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第九話① ハイド(前編)


 レトに案内してもらった公園。

 階段の上にある噴水。

 噴水を背に、歌っている女性がいた。


 この歌声をもっとはっきり聞きたくて、イチヤは、レトにここまで案内してもらった。


 噴水からイチヤまで、距離にして三、四十メートルはある。それなのに、歌声がはっきりと耳に届く。男性以上の重厚さを感じさせる低音。そうかと思えば、女性でも発声が困難なほどの高音。広い音域を駆使した、美しい歌声。


 噴水の周囲には、大勢の人だかりができていた。誰もが、この歌声に聞き惚れているようだ。


「凄い……」


 レトが、彼女らしくない顔を見せた。驚きと感嘆が入り交じった表情。


「ああ。メチャクチャ上手いよな」

「ううん。そうじゃなくて――いや、それもあるんだけど」

「?」

「この歌声、風の魔術で音を運んでる。だから、屋外なのに、こんな遠くまではっきり聞こえるの」

「それって凄いのか?」

「信じられないくらいの高等技術。少なくとも、私には無理」


 レトは、皇帝だか国王だかに命じられて、イチヤの付き人をしている。つまり、それくらい腕の立つ魔術師だ。実際に、彼女の魔術は凄いと思う。この世界に来て半年ほどになるが、イチヤは、彼女以上の魔術師を見たことがない。


 そんなレトが、自分には無理と言うほどの魔術。


 加えて、この圧倒的な歌唱力。聴く者の魂さえ魅惑するような。心を奪ってしまうような。それでいて、胸に溜まった毒を浄化してくれるような。


 この歌声を、もっと近くで聴きたい。風の魔術で運ばれた声ではなく、そのままの声で。


「レト。周囲の人達の迷惑だろうけど、強引に前に行くぞ」

「はい?」


 日本にいた頃。イチヤは、無気力に生きていた。毎日適当に仕事をし、家に帰ると適当に時間を潰していた。食べて、本を読んで、寝る。朝になったら、また仕事に行く。休日は、ダラダラと過ごす。生きる目的もなければ希望もない。かといって、自殺するほど死を切望しているわけでもない。ただ生きているだけ。何かを強烈に求めることなどなかった。


 何もかもがどうでもよかったのだ。


 今、イチヤの耳に届く歌声。その紡がれた歌詞が。美しい声が。圧倒的な表現力が。イチヤの心に活力を与えた。欲望にも似た活力。何かを求める力。


 イチヤは強引に、人混みに押し入った。小柄ながら、イチヤの身体能力は、通常の人間の何倍もある。人混みを掻き分けて進むことなど、造作もないことだった。もちろん、押し退けた人達が将棋倒しにならないよう、注意を払っているが。


 イチヤの後に、レトがついてきている。小声で「ちょっと! イチヤ!」と批難めいた口調で呼び掛けてくるが、無視した。


 十メートルほども続く人混みを掻き分けて、イチヤは最前列に来た。歌っている女性までの距離は、概ね七、八メートルほど。


 彼女の姿が、はっきりと見えた。


 少し黒っぽい、長い金髪。エルフの特徴である髪色だ。しかし、耳は長くない。人族とエルフのハーフだろうか。身長はイチヤと同じくらい。彼女の顔立ちは、驚くほど整っていた。レトは美人だし、イニシオ村で助けたプリメラも可愛い顔立ちをしていたが、彼女達とはまったく種類の違う美人だった。「彫刻のよう」という表現が、これ以上ないほど当てはまる。


 女性は両手を広げ、今歌っている曲のクライマックスを彩った。突き抜けるように伸びる声。イチヤに押し退けられた人達も、彼女の歌声を前に、少し前までの不満など忘れているようだった。周囲の誰もが硬直し、彼女の歌に聴き惚れている。


 伸びゆく彼女の声が、少しずつ、その声量を小さくしてゆく。やがて、風に消える音のように、今の曲が終わった。


 途端に、周囲から歓声が上がった。


 彼女は有名人なのだろう。周囲で、彼女の名を叫ぶ人が大勢いた。


「ハイド!」

「ハイドー!!」


 どうやら彼女は、ハイドというらしい。男性のような名前だ。


「あれがハイドなんだ。初めて見た」


 隣りで、ポツリとレトが呟いた。


「レト、知ってるのか?」

「うん。有名な旅の歌人なの。芸術好きな貴族に囲われるわけでもなく、国内を転々として、色んな場所で公演してるんだって」

「へえ」

「ただ、どこにも現われない期間があるから、色んな噂があるの」

「噂?」

「うん。お金が必要な時以外は歌わないとか、公演をしてないときは放浪してるだけとか。眉唾な噂だと、サウスウェストとかサウスイーストに行って同じような活動をしてるとか」

「金って? 路上公演してる奴の歌を聴くのに、金がかかるのか?」

「投げ銭。だから、お金を払うか払わないかは自由なんだけどね。ほら、ハイドの横に、木箱があるでしょ?」


 確かにあった。縦横五十センチメートルほどの木箱。


「ハイドにまた来て欲しいから、高額な投げ銭をする人が後を絶たないみたい」

「へえ」


 一曲歌い終えたハイドは、噴水の壇上で、革製の水筒に入った水を飲んでいた。歌手だから、喉を大事にしているのだろう。水筒から口を離し、蓋を閉めると、集まった観客達に声を掛けてきた。風の魔術に乗った声が、はっきりと周囲に届く。


「えっと。ひとつ、みんなに頼みたいんだけど」


 イチヤの耳に届いた声は、あまりにハスキーだった。あれほどの高音を出せるとは思えないほどに。明らかに男性の声。驚きつつも、イチヤはレトに小声で訊いた。


「ハイドって男なのか?」

「そうだけど。明らかに男の名前じゃない」

「嘘だろ……」


 壇上にいるハイドは、絶世の美女と言えるほど美しい。とても男には見えない。


 ハイドは少しだけ苦笑した。視線が、イチヤの方を向いた。明確にハイドと視線が合った気がした。


 ハイドは話を続けた。


「俺の公演に来てくれるのは嬉しいし、俺の歌を聴きたいと思ってくれるのも嬉しいんだよ。だけど、周囲の人達に迷惑をかけるのはやめてくれないかな?」

「……」


 注意されてしまった。今のハイドの言葉は、間違いなく、イチヤに向かって言ったものだろう。


「俺も、可能な限り、集まってくれた皆に届くように歌うから」


 イチヤは少し身を縮め、周囲の人達に頭を下げた。ハイドの歌声を聞いて、すっかり冷静さを失っていた。それほど、彼の歌声は魅惑的で、強烈に心に入り込んできた。今さらだが、自分の行動が恥ずかしくなってきた。


「それじゃあ、次の曲にいくから」


 そう告げて、ハイドは大きく息を吸い込んだ。直後、周囲に、緩い風が通り抜けた。レトが言っていた、ハイドの風の魔術だろう。これに乗せて、またあの歌声が流れてくるのだ。


 力強く、濁りのない声が周囲に流れ始めた。直接胸を刺激してくるような、それでいて心地好い歌声。この歌声を聞いているだけで、心臓の鼓動が速くなるようだった。


 歌声に乗せて、歌詞が紡がれる。ハイドの圧倒的な表現力は、歌詞にある情景が目の前にあるかのように錯覚させた。


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