第三十一話② レト(中編①)
だが、幸せは、ある日突如壊れた。
レトが十二歳のとき。
母が病に倒れた。農作業中に、足から力が抜けたようにグラグラと体を揺らし、その場に崩れ落ちた。立ち上がろうとして体を起こすと、まるで赤ん坊のように転がった。
村の常駐兵に連れられ、母は至急で街に運ばれた。大都市で、優秀な医者の診断を受けた。母は、村人だけではなく、村に常駐している兵にすら慕われる存在になっていた。
だからこそ、母の病名を知らされたとき、誰もが心を沈ませた。それこそ、この世の終わりを告げるように。
フェイタル病。トレフォイル大陸でごく稀に罹る人がいる、不治の病。発症例が少なく研究が進みにくいせいで、現代医学では治療法が確立されていない。当然、回復魔術も効かない。発病直後は突如足腰が立たなくなり、歩くことさえ困難になる。徐々に、全身の機能が低下してゆく。病の進行は早く、早ければ半年、遅くとも一年で全身の機能が停止して死に至る。
レトは必死に、医者に縋った。助けて。お母さんを助けて。幼い顔を涙でいっぱいにし、クシャクシャに歪ませ、助けてと訴え続けた。
でも、どうにもならない。
自分の状況を悟った母は、村に帰ることを望んだ。
「夫と暮した村に戻りたい。レトを授かって、レトと一緒に生きた村で死にたい」
常駐兵は、母を村に連れ帰った。もちろん、レトも一緒に。
「レト。お母さんと一緒にいて」
母の願いを、断れるはずがなかった。
その日からレトは、母から片時も離れなかった。母に食事を摂らせ、世話をし、彼女が弱気になると手を握った。
「ごめんね、レト」
弱気になり、謝ってばかりの母に、レトはいつも伝えていた。
「お母さんのこと大好きだから、一緒にいられればいいの」
母がフェイタル病を煩ってから、一か月ほどが経った頃。太陽の日差しが家の中に差し込む昼間。
レトの家に、一人の男が尋ねてきた。こんな村には似つかわしくない、丁寧に仕立ててある宮廷服。黒の布地に、綺麗な金の刺繍。ショートボブの、茶色が混じった金髪。珍しい――というより、一度も見たことがない髪色。体はそれほど大きくない。でも、幼いレトにも分かるほど、大きな存在感と重圧。
レトはとっさに、両手を広げて母の前に立った。彼女を守るために。
男は苦笑した。
「そんなに警戒するなよ。俺は、お前の母親を助けるために来たんだ」
レトは信じなかった。
「嘘! だって、お母さんはフェイタル病だもん! 絶対に治せないって……」
言って、母の死が日に日に近付くことを実感して、悲しくなった。でも、せめて最後まで生きていてほしかった。だから守りたかった。
「あなた誰なの!?」
レトの質問に、男は薄い笑みを浮かべた。
「俺はロキ。この国の皇帝だ」
皇帝。その地位は、レトも聞いたことがある。この国において、国王よりも上の地位。ノース王国だけではなく、サウスウェストにもサウスイーストにも皇帝がいる。強大な力と圧倒的な魔力を持つ、国を統べる者。魔術とは違う「魔法」を使い、異世界から英雄を――召喚者を呼び寄せる者。
十二歳になっていたレトは、自分の中の常識を口にした。
「嘘! 皇帝陛下がこんなところに来るはずがない! 国王陛下だって、皇帝陛下には滅多に会えないんだから!」
皇帝は、国王の前にさえ滅多に現われない。レトが、以前常駐兵から聞いた話だ。この村以外の世界をほとんど知らないレトにとって、常駐兵の話は、世界の常識になっていた。彼等は、この村よりもはるかに大きな都市から来ているのだから。
皇帝と名乗る男――ロキは苦笑した。
「まあ、確かに俺は、国王にも滅多に会わないけどね。色々忙しいし。でも、別に引きこもってるわけじゃないから。辺鄙な村にも、必要があれば出向くんだよ」
ロキは、右手をレトに差し出してきた。握手を求めるように。とはいえ、彼からレトまでの距離は三メートルほどもある。手が届く距離ではない。
ロキが動いた瞬間に、レトは両手を突き出した。戦闘態勢。風の魔術を紡ぐ。いつでも攻撃できるように。
