第八十六話① 断固たる決意(前編)
イチヤの目の前で、ロキの右腕が地面に落ちた。彼自身が地面に倒れ込んだのではない。彼の右腕だけが、地面に落ちたのだ。ドサッという、重い音。
一瞬の間を置いて、ロキの右肩から血が吹き出た。おびただしい出血。ロキ自身も、自分の身に何が起こったのか、理解できていないようだ。
ハイドの声がイチヤの耳に届いたのは、ロキの肩から血が吹き出たのとほぼ同時だった。
「イチヤ! 攻めて!」
ほとんど反射的に、イチヤの体は動いた。ロキに斬り掛かる。剣を振り上げながら、状況を理解した。ハイドの魔術がロキの右腕を斬り落としたのだ、と。
イチヤの剣が、ロキの脳天に振り降ろされる。確実に決まると予感できる一撃。
しかし、ロキは正気に戻った。正気に戻って、残った左手を頭上にかざした。イチヤの剣が、彼の左手で防がれた。
イチヤが攻撃を始めた直後、ロキに向って無数の魔術が放たれた。ハイドの風の魔術だ。
すかさずロキは、右側に風の防御膜を張った。ハイドの魔術が、ロキの魔術で相殺されている。ロキの右側で、重い力がぶつかり合っているのが分かる。重い力がぶつかり合っているから、ロキは、両足を踏ん張って耐える必要がある。足を踏ん張っているから、ロキは蹴りを放つことができない。
必然的に、ロキは、左手のみでイチヤと戦うことになる。
――これなら勝てる!
勝利を確信し、イチヤは全力で剣を振るった。人間が相手なら、一瞬で肉塊にできるほどの無数の斬撃。
だが。
ロキは、左手だけで、イチヤの剣を全て防いでいた。強靱な風の魔術で守られた左手。その左手を使い、上手くイチヤの剣を打ち払っている。
一瞬だけ、ロキの左手が、イチヤの剣とは全く別の方向に払われた。ロキの左手側で、強風が弾けた。レトが、ロキに向って風の魔術を放ったのだ。
レトの魔術を払ったことで、ロキに一瞬の隙ができた。イチヤはさらに剣を振った。
ロキの対応は的確かつ正確だった。レトの魔術を防いだ後でも、イチヤの剣を払いのけた。とはいえ、ロキの表情に余裕はない。余裕どころか、眉間には皺が寄り、顔は憎々しげに歪んでいた。その苛立ちはイチヤではなく、イチヤの後方へ向けられている。
イチヤの後ろから魔術で攻撃する、ハイドへ。
「何なんだ!? お前!」
ロキが、ハイドに向かって叫んだ。彼は分かっているのだ。四人の中で唯一、ハイドだけが、ロキを脅かす存在であることを。
静かに、しかし強い声で、ハイドは自分の正体を明かした。
「俺は最後の吸血鬼だよ。お前が――お前達が、八〇〇年前に滅ぼした種族。お前達が恐れた種族だ」
ロキの目が見開かれた。驚愕に彩られた目。そこに、明らかな隙ができた。
――今なら斬れる!
