。


「だからレトには、その均衡を破る役割をしてもらう。これからさらに魔術を磨いて、召喚者の付き人として働けるようになってもらう」

「付き人、ですか?」

「そう。召喚者を転移させたら、この世界を案内し、戦う訓練をさせ、かつ、召喚者のモチベーションを上げる役割。召喚者が敵国を制圧するために、どんなことでもしてもらう」


 どんなことでも。話を聞いた時点で、レトは、ロキの言葉の意味を理解していなかった。彼の言葉を正しく理解するには、この頃のレトは幼すぎた。


 ただ一つ、言えるのは。


 レトは、母を助けるためなら何でもする。死と隣り合わせの戦場に出ることさえも。


 レトの意思を確かめるように、ロキが訊いてきた。


「やれる?」

「はい」


 迷うことなく、レトは頷いた。


 その日からすぐに、ロキによる魔術の指導が開始された。圧倒的な魔力と魔術、魔法を使える彼に教わることで、レトの能力は瞬く間に伸びた。村一番の魔術師、という程度ではない。世界でも指折りの魔術師というレベルまで。


 訓練の日々を過ごし、レトの体も少しずつ大人になっていった。ロキと出会った頃は十二歳だったが、魔術師として完成する頃には、十五歳になっていた。まだまだ成長する年頃だが、成熟しているといってもいい体。


 当然、性のことも知識として知るようになった。

 この頃になると、レトは、もう理解していた。ロキの、当初の言葉の意味。


『召喚者のモチベーションを上げる役割。召喚者が敵国を制圧するためには、どんなことでもしてもらう』


 ロキは、基本的に男を召喚者として呼び寄せる。


 男のモチベーションを上げるにはどうしたらいいか。人間離れした能力があるといっても、誰もが命は惜しいし、大変な思いも痛い思いもしたくない。けれど男は、ある報酬があれば、多少の危険も痛みも乗り越えようとする。


 自分の欲求を満たせるという報酬があれば。


 魔術とともに、レトは、男の惑わせ方もロキに教えられた。レトの初めての相手は、ロキだった。破瓜の痛みの中では、男を悦ばせることなどできない。だから、痛みを感じなくなり、男を溺れさせることができるようになるまで、何度も仕込まれた。彼に渡された薬を飲めば、妊娠することもなかった。その薬も、魔法によって作り出したのだという。


 もっとも、セックスは可能であっても、ロキに生殖能力はないそうだが。


 レトが十六歳になった頃。


 ノース王国の召喚者が死んだ。一度も敵国に攻め込むこともなく。召喚者という地位に胡座をかき、欲望の限りを尽くして。死因は老衰と言われている。もっとも、召喚者はまだ三十にもなっていなかったのだが。


 強大な魔力を持つ皇帝でも、召喚者は一人しか召喚できない。三国とも、これは共通らしい。その理由を、レトはロキに聞いたことがある。


「魔力の問題だよ。皇帝の魔力でも、召喚者を一人以上転移させるのは難しいんだ」


 ロキの回答に違和感を覚えたが、彼がそう言うなら信じるしかない。レトはそれ以上追求しなかった。


 召喚者が死んだ。ロキは、新たな召喚者を転移させることが可能になった。すぐに彼は、転移の魔法を使った。


 ロキの前に、転移してきた召喚者が現われた。ロキと召喚者は、レトの知らない言語で少しだけ会話を交わした。


 会話が終わると、ロキは、召喚者に魔法を掛けた。召喚者が、この世界の言葉を話し始めた。言語を共有できる魔法を掛けたのだという。どんな原理の魔法なのか――そもそも、魔法の原理自体が、レトにはまったく分からない。


 召喚者はシュウと名乗った。彼によると、ロキと自己紹介をし合った後、この国ではそう名乗るように言われたそうだ。本名は訊かなかった。正直なところ、興味がなかった。


「それより、本当だろうな?」


 少し会話をした後、シュウが訊いてきた。


「何が?」

「ロキから聞いた。敵国に攻め込んで、実績を上げれば、お前を好きにしていいんだな?」


 シュウは、美男と言っていい顔立ちをしていた。けれど、彼の目は薄汚い欲望に満ちていた。早速、レトの体を舐め回すように見ていた。


 召喚者の付き人になる。そのためにレトは、今まで訓練を重ねてきた。魔術の訓練だけではなく、男を悦ばせる訓練も。


 母には言えない仕事。喜びなど微塵もなく、自分でも惨めだと思える仕事。でも、母を助けるために避けて通れない道。


 今まで育ててくれた、お母さん。大好きで大切な、お母さん。


 お母さんを助けたい。

 だから。


 レトは、自分の心を殺した。


 シュウの言葉に、レトは頷いた。


「ええ。好きにして。ただし、成果を上げてからね。いくら召喚者といっても、訓練しないと戦えるようにはならない。だから、敵国を滅ぼせる力を身に付けてもらう」


 言って、レトは艶っぽく微笑んだ。男を惑わす娼婦のように。


「成果を上げたら、楽しませてあげる。あなたがしたいことをすればいいし、何なら、私があなたを悦ばせてあげる」


 十六歳の少女とは思えない挑発。表情。口調。全て、ロキから教わったものだ。


 シュウは見事に乗ってくれた。


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