第九十一話 時間がない
マセリアの部屋で、ハイドの催眠魔法により意識を失った後。
イチヤが目を覚ましたのは、レトの部屋だった。ベッドの上。放り出すように横にされていた。
レトの部屋には、いつの間にか、机と椅子が用意されていた。フェイタル病の研究をするため、ハイドが、土の魔術で作ったのだろう。
ベッドの上で、イチヤは上体を起こした。
ハイドはすでに、フェイタル病の研究を開始していた。椅子に座り、自作の顕微鏡を覗き込んでいる。イチヤから見える、彼の後ろ姿。髪の毛を後ろで束ねていた。机の上には、シャーレに入ったマセリアとイチヤの検体。
窓からは、まだ昼間の陽光が差し込んでいる。それほど長く意識を失っていたわけではないようだ。
「イチヤ、目が覚めたの?」
こちらを振り向きもせず、顕微鏡を覗き込んだままハイドが訊いてきた。
「ああ。俺はどれくらい寝てた?」
「たぶん一時間くらいじゃない? 催眠魔法の効果って、だいたいそれくらいだから。意図的に解かない限りはね」
「そうか」
イチヤは、自分の顔に触れてみた。化粧をされている気配はない。
「化粧はしなかったんだな」
「あんなの、ただの冗談だよ。正直なところ、今は時間が惜しいから」
「……」
ハイドの口調はいつもと変わらない。けれど、こちらを振り向きもせずに対応している。
彼の態度が物語っていた。フェイタル病の治療の難しさを。
「目が覚めたなら、丁度いいや。人間の体の構造について、教えてくれる?」
相変わらず顕微鏡から目を離さず、ハイドが訊いてきた。
「イチヤに教わった通りに、皮膚とかを拡大して見てるんだけど。人間って、こんな構造になってるんだね。血の中にも、色んな物が入ってる。イチヤとマセリアさんの皮膚とか血液を観察してるけど、違ってるように見えて、同じようにも見えるんだ」
「細胞なら分裂中かどうかで見え方が違うし、血なら、白血球とか赤血球とかの量の違いだろ?」
「分裂?」
「そう」
イチヤは、知っている限りで、細胞分裂の理屈や血液の内容物について説明した。加えて、ハイドに顕微鏡を見せて貰い、どのくらいの精度まで見えているのかも確認した。
ハイドが作った顕微鏡は、元の世界の光学顕微鏡に劣らない精度があった。見えている血液や細胞の状態から、マイクロメートル――一メートルの百万分の一――単位まで拡大していることが分かる。
もっとも、この世界では、電子顕微鏡レベルの物を再現するのは難しいらしい。電子顕微鏡であれば、ナノメートル――マイクロメートルの千分の一――単位まで拡大できる。
拡大レベルが限られているということは、フェイタル病の要因の特定が困難だということを意味している。フェイタル病が遺伝子要因の病なら――染色体の構造などが要因なら――、この顕微鏡で特定するのは不可能だ。
とはいえ、ハイドの目的は、フェイタル病の要因の特定ではない。ロキが、フェイタル病に対してどのような魔法を使い、症状を停止させていたか。それを突き止めるのが目的。マセリアの検体から、ロキの魔法の痕跡を見つける。その痕跡から、使用された魔法の構成を解析してゆく。
フェイタル病の要因が分からなくても、ロキが使用した魔法の構成が分かれば、マセリアの治療に活かせる。仮に治すところまで到達できなくても、ロキが使用していた魔法を再現できれば、フェイタル病の進行を停止させることができる。
「なるほどね」
イチヤから細胞の説明を聞いたハイドは、一旦、顕微鏡から目を離した。フーッと大きく息をつく。
「つまり、細胞は、動物であれば基本的に同じ構造だけど、それでもどこか異なる点がある。で、生物として近ければ近いほど、構造も同じになっていく、ってこと?」
「そうだな。さらに言うなら、同じ種族であっても、近親者であれば近親者であるほど、同じ構造になってくるんだ。双子ともなると、DNA――生物を形成する設計図みたいなものだけど――も、ほぼ同じなんだ。その顕微鏡じゃ見えないけどな」
「そうか……」
ハイドは口元に手を当て、苦い顔を見せた。
イチヤの知るハイドは、いつもどこか余裕があった。戦争のときも、イチヤとの訓練のときも。ロキとの戦いですら、ほとんど彼の思惑通りに事が運んだ。
そんなハイドが、唇を強く結んで目を細めている。
「それなら、レトの検体がほしいな。マセリアさんに一番近いのは、間違いなくレトだから」
「確かにな」
ロキの魔法の痕跡を見つけるためには、魔法が掛かっていない検体との比較が必要になる。理想を言えば、ロキに治療される前のマセリアの細胞と、ロキの魔法で病状が停止したマセリアの細胞を比較したい。しかし、そんなことは不可能だ。かといって、ロキの魔法の効果が消えるのを待つのは、あまりにリスクが大きい。魔法の効果が消えてしまったら、彼女はそれほど長く生きられない。少しでも時間が欲しい現状で、そんな選択はできない。
では、治療前のマセリアに最も近い検体は、誰から得られるか。
マセリアと唯一血が繋がっているレトだ。
だが、レトは今、ここにはいない。
レトがセントロや王都に向ったのは、今日の真夜中。単純に往復するだけなら、三日もあれば十分だろう。しかし、レトやプリメラがすべきことは、単純な往復ではない。
ハイドは椅子から立ち上がった。
「一旦、今あるマセリアさんの検体を冷凍保存する。俺の魔術なら、一回冷凍するだけで十日は解凍されない。頻繁に冷凍すれば、永久に凍らせたままにできる」
「……どんだけ持続性が高いんだよ」
呆れに近い感嘆の声が、イチヤの喉から漏れた。
イチヤの感想には何も返さず、ハイドは続けた。
「ただ、一部は冷凍せずに研究を続ける。時間がないからね。レトが帰って来るまで、少なくとも、ロキの魔法に関する仮説を立てられる程度までは進めたい。イチヤは、必要に応じて、村にいるエルフに検体の提供を依頼してほしい」
「わかった」
「あと、マセリアさんの負担にならない程度で、今のうちに検体をもう少し採取させてもらう。ロキの魔法の効果が残ってる状態じゃないと、魔法の痕跡も見つけられないからね」
確かにそうだ。ロキが死んだ以上、彼の魔法の効果は少しずつ薄れてゆくのだから。
今ある検体を手早く凍らせると、ハイドは、再度マセリアの部屋に行った。
※次回更新は10/22を予定しています




