第十三話① イチヤとレト(前編)
イチヤ達が案内されたのは、客室として使われている部屋だった。パスティオン邸には、仕事上で関係のある貴族がしばしば泊まりに来るという。その際に利用している部屋。
レトがシュウをパスティオン邸に連れてきたときも、この部屋を使ったらしい。広さは、パスティオンの書斎と概ね同じくらい。部屋の端には、日本の価値観で言うキングサイズのベッド。ドアから少し離れた場所にソファーがあり、その手前に低いテーブルがある。テーブルの上には、水差しとコップが二つ。
室内は、複数のランプで淡く照らされている。
「今晩一晩、ご自由におくつろぎください」
イチヤ達に頭を下げ、使用人は退室した。
背中に掛けた剣を外し、イチヤはソファーに座り込んだ。大きく息をつく。
レトもソファーに腰を降ろした。
「水、飲む?」
「ああ。ありがとう」
レトがコップに水を注いだ。
彼女からコップを受け取り、イチヤは、一口飲んでテーブルの上に置いた。ソファーに背を預け、これからのことを考える。
明日から城壁の外に出て、馬術や集団戦の訓練を受ける。本格的に戦争に参加する。それなのにイチヤは、不思議と恐怖を感じなかった。これから始まるのは、戦争なのに。命の奪い合いなのに。
恐怖を感じない理由を、イチヤは自覚していた。日本にいた頃は、ただ生きているだけだった。絶望し、何もかもがどうでもよくて、夢や希望など皆無だった。いつ死んでもいいと思っていた。
別に死んでもいいから、戦争で死ぬかも知れないことに、恐怖を感じない。
――それでも……。
怖くはない。ただ、この世界に来て、やりたいことができた。もし、望みを叶えられずに死ぬことになったら。その場合は、死の恐怖よりも悔しさを感じるのだろう。
イチヤは、頭の中でグルグルと考えを巡らせた。深く考えているから、無言だった。
イチヤと同じように、レトも無言だった。彼女が何を考えているかは、分からない。
部屋の中に、沈黙が続いた。とはいえそれは、気まずい沈黙ではなかった。
イチヤとレトが出会ったのは、この世界での半年前。元の世界の感覚でいえば、一年半ほどの時間を共にした。ほとんど毎日、一緒にいた。途中でレトが、一ヶ月ほど、私用でイチヤのもとを離れたことはあったが。
長い時間を共にしたことで、一緒にいるのが当たり前になったのかも知れない。だから、沈黙も苦痛ではない。
ややしばらく続いた沈黙。
最初に声を出したのは、レトだった。
「イチヤ」
「何だ?」
イチヤが声を返すと、レトはソファーから立ち上がり、ベッドに足を運んだ。ベッドに腰を降ろす。ポンポンと、ベッドを叩く。こっちに来い、ということだろう。
イチヤは立ち上がり、ベッドまで行って、レトの隣りに座った。
「で、何だ?」
「率直に聞くけど、本気で、サウスウェストを墜とすつもりはあるの?」
レトの様子は、いつもと変わらないように見える。冷淡な無表情。ただ、その目の力は、少しだけ強いように思えた。睨んでいると言っていいほど、じっとイチヤを見つめている。
「墜とす、って言葉が適切かは分からない。ただ俺は、サウスウェストに勝って、侵略をやめさせたいと思ってる」
「侵略された村を見たから?」
「そうだ」
「それなら、生温い考えは捨てて。ノースの征服下に置かない限り、サウスウェストとの戦争は終わらない。サウスウェストの国王を殺して、ノースとサウスウェストを統合しないと」
レトの言うことは間違いではないだろう。仮に戦争で勝ち、優位な条件で休戦協定を結んだとしても、破られる可能性はある。確実に戦争を終わらせるためには、サウスウェストの王を殺して、ノースがサウスウェストを吸収するのが一番確実だ。