「そうだ」
ロキは笑みの形を変えた。苦笑から、微笑みへ。
「その魔術を俺に撃ってみなよ。一瞬で無効化してあげる。それくらいの力を見せたら、俺が皇帝だって信じてくれるだろ?」
ロキは、差し出した右手を引っ込めた。両手を後ろで組み、無防備な体勢を取る。
「さらに俺は、両手を突き出すこともしない。俺くらいの魔力があれば、お前の魔術を無効化するのは簡単だからな。手で魔術を使う必要もない」
「……」
少なからず、レトは苛ついた。
レトは、村一番の魔術師だ。回復魔術だって使える。常駐している兵にも誉められた。都市に出ても通じる魔術師だ、と。
目の前には、皇帝を名乗る怪しい男。しかも、挑発してきている。攻撃しない理由も、手加減する理由もない。
レトは全力で魔術を放った。人間の体を両断できるほどの力を込めて。
風の魔術の残留で、レトの髪の毛がなびいた。空気を切り裂き、鋭い刃となった魔術がロキに向う。
直後、強風が家の中に吹いた。家を揺らすほどの風。ガタガタと家鳴りがした。母が寝ているベッドでは、布団が強風で煽られた。体に力が入らない母が、「キャッ」と悲鳴を上げた。
魔術を受けたロキは、まったくの無傷だった。髪の毛が少し乱れたくらいか。後ろで組んでいた両手を解いた。乱れた髪の毛を整える。
「なかなかいい魔術だった。レト、っていったね。その歳でそれだけの魔術が使えるのは、才能だ」
レトは何も言えなかった。目を見開き、ただ驚いていた。頭の中には、疑問が渦巻いていた。
どうしてロキは無傷なのか。本当に皇帝なのか。どうして彼は、レトの名を知っているのか。
「とりあえず、俺が皇帝だって信じてくれたか?」
レトは何も言えなかった。ただじっと、ロキを見ていた。
レトの沈黙を肯定と判断したのか、ロキは続けた。
「さっきも言った通り、俺はお前の母親を助けに来たんだ。フェイタル病らしいね」
無言で、レトは頷いた。ロキが皇帝だということに対しては、半信半疑だ。だが、彼が強力な魔力と魔術を持っていることだけは間違いない。だとしたら、もしかしたら、本当に母を助けることができるかも知れない。
「……本当に、お母さんを助けてくれるの?」
「ああ」
ロキが近付いてきた。
レトはもう、構えなかった。ただ、希望に縋っていた。お母さんを助けて欲しい。また、元気なお母さんと幸せに暮したい。もっともっと魔術を磨いて、お母さんの役に立てるようになって、いっぱい親孝行したい。お父さんの分までお母さんを支えたい。笑顔にしたい。
ロキが、ベッドの前に立った。
母は、どこか戸惑うような顔でロキとレトを見ている。
「マセリア、だったよね? 君のことも調べた。辺鄙な村に住む、魔術の天才少女――レトの母親。夫を早くに亡くした。今は、レトと二人暮らし。一か月ほど前に、フェイタル病に罹った。そうだろ?」
「……はい」
マセリアは、母の名前だ。言葉の通り、ロキはレト達親子のことを知っているようだ。
ロキは、母に対して右手を掲げた。
「今すぐ完治させることはできない。でも、症状を和らげて、普通の生活をする程度には回復させられる」
ボワッと、ロキの右手が淡い光に包まれた。回復魔術の光に似ている。でも、どこか違う。魔術ではないような気がする。
「……魔法?」
無意識のうちに、レトの口から心の声が漏れた。
「そうだ」
レトの疑問に答えつつ、ロキは十秒ほど、母に魔法をかけ続けた。彼の右手から、魔法の光が消えた。
「これで、体は普通に動くはずだ。マセリア、立ってごらん」
「あ……はい」
戸惑いながら、母は、ベッドの上で上半身を起こした。元気なときのように、自然に動いていた。フェイタル病になってから、自分で上半身を起こすこともできなかったのに。自分の体の調子に、母自身が驚いた様子を見せた。ベッドから足を下ろし、立ち上がる。何の違和感もなく、自然にベッドから降りた。
「嘘……」
母がポツリと呟いた。寝言のように、ボンヤリとした声だった。




