第九十八話 失う恐さに囚われるくらいなら
少しだけ、窓の外が明るくなってきた。もうすぐ夜が明けるのだろう。
母の――マセリアの部屋で。
ベッドの上で。
ゆっくりと、レトは上半身を起こした。目を細めて、隣りで眠るイチヤを見つめる。
昨夜、イチヤと寝た。
イチヤの寝顔は、幸せそうだった。満ち足りた顔で、気持ちよさそうに眠っている。
レトは、イチヤの頬を優しく撫でた。決して美形とは言えない、平凡な顔立ち。それでも、心の底から愛しい顔立ち。
ほんの数時間前の出来事を、レトは思い起こした。
イチヤが好きだと言ってくれた。慣れない手つきで、優しくレトに触れてくれた。彼の緊張と興奮を、確かに感じた。それでも彼は、ゆっくりと丁寧に体を重ねてきた。
レトの上で、イチヤは、どこか泣きそうな顔になっていた。苦しそうにも見えた。反面、嬉しくてたまらない、という表情にも見えた。
きっと、その全てがイチヤの本音なのだろう。
かつて恋人と思っていた女に貶められ、心に傷を負ったイチヤ。男性としての自尊心も尊厳もメチャクチャに壊され、男性不能になった。女性と愛し合う権利を奪われた。
でも、この世界に来て――イチヤにとっての異世界に来て、あるべき権利を取り戻せた。初めて、好きな人と愛し合うことができた。
イチヤがどんな気持ちだったのか、レトには、手に取るように分かった。
初めて、好きな人の温もりを知れた。
初めて、好きな人と肌を合わせることができた。
初めて、好きな人とひとつになれた。
レトも初めてだったのだ。屈辱も苦痛もなく、自ら望んで男性と肌を合わせたのは。
知らなかった。こんなに気持ちよくて、こんなにも幸せなことがこの世にあるなんて。
イチヤの頬に触れながら。じっと、彼の顔を見つめて。
彼を起こしたくないから、声は出さない。でも、唇が、動きだけで言葉を紡いだ。
「好き」
昨夜、イチヤが何度も言ってくれた言葉。
レトも、彼と同じ気持ちだった。
イチヤが好き。
好きだから、好きと言われて嬉しくて。好きだから、好きと言われて幸せで。好きだから、マセリアを失った哀しみを引き摺っていても、立ち上がれそうで。
だけど。
好きだから、好きと言われて悲しかった。
レトの手は、今、イチヤの頬に触れている。好きな人が、手の届く位置にいる。
手に入れることができる。
――でも……。
レトは父親の顔を知らない。産まれる前に亡くなってしまった。父親がいたらどんな生活だったのだろう、と想像することはあった。けれど、父親がいないことを悲しいと思ったことはなかった。辛いと思ったこともなかった。
だって、最初からいなかったから。
反面、マセリアを失うことは、これ以上ないほど辛かった。失いたくないから、ロキの言いなりになった。失う恐さに足掻き、失わないために必死だった。
マセリアの死で、レトは思い知った。
失うということは、手に入らないよりも辛いのだ。苦しく、悲しいのだ――と。
だから恐い。イチヤを手に入れた後に、失ってしまうのが。
イチヤは、レトのことを好きだと言ってくれた。だが、人の気持ちなど、移ろいゆくものだ。今大切なものが、未来でも大切だとは限らない。
ましてや、レトは、イチヤに嫌われてもおかしくない――というより、嫌われて当然の過去があるのだから。
さらに、イチヤはもう男性不能ではなくなった。好きな女を抱くことができる。気持ちを通じ合わせて、体を重ねることができる。
そんなイチヤが、これからも、今と変わらずレトを好きでいてくれるだろうか。
――そんなはずないよね。
レトは苦笑した。イチヤの気持ちが、いつまでも続くはずがない。
イチヤは、サウスウェストやサウスイーストの皇帝を討つ旅に出る。旅の途中で、色んな人に出会うだろう。色んな女性に出会うだろう。これからの出会いだけではなく、一緒に旅をする仲間に、プリメラもいる。
イチヤ達が残り二人の皇帝を討てたら、この大陸の戦争は終結する。イチヤは、戦争を終らせた英雄になる。
英雄になった彼の周囲には、旅をしているときよりも大勢の女性が集まるだろう。
そのときになったら。
――私を好きな気持ちなんて、絶対になくなるよね。
今、イチヤの気持ちを手に入れても。
いつか必ず、失うことになる。
手に入らないよりも、はるかに辛い思いをすることになる。
そんな恐さと辛さに苛まれて生きるくらいなら。
――それなら、もう……。
好きだから一緒にいたい。
本当は、旅が終わるまで一緒にいるつもりだった。