「召喚者は戦争の要なんだから。イチヤが生温いことを考えてると、勝てる戦いも勝てなくなる」
言いながら、レトは立ち上がった。着ていたローブを脱ぎ、その場に放った。ローブの下に着ている上着にも手を掛け、脱ぎ捨てた。上半身が半裸になった。日本でいうブラジャーのような下着だけ残っている。その下着も、彼女は脱ぎ捨てた。上半身が裸になった。
「召喚者のモチベーションを上げるのは、国の課題なの。だから、男の召喚者には、能力の高い女の付き人があてがわれる。女の召喚者には、その逆」
色恋の感情を芽生えさせること。もしくは、情欲を刺激すること。それらは、人の意識を変える。報酬として色恋や情欲を満たせると知ったとき、人は、普段以上の力が出せる。
「欲望は、人に強い目的意識を持たせるから」
言いながら、レトは、下半身も全て脱いだ。全裸。
レトの言葉に補足するなら、召喚者の付き人になるのは眉目秀麗な者なのだろう。付き人が、召喚者の性的欲求や恋心を刺激する。欲望を、戦いへのモチベーションにする。
全裸になったレトは、イチヤの両肩に手を置いた。
「でもあなたは、私と寝なかった」
「だから、俺が本当にサウスウェストを墜とす気があるのか、半信半疑なのか?」
「そう」
レトは、前召喚者――シュウの付き人でもあった。つまり彼女は、シュウの欲求の捌け口になっていたのだ。体を使って彼に奉仕し、彼のやる気を引き出し、訓練や戦いに対して意欲を持たせた。
でもイチヤは、シュウとは違う。
「言っただろ。俺は、お前としなかったわけじゃない。できないんだ」
イチヤの目の前に、一糸纏わぬレトの姿。全裸の女。
女を目の前にすると、どうしても、過去の傷が刺激される。記憶が呼び起こされる。イチヤを貶めた、五味秀一のこと。下着姿で嘲笑う、青野千里のこと。彼等のせいで、学校中の笑いものになったこと。
でも、過去の傷はそれだけじゃない。
全校生徒のほとんどに蔑まれながらも、イチヤは高校に通い続けた。地元から離れた大学に進学すれば、またやり直せると思っていたから。だから、地獄のような高校生活に耐え続けた。
いつも誰かに笑われている気がする。いつでも誰かに嘲られている気がする。学校にいる間は、常に白い目を向けられている。同じクラスの生徒も、他のクラスの生徒も、違う学年の生徒も、教師すらも、自分を笑っている。そんな気になっていた。恐らく、自意識過剰になっていたのだろう。
それでも三年間耐え抜き、必死で勉強をし、地方の大学に合格することができた。三年間、勉強と読書だけを続けていたイチヤは、成績が非常によかった。進学先の大学は、日本でも屈指の有名大学だった。
実家を出て進学先でアパートを借り、大学生活をスタートさせた。
高校時代とは違い、毎日が楽しかった。友人もできた。バイトも始めた。もちろん、真面目に勉強もした。
二年になって、バイト先で知り合った女の子と付き合い始めた。本当の意味での、初めての恋人。彼女は、千里のような派手な美人ではない。だが、真面目で優しい子だった。
付き合い始めて二ヶ月が経ったとき。
彼女が、イチヤのアパートに遊びに来た。デートの帰り。夜。
「お父さんとお母さんには、友達の家に泊まるって言ってるの」
彼氏の家に泊まるときの、典型的な嘘。少し後ろめたそうな彼女が、愛しかった。
イチヤと彼女はベッドに倒れ込み、互いに裸になった。一糸纏わぬ姿で、触れ合おうとした。
その瞬間。
イチヤの耳の奥で、嘲笑が響いた。
五味と千里の笑い声。
『ドッキリ大成功じゃん! 見たか、千里。こいつ、すっかりその気になってただろ?』
『見た見た! ウケるー! 私が、あんたなんかとヤるわけなじゃん!』
