第九十四話 お願い
ロキの死から一一二日経った。
マセリアの病状は、少しずつ、でも確実に悪化していた。ロキの魔法の痕跡から、苦痛を取り除き、体を動かせるようにはしていた。それでも、ロキの死後一〇〇日を過ぎた頃には、自力で立ち上がれなくなった。
レトは、付きっきりでマセリアの介護をしている
プリメラは、ハイドのサポートとレトの手伝いを並行していた。
魔術すら使えないイチヤに、できることは少ない。狩りをし、村人から教わって畑仕事をし、家事全般を行っている。
ハイドは、ロキの魔法の痕跡を辿り、フェイタル病の進行を遅らせようと何度も試みた。
けれど、どうしても、ロキの魔法を再現できない。病は従来通りに進行し、マセリアの死は確実に近付いていた。
夜。
マセリアが食べられるように、イチヤは、流動食状にした食事を用意した。スプーンと一緒にトレイに乗せて運び、マセリアの部屋のドアをノックする。
「食事が用意できたけど。入って大丈夫か?」
「少しだけ待って。今、お母さんの体を拭いてるから」
マセリアは、もう水浴びもできない。レトが毎日服を脱がせ、体を拭いている。
しばらくして、部屋の中から声をかけられた。
「いいよ。入って」
イチヤは部屋のドアを開けた。
ベッドに横になっているマセリア。彼女の手を握るレト。
マセリアの顔は穏やかで、でも、どこか悲しそうだった。首だけを動かしてイチヤの方を見ると、心底申し訳なさそうに言ってきた。
「ごめんなさいね、イチヤさん。お客様なのに。本当は、私がもてなさないといけないのに」
トレイを持ち、イチヤはベッドに近付いた。食事が乗ったトレイをレトに渡し、空いた手で、マセリアの上半身を抱え上げた。
「レトは俺の恩人です。レトの母親なんだから、マセリアさんも、俺の恩人同然です。だから気にしないでください」
我ながら、無理矢理な言い分だと思う。それでもイチヤは、マセリアの助けになりたかった。苦しんでいる人に、手を差し伸べたい。それが好きな人の母親なら、なおさら。
イチヤが用意した食事を、レトはスプーンですくった。
「はい、お母さん。口開けて」
「うん。ありがとう、レト」
レトに言われるまま口を開け、マセリアは、食事を口に入れた。咀嚼の必要もない流動食。それでも、飲み込むのに苦労しているようだ。口に入れ、飲み込むたびに、少しだけ頭が前後に動いている。
「すみません。食べにくいですか?」
元の世界で、イチヤは独り暮らしだった。料理もある程度はできる。しかし、さすがに、流動食など作ったことがなかった。
「ううん。大丈夫。私の方こそごめんなさい。心配かけて」
目を伏せながら、マセリアは食事を続けた。食べ終えると、「ありがとう」と礼を言い、そのまま訊いてきた。
「ハイドさんとプリメラさんは? 無理はしてない?」
ロキの魔法の正体を知ってから、ハイドは、ますます研究に没頭するようになった。部屋から出るのは、トイレのときとマセリアに魔法をかけるときだけ。最近は、目の下の隈に加えて、頬がこけてきた。
プリメラにも、ハイドほどではないが疲労が見て取れる。とはいえ、その疲労は、ハイドの疲労とは種類が違う。肉体的疲労ではなく、精神的疲労。無理をしているハイドを見て、辛そうだった。今のマセリアの姿がクレアを思い起こさせて、悲しそうだった。
イチヤもレトも、何も言えなかった。正直に答えることもできず、かといって、嘘をついてもすぐに分かってしまうだろう。
「ねえ、イチヤさん」
何も言えないイチヤに、マセリアが言ってきた。
「頼ってばかりで申し訳ないんだけど、ハイドさんとプリメラさんを呼んできてもらえる?」
「あ……はい」
躊躇いながら、イチヤはつい頷いてしまった。ハイドは研究に没頭している。彼の邪魔をするのは気が引ける。とはいえ、マセリアの頼みも断れない。
イチヤはマセリアの部屋から出て、レトの部屋に足を運んだ。ドアをノックする。
「何?」