でも、もう一緒にいられない。
一緒にいたいけど、好きだから、手に入る前に消えてしまいたい。
レトはそっと、ベッドから抜け出した。脱ぎ捨てた服を着た。
窓の外では、少しずつ夜が明けてきている。少しずつ、光が部屋を照らし始めている。
服を着て、外に出られる程度に身支度を調えて。
明るくなってきた部屋で、もう一度、好きな人の寝顔を見つめて。
誰にも聞こえないような声で、レトはイチヤに伝えた。
「あなたに会えてよかった」
出会えて、一緒に旅をして。
一時だけでも、気持ちが通じ合えて。
それだけで十分。
マセリアの最後の言葉が、頭の中に浮かんだ。
『しあわせに、ね』
きっと今が、幸せの上限。これ以上望んだら、ただ苦しくなるだけ。
だから。
「さよなら、イチヤ」
さよなら。声にならない声とともに、涙が零れた。でも、口元には笑みを浮かべた。笑顔でイチヤと別れたかった。綺麗で幸せな思い出として、彼のことを心に刻みたかった。
部屋のドアに手をかけ、音が出ないようにそっと開いた。部屋から出て、静かに閉める。
部屋から出ると、足音が鳴らないように出口に向った。眠っているハイドの横を通り過ぎた。
出口まで来て。
ドアに手をかけて。
「レト」
突然、静かな声で名前を呼ばれた。
レトは肩を震わせた。驚きながら、声の方を向いた。
ハイドはその場で、上半身を起こしていた。
「ごめん、ハイド。起こしちゃった?」
ハイドと同じように、静かな声で訊いた。
「ううん。結構前から起きてた。どんなに音を抑えてても、聞こえるものは聞こえるからね」
「そう」
イチヤとの情事に気付かれていたようだが、特に恥ずかしさはなかった。
「で、レト。こんな早朝からどこに行くの?」
レトは顔を伏せた。精一杯微笑んで、嘘をついた。
「ちょっと散歩に」
ハイドは、じっとレトを見つめている。全てを見透かしたような目で。
「どこまで散歩に行くの?」
「……」
どこまで――ハイドの言葉で、レトは察した。彼は、レトの意図に気付いている。その勘の鋭さは、吸血鬼という超人的な生物だからか。それとも、何百年も生きてきた経験からか。
微笑みを消して、レトは曖昧に答えた。
「ちょっと遠くまで」
「いいの?」
イチヤと離れ離れになってもいいの?――主語がなくても、ハイドの質問の意味が分かる。
「いいの。私が行きたいから」
答えて、ふと、レトは思い出した。ハイドが歌う曲の歌詞。フロンティアで初めて聴いて、マセリアの前でも歌ってくれた曲。
何年経っても歳を取らない吸血鬼が、当たり前に歳を取るエルフと両想いになる歌詞。
「ねえ、ハイド」
「何?」
「あなたの曲――吸血鬼の少年と、エルフの女の子が両想いになる曲だけど」
「うん」
「あの曲の結末で、二人が結ばれたとして。何年も経った後に、エルフの女の子は何を思うのかな?」
「何を、って?」
「吸血鬼の少年は、確かにエルフの女の子が好きなんだと思う。一途で、エルフの女の子がどんなに年老いても、愛し続けると思う」
吸血鬼の少年の気持ちは変らない。とはいえ、彼の気持ちが分かるのは、彼自身だけだ。
「エルフの女の子は、歳を取るたびに不安になるんじゃない? 吸血鬼の少年が心変わりするんじゃないか、って。若い子に心変わりするんじゃないか。いつか自分は捨てられるんじゃないか、って」
「……さあ。どうだろうね。吸血鬼の少年は、どんなことがあっても、エルフの女の子を繋ぎ止めようとするだろうけど」
「でも、繋ぎ止められれば繋ぎ止められるほど、エルフの女の子は苦しくなるのかも知れないよ。愛しているからこそ、不安で辛いの」
「……そうかもね」
どこか納得いかない様子で、だけど反論の言葉も口にせず、ハイドは再び横になった。
「俺は何も見なかったことにするよ」
「ありがとう」
「でもね、レト」
「うん」
「今は無理だろうけど――もう少し経って、色々と見つめ直して。もし、気持ちが落ち着いたら。落ち着いたときに、もう一回会えたら。そのときは、しっかり向き合ってあげたら?」
「……」
たぶん、イチヤに会うことは二度とない。この大陸でたった一人の人間を見つけ出すことなど、不可能に等しい。
不可能だと思えたから、安易に言えた。
「もう一回、会えたらね」
家のドアを開く。朝日が昇りかけている。家の外に足を踏み出す。
外に出て、レトは静かにドアを閉めた。
※次回更新は明日(11/2)を予定しています