確信したイチヤは、一瞬の溜めを作り、これまでよりも強い斬撃を繰り出した。
ロキが、イチヤの剣を受け損なった。胸元を切り裂く。
だが、イチヤの手に伝わってきたのは、人を斬る感触ではなかった。強い反発力のある手応え。すぐに気付いた。ロキは、自分の体全体に風の防御膜を張っているのだ、と。
イチヤの剣が斬ったのは、ロキの胸元の薄皮一枚。元の世界の感覚で言うなら、ある程度の縫合が必要、という程度の傷。
ロキの胸元から薄く血が流れ、体に纏っている風に巻き込まれていった。霧状の赤が、ロキの周囲に渦巻いた。
ロキの表情が、また変わった。苛立ちと怒りの顔から、獲物を狙う顔へ。肉食獣のような瞳は、目の前のイチヤを見ていない。ロキ自身にとって一番邪魔な者を――ハイドを見ている。ハイドを殺そうと、強引に前に出ようとした。
ハイドしか見ていないロキは、先ほど以上に隙だらけになった。
訓練に訓練を重ねたイチヤの体は、ロキの隙を的確に突いた。体が自然に動き、鋭く斬り付けた。
ロキの胸元と肩口を斬った。もっとも、やはり傷は浅い。しかし、浅い傷でも、無数につければ致命傷にもなり得る。風に乗って霧状に渦巻く血が、ロキのダメージの度合いを教えてくれる。
「どけ! 雑魚が!」
「!?」
ロキの怒声。怒りの声の後、ロキの視線の位置が変わった。ハイドからイチヤに戻ってきた。どうやら、自分がすべきことに気付いたらしい。ハイドを殺すためには、まずイチヤを殺す必要がある、と。
ロキに、イチヤに対する集中力が戻った。集中力が戻り、イチヤに対する攻勢が強くなった。左手で、圧倒的な速度の攻撃を繰り出してきた。左手が無数に見えるほどの、驚異的な手刀の弾幕。
ロキの手数が増えたことで、イチヤは、守りに回ることを強制された。彼が五発の手数を出す間に、一撃しか繰り出せない。その一撃も防がれてしまう。
反対に、ロキの手刀は、少しずつイチヤを捕え始めた。肩口を擦られ、皮膚が切れた。腹の辺りに、数ミリほど指がめり込んだ。ロキの親指が頬をかすめ、表皮がえぐり取られた。
イチヤとロキの出血量が、逆転した。明らかに、イチヤのダメージの方が大きくなっている。
――嘘だろ!?
左手一本なのに、ロキは恐ろしく強い。
イチヤには、ほんの少しだが自信があった。今の自分は、歴代の召喚者の中でも上位に入る部類だと。チサトを討ったことで、過去の傷を捨てられた。訓練を重ねて、自信と実力を養った。
けれど、ロキにはまるで歯が立たない。
よく考えてみれば、当然なのかも知れない。人と国をゲームにして遊ぶ奴が、自分を殺せるオモチャを召喚するはずがない。
――どうする!?
力の差を感じながらも、イチヤは冷静に考えた。どうすれば勝てる? どうすれば隙ができる? どうすれば攻撃が当たる? どうすれば殺せる?
自分の劣勢を自覚しながら、それでも逆転の道筋を探していると。
「!?」
唐突に、体から傷の痛みが消えた。
ロキの攻撃に集中する、イチヤの視界。その隅っこに、淡く青い光が見えた。同時に、柔らかく自分を包む風に気付いた。
何が起きているのか、イチヤはすぐに理解した。ハイドの風に運ばれた、プリメラの回復魔術。彼女の魔術が、自分の傷を癒しているのだ。
怪我が治ったからといって、劣勢が覆るわけではない。実力差は明らかで、回復してもまたすぐに傷を負うだろう。
とはいえ、傷が回復するなら、まだまだ戦える。防御を重視しながら戦いつつ、ロキの隙を探せる。
――どうしたら勝てる? どう攻めるべきだ?
思考を巡らせる。イチヤの頭に浮かんだのは、もっとも可能性が高い方法だった。もっとも可能性が高く、もっとも目的に沿わない方法。
ハイドが前線に出て、ロキと直接戦う。
イチヤは、ハイドと近接戦闘で戦ったことがある。だから分かる。贔屓目抜きに考えても、ハイドの強さはロキに劣らない。だが、確実にロキを上回る、と断言もできない。
ハイドには回復魔術が効かない。他の二人の皇帝を討つには、彼の力が絶対に必要だ。深手を負わせるわけにはいかない。死なせるのは論外だ。
ハイドは前線に出せない。そんなリスクは負えない。彼を後衛にした状態で、自分が、ロキを討たなければならない。