耳を劈くバカ笑い。
笑い声の種類は、次第に増えていった。五味や千里から嘘を吹き込まれた奴等が、イチヤを批難し、同時に嘲笑う。
高校生活は地獄だった。地獄だったけど、大学生活を夢見て耐え切った。
……耐え切った、と思っていた。
けれど、五味と千里の陰湿な行為は、確実に、イチヤの心に傷を残していた。
裸の恋人と触れ合った瞬間に、イチヤは、貧血にも似た症状に陥った。呼吸が苦しくなり、景色が反転し、視界が急激に狭くなった。
そして、裸の彼女を前に、失神した。
その日以降、イチヤは、何度か彼女を抱こうとした。でも、駄目だった。失神したのは最初の日だけ。けれど、意識があっても、まったく勃起できなかった。
オナニーはできる。体に異常があるわけではない。
異常があるのは、心だった。どうしても、五味と千里の声が頭に響いた。
結局、彼女とは、気まずくなって別れた。大好きだったのに。大切にしたかったのに。これからずっと、一緒にいたかったのに。
彼女との別れは、イチヤに、一つの現実を突き付けた。
――俺はもう、一生、女を抱けないんだ。一生、女に縁がないんだ。一生、独り身なんだ。
大学生活を半分ほど残した時点で、イチヤは、恋人をつくることを諦めた。一生孤独に生きる覚悟を決めた。
とはいえ、その時点で、イチヤは孤独ではなかった。地元に残した両親がいた。せめて、いい会社に就職して、両親に恩返しがしたい。目一杯親孝行をしたい。
イチヤは、それまで以上に勉強や読書に励んだ。就職活動にも精を出した。新卒でもそれなりにいい給料がもらえる、一流企業に就職した。
一生独り身なのだから、たくさん貯金をしよう。両親に、色んなものをプレゼントしよう。
社会人になった男は、本来、自分の将来を考える。結婚、妻の出産、子育て、マイホームの購入、老後の生活資金。
本来考えるべきことを、イチヤは一切考えなかった。誰からも蔑まれた高校時代に、両親だけは味方をしてくれた。そんな彼等への恩返しだけ考えた。
しかし、イチヤの不幸はまだ続いた。
イチヤが両親に購入した新車。両親は喜び、二人でよくドライブに出掛けるようになった。旅行に行くときも、イチヤに買って貰った車で、ドライブを兼ねて行っていた。
その車で、両親は事故に遭った。居眠り運転のトラックに衝突された。
二人とも、即死だった。
両親の葬式のために、イチヤは地元に帰省した。遺体となった両親を見て、実感した。
もう、自分が生きている意味などない。生きる目的などない。
失意のまま会社を辞めた。数ヶ月間、引きこもった。貯金が尽きたから、適当に仕事を始めた。食品工場の製造員。最初は契約社員だった。給料は、驚くほど安かった。でも、最低限の生活ができればいいから、どうでもよかった。
いつの頃からか、仕事ぶりが認められた。正社員に登用された。適当に生きているだけなのに、主任に昇進する話が出た。どうでもいいという気分のまま、引き受けた。
適当に生きる毎日。ただ生きているだけ。ただ死なないだけ。
そんなふうに毎日を過ごしていたら、ある日、枕元にロキが現れた。夢だと思ったので、彼の言うことを適当に了承した。
気が付いたら、この世界にいた。ロキの言う通り、若返っていた。十五歳当時の自分。驚くことに、言葉も通じた。ロキによると、彼の魔法なのだという。魔術よりも高位の技術であるという、魔法。そのひとつである、召喚魔法。
召喚魔法で召喚した際に、この世界にある程度適応できるようにしているのだという。
イチヤは、この世界でも適当に生きるつもりだった。
適当に生きて、適当に戦って、適当なところで死ぬのも悪くない。どうせ自分には、何もないのだから。




