第九十七話 45歳童貞、好きな人と
ロキの死後一五四日目。
マセリアが亡くなってから、寝るときの部屋割りを変えた。レトはマセリアの部屋。プリメラはレトの部屋。イチヤとハイドはリビングダイニングのまま。
真夜中。
イチヤ達は、もう眠りに就いていた。家の中にあるランプを全て消し、光源は、窓から差し込む月明かりだけになっている。
ふと、イチヤは目を覚ました。キシッと、木製の床板が音を鳴らしていた。誰かの足音。静かに歩いていても、どうしても鳴ってしまう音。
薄らと、イチヤは目を開けた。眠い。とはいえ、家の中を歩く音は気になる。
イチヤの横を、ゆっくりと足が通り過ぎてゆく。開けた薄目で、誰の足なのかを確認する。
月明かりに照らされた影。レトだった。家の出口に向って歩いてゆく。そっとドアを開け、家から出て行った。
トイレだろうか。だとしたら、出て行ったことに気付かない振りをして、このまま眠った方がいいだろう。
だが、レトの姿を見て、イチヤの目は完全に覚めてしまった。
レトは、イチヤ達に付いて来てくれると言った。一緒に、皇帝討伐の旅に出てくれる、と。
レトと一緒にいられるのは嬉しい。反面、彼女の心持ちが気掛かりだった。彼女は、最愛の母親を亡くしたばかりだ。
レトは十二のときから、母親を助けるためだけに生きてきた。それなのに、失ってしまった。その悲しみや喪失感は、計り知れない。昔、両親を一度に亡くしたイチヤには、彼女の気持ちが少しだけ分かる。
両親を亡くしたとき、イチヤも苦しんだ。一生をかけて親孝行をするつもりだったのに。男性不能の自分では、結婚することも、孫を見せることもできない。それならせめて、自分の人生を親孝行のためだけに使いたかった。
それなのに、亡くしてしまった。
音を立てないように、イチヤは起き上がった。隣りを見ると、ハイドが眠っていた。目を覚ます様子はない。
そっと立ち上がる。そろりそろりと、出口まで足を運ぶ。ドアに手をかけ、ゆっくり静かに開く。
外に出た。空には雲一つ見当たらなかった。綺麗な月が見える。この世界の月も、元の世界とほとんど同じ外見だった。大きさも形も、満ち欠けがあることも。
ただ、今日の月は、やたらと大きく見えた。大きく、明るかった。
家から出て、イチヤはトイレの方を見た。トイレの前でレトを待つのは、あまりにデリカシーがない気がした。では、どこで待てばいいだろう。
「……ん」
どこからか、声が聞こえた。女性の声。
この家の裏からだ。
誰の声なのか、考えるまでもなかった。聞き間違えるはずもなかった。
これは、レトの声だ。家の裏側から――マセリアの墓の方から聞こえた。
レトの声に吸い込まれるように、イチヤの足は動き出した。マセリアの墓の方へ進んでゆく。
灰色の墓石。レトが魔術で石を作り、イチヤが形を整え、マセリアの名を刻んだ。墓石の下には、棺に入ったマセリアが眠っている。
墓の前で、レトは佇んでいた。両膝を地面につき、じっと、石に刻まれたマセリアの名を見ている。
もしかして、マセリアが亡くなってから毎日、こうしているのだろうか。母親との別れを悲しんでいるのだろうか。
レトの頬に、涙が流れた。月明かりを反射する、一筋の線。
「あ……」
レトの涙を見て、つい、イチヤは声を漏らしてしまった。何かを言いたくて、声が出た。でも、何を言えばいいか分からず、声だけが漏れた。
イチヤの声に気付いて、レトがこちらを見た。少しだけ驚いた顔をしていた。
ほんの数秒、イチヤと見つめ合った後。レトは慌てて、涙を拭いた。
「もしかして、起こしちゃった?」
涙の跡が残る顔で、レトは苦笑を浮かべた。
ゆっくりと、イチヤはレトに近付いた。
「毎日こうしてるのか?」
訊きながら、イチヤも、墓の前で両膝をついた。両手を合せ、目を閉じた。
「うん。召喚者の付き人をするようになってから、たまにしかお母さんに会えなかったから。だから、出発前に、できるだけ一緒にいたくて」
「そうか」
イチヤは目を開け、合わせていた手を離した。
「なあ、レト」
「何?」
「本当にいいのか?」
「何が?」
「俺達と一緒に行くのが」
「私がいると、邪魔?」
心外なことを言われて、イチヤは、レトの方に目を向けた。
レトもイチヤを見ていた。
目と目が合った。
レトの瞳が、月明かりに照らされている。涙の跡を残している彼女。
「……」
不謹慎だと自覚しながらも、イチヤはレトに見取れてしまった。悲しい涙が、瞳に残っている。彼女の姿を、綺麗だと思った。誰よりも綺麗で、誰よりも純粋で、誰よりも儚げで。
誰よりも愛しいと思った。
イチヤ自身は、ただレトに見取れているだけのつもりだった。見ているだけのつもりだったのに、レトが、少しずつ近付いてきた。近付き、顔全体が見えなくなるくらいに接近した。体と体が触れ合った。
