第八十七話 まだ希望は捨てない
ハイドが作り出した雲が、役目を終えて次第に消えていく。
空は再び晴天になり、月明かりが周囲を照らし始めた。
大木の近くに転がる、胴体と首が泣き別れとなったロキの死体。
皇帝という存在はいなくなり、ノースは大きく動くだろう。どのように動くのかは、まだ分からないが。
イチヤは、何も言わずにロキの死体を見ていた。この大陸に三つの国を作り、戦争ゲームをしている三人の皇帝。人よりも遙かに長く生き、人よりも遙かに強力な力を持つ生き物。
「なあ、ハイド」
隣りにいるハイドに、イチヤは声をかけた。
「皇帝って、一体何なんだ? どうしてこんな生き物がいるんだ?」
素朴な疑問。それは、もしかしたら、「どうして人間が生まれたんだ?」という問いに等しい疑問なのかも知れない。
「それは――」
イチヤの疑問に答えかけて、ハイドは口を止めた。レトとプリメラも、こちらに来た。それぞれがイチヤとハイドの隣りに来ると、脱力し切った様子で、ロキの死体を眺めた。
「死んだの?」
主語のないレトの疑問。
「ああ」
隣りにいるレトを見て、イチヤは頷いた。
レトは、イチヤの方を見ていない。ただじっと、ロキの死体を見つめている。
レトにかけるべき言葉を、イチヤは見つけられなかった。マセリアは――レトの母は、フェイタル病だ。この世界に治せる者はいない。ロキだけが、マセリアを助けることができた。そのロキが死んだのだから、マセリアの運命は決定している。
月明かりの下で、レトは、いつも通りの無表情だった。
出会った当初、イチヤは、レトのことを、感情の薄い女性だと思っていた。表情を変えずに淡々と仕事をする。人を殺すことも、戦場に出ることも、自分の体を差し出すことも、平然と行える人。
でも、違う。無表情は、ただの仮面。自分の心を押し殺し、じっと耐えるための仮面。
「そっか……死んだのか……」
抑揚のない声で呟き、やはり無表情のままで。
レトの頬に、一筋の涙が流れた。
それでも彼女は、じっと耐えている。心を押し殺している。肩は細かく震えているのに。
何を言えばいいか分からなくて、イチヤは、レトの肩に手を伸ばしかけた。何も言わずに引き寄せて、支えたかった。けれど、躊躇い、手を止めた。自分は、彼女の肉親でも恋人でもない。一緒に旅をしてきただけの間柄。そんな関係の男に抱き寄せられても、不快なだけだと思った。
「レト。いくつか教えて」
レトに声をかけたのは、ハイドだった。
「ロキは、魔法でマセリアさんの病状を止めていたんだよね?」
ハイドの問いに、レトは顔を上げた。ロキの死体からハイドへ、視線を移した。
「たぶんそう。薬も飲んでなかったし、治療のときは、お母さんの体に手をかざしてたし」
「魔術ではなく、魔法で間違いないんだよね?」
「たぶん、としか言いようがない。そもそも、フェイタル病に効果のある魔術なんて、聞いたことがないから。十中八九、魔法だと思う」
「そう」
ハイドは目を閉じ、深く静かに息を吐いた。彼の唇が動く。緩やかな風にすら消されそうな、小さな声が漏れた。
「ごめん、フィル。少し寄り道するよ」
目を開け、ハイドはレトをじっと見た。
「俺も、ひとつだけ魔法は使える。魔法の理論は分かってる。だから、フェイタル病に効果のある魔法を探ってみる」
「!?」
レトの目が見開かれた。瞳に溜まった涙が、また流れてきた。
「ただし、フェイタル病に効く魔法の構成が、まるで分からない。これからマセリアさんの体を診察して、研究して、治療できる魔法を探ることになる」
「そんなこと、できるの?」
「期待はしないで。ただ、全力は尽くす」
「……」
レトの体が、目に見えて震え出した。無表情の仮面は剥がれ、気持ちが溢れ出した。涙でグシャグシャの顔。細かった涙の筋は、大粒の滴に変わった。
震えるレトの唇から、声が絞り出された。苦しそう声での、切実な願い。
「……お願い……お母さんを助けて……」
「やれるだけのことはやるよ。ただ、その代わりじゃないけど、レトにはやってもらいたいことがあるんだ。あと、プリメラにも」
「私も、ですか?」
自分を指差して、プリメラがハイドに聞いた。
ハイドは頷くと、レトとプリメラに要件を伝えた。ロキの首を凍らせて、ディグノ邸まで運んで欲しい、と。
「ディグノ夫妻に、皇帝の死を伝えて欲しいんだ。皇帝が死んだなら、ノースが戦争を続ける意味はなくなる。ディグノ夫妻は戦争に反対していた。皇帝の死を知ったら、すぐに、国王に休戦の提案をしてくれるはずだから」
ハイドの意図を、イチヤはすぐに察した。召喚者の付き人であるレトは、国王にも顔が通る。プリメラを同行させるのは、彼女が、ディグノ夫妻と面識があるから。
「イチヤ」
レト達に依頼をすると、ハイドは、今度はイチヤに聞いてきた。
「これは俺の推測だけど、イチヤのいた世界は、この世界よりも遙かに発展してる。だからイチヤも、運動学なんかに詳しかったんだよね?」
「そうだな。治安、医療、科学……あっちの世界には魔法がないけど、科学で、魔法みたいなことができてた」
「じゃあ、教えてくれ。病気を治すときに、どんなことをするのか。病気の研究は、どうやってするのか」
「……その系統の本を読んだことはあるけど、俺は医者じゃない。素人だ」
「それでも、俺よりは――この世界の人間よりは詳しいだろ?」
「たぶん」
「マセリアさんを助けたくない?」
「助けたい」
「それなら決まりだね」
「……わかった」
ロキが死んだ。つまり、マセリアのフェイタル病を止めていた魔法は、もう解け始めている。
「それなら、すぐに行動した方がいいな。フェイタル病は、半年から一年で死に至らしめる。ロキがどの程度で病状を止めてたかは分からないけど、時間がないのは確かだ」
イチヤの言葉に、ハイドは頷いた。
ロキの首を凍らせて持ち、四人はレトの家に戻った。
※次回更新は10/14を予定しています