部屋の中から、疲れた声が返ってきた。ハイドの声だ。
イチヤはドアを開けた。
ドアを開けたイチヤを見向きもせず、ハイドは、顕微鏡を覗き込んでいた。隣りには、椅子に座ったプリメラ。ハイドの体力をできるだけ消耗させないよう、魔術で可能なことはプリメラが手伝っているのだ。
「ハイド。忙しいところ悪いけど、マセリアさんが呼んでるんだ。プリメラも」
「マセリアさんが?」
ハイドはようやく、顕微鏡から目を離した。
「私も、ですか?」
プリメラは首を傾げた。
イチヤが頷くと、二人は椅子から腰を上げた。体が重そうで、その様子が、二人の疲労具合を物語っていた。
二人を連れて、イチヤはマセリアの部屋に戻った。
マセリアは、レトに支えられて上半身を起こしていた。トレイや食器は床に置かれている。
ハイドがやや早足で、マセリアに近付いた。
「マセリアさん、寝てないと。大丈夫なの?」
ハイドに少し遅れて、プリメラもマセリアに近付いた。弱っているマセリアを見て、苦しそうに目を細めていた。
ハイドの問いに、マセリアは答えなかった。
「ねえ、ハイドさん。プリメラさんも。ひとつ、お願いがあるの」
「何?」
「何ですか?」
ハイド達を見つめて、マセリアは微笑んだ。穏やかな顔。不治の病に侵されている人とは、到底思えなかった。全てを受け入れている、達観したかのような笑顔。
「もう、私の治療はいいから。フェイタル病になったときから、覚悟はしていたの。それどころか、こんなにも長く生きられた。レトが近くにいて、夫と暮した家にいられて、しかも、レトを助けてくれる人達に囲まれてる。こんなに幸せなことはないもの」
「……」
ハイドは顔を歪めた。助けられない命。助けられないエルフ。彼の心でどんな気持ちが渦巻いているのか――彼が何を思い出しているのか、イチヤは容易に想像できた。
「でもね、ハイドさん、プリメラさん。こんなに幸せなんだけど、もう少しだけ贅沢を言っていい?」
「うん。言ってみて」
ハイドは声を詰まらせていた。
ハイドの様子を見て、マセリアは、笑顔のまま眉をハの字にした。
「ハイドさん、せっかく綺麗な顔してるのに。こんなに疲れた顔して」
「そんなことないよ。全然疲れてない。平気だよ」
「私ね、実は、すっごい面食いなの。亡くなった夫も、いい顔してたの。でも、ハイドさんは、亡くなった夫よりも綺麗な顔してる。それなのに、そんな顔になって。もったいない」
レトが産まれる前に亡くなったという、マセリアの夫。もちろんレトは、父親の顔など知らないだろう。
「話が逸れちゃった。それでね、ハイドさんとプリメラさんに、お願いがあるの」
「何?」
「私ね、また、ハイドさんの歌とプリメラさんの演奏が聴きたいな。もう治療はいいから、疲れが取れた状態のハイドさんとプリメラさんの曲を聴かせて欲しいの。あなた達の音楽を聴いたとき、本当に感動したから」
マセリアの、最後の願い。最後の贅沢。
マセリアを支えるレトの手は、震えていた。
マセリア自身は、もう、自分の運命を受け入れている。では、レトは何を思っているのだろうか。マセリアの願いを聞いて、何を感じているのだろうか。
ハイドがレトに視線を送った。レトの意思を聞きたいのだろう。マセリアを助けるために悪足掻きを続けるか。それとも、命を諦めて望みを聞き入れるか。
レトの目には、涙が浮かんでいた。濡れた瞳を、ハイドに向けた。
「お願い、ハイド、プリメラ。お母さんに聴かせてあげて」
小さく、ハイドが頷いた。
「プリメラ。今日はもう寝よう。ゆっくり寝て、疲れを取って。明日から、毎日、マセリアさんに聴かせよう」
「……はい」
頷いたプリメラの声には、涙が混じっていた。
「ありがとう」
悲しそうな三人に比べて、マセリアは、心底嬉しそうだった。
イチヤは、ただひたすら悔しかった。マセリアを助けることも、彼女を喜ばせることもできない自分が。
※次回更新は10/28を予定しています