レトの背中に回した、自分の手を見て。イチヤは、ようやく自覚した。無意識のうちに、彼女を抱き締めてしまったのだと。
「邪魔なわけないだろ」
抱き締めたまま、イチヤはレトの質問に答えた。
「一緒に来て欲しい。これからも、一緒にいてほしい」
イチヤの腕の中で、一瞬だけ、レトが震えた気がした。
構わず、イチヤは続けた。
「でも、レトは、マセリアさんを亡くしたばかりで……辛かったり、喪失感に苦しんだりしてて……」
マセリアを失い、涙を流していたレト。イチヤ自身も、親を失う辛さは知っている。だから、何か言葉をかけたかった。彼女の悲しみに、寄り添いたかった。
だけど――
「ごめん、レト。俺は、レトを慰められるようなことが言えない。何を言えばいいか分からない」
「……」
レトはイチヤから体を離した。悲しそうなまま微笑んで、首を横に振った。
「私は、私が選んだ通りにしただけ。だから謝らなくていい」
レトの言葉が止まった。まっすぐにイチヤを見つめる目。
「私は……」
また、レトの瞳から涙が流れてきた。「私は」の後に、言葉が続かない。彼女が何を言おうとしたのか、イチヤには分からない。
レトの言葉の続きを待たずに、イチヤは伝えた。今の自分に伝えられる、精一杯の気持ち。
「俺には、レトを慰める方法なんて分からない。悲しを癒すことも、たぶんできない。だから、支えさせてくれないか?」
月明かり。レトの頬を濡らす涙。まっすぐ見つめてくる瞳。震える肩。彼女の全てを、包み込みたかった。
「辛いときは、俺に寄り掛かってくれないか? 俺が、ずっと支えるから」
恋愛の仕方など忘れてしまったイチヤの、精一杯の告白。
レトの瞳が揺れた。涙は流れ続けている。彼女はそっと手を伸ばして、イチヤの手を握ってきた。
「私に寄り添ってくれる?」
イチヤは、レトの手を握り返した。
「ああ」
イチヤが頷くと、レトが手を引いてきた。
「それじゃあ、一緒に来てくれる?」
「どこに?」
「いいから。お願い」
「?」
イチヤの手を引いて、レトは歩き出した。家のドアの前まで来て、そっと開けた。音を立てないように、ゆっくりと。
忍び足で、眠っているハイドの横を通り過ぎる。マセリアの部屋の前まで来て、ドアを静かに開けた。部屋に入ると、そっとドアを閉めた。
部屋で二人きりになった。
レトはイチヤに抱きついてきた。そのまま、ベッドに倒れ込んだ。抱き合ったまま、ベッドに横になった。
「お願い。何もしなくていいから、こうしていて」
レトは、イチヤが男性不能だと知っている。だからだろう、抱き合う以上のことは求めてこなかった。
「わかった」
ベッドの上で、イチヤもレトを抱き締めた。
服の上からだが、レトの温もりを感じる。息遣いが聞こえる。彼女の身長はイチヤと同じくらいなのに、こうして抱き締めると、凄く小さく感じた。
本当は、裸になってレトを抱き締めたかった。裸になったレトを抱き締めたかった。彼女との距離を、もっと縮めたい。ゼロどころじゃなく、もっと距離のないところまで踏み込みたかった。
体と体で交わることができない。男性不能であることが、今までのどの瞬間よりも悔しい。大学生のときに、大好きだった彼女を抱けなかったときよりも。
「レト」
彼女の耳元で名を呼んだ。
「イチヤ」
レトの唇が、イチヤの耳元で動いた。
その、直後だった。
ピクンッと、レトの体が動いた。何かに驚いたように。
イチヤは、レトが驚いた理由に気付いていた。イチヤ自身も驚いていた。
「イチヤ。これ……」
「ああ……」
自分の体の一部が、レトに押し付けられている。男性不能のままならば、ありえない感触。
「……なんか、治ったみたいだ。信じられないし、どうして治ったのかも分からないけど」
イチヤの男性不能が、突如治った。
少しだけ体を離して、イチヤはレトと見つめ合った。互いに顔を見合わせて、静かに笑った。笑って、おでことおでこをくっ付けた。
おでこをくっ付けて、見つめ合って。
相手の瞳が、互いの瞳に映っていて。
大好きな人と、見つめ合っている。
大好きな人の瞳に、自分が映っている。
いつの間にか、笑みが消えた。
笑みが消えると、そっと唇を重ねた。
軽く触れ合うキス。唇を触れ合って、離して、また触れ合って。触れ合うたびに、触れ合うだけではいられなくなって。
深く永いキスをして。
温かい吐息が感じられる距離。
唇を触れ合わせながら、レトが囁いた。
「ハイドとプリメラが寝てるから、静かにね」
「わかってる」
また、唇を重ねる。優しく、互いの服を脱がし合う。裸になって。肌が触れ合って。レトの体温が心地好くて。
初めて、好きな人と重なった。好きな人と一つになる喜びを知った。
声を抑えながらも、イチヤは、言わずにはいられなかった。意識しなくても、気持ちが口から漏れ出した。
「好きだ」
静かに、温かな夜が更けていった。
※次回更新は明日(11/1)を予定しています




