第八十四話 超越者の想定外
レトは理解していた。
自分は、イチヤがもっとも憎む男の慰み者だった。
だから、イチヤに好かれることなど絶対にない。
分かっているのだ。自分の想いが叶うことなど、絶対にないと。
分かっているのに、辛かった。好きだという気持ちが、妬みと独占欲を生み出していた。ハイドがハイディアだと思っていた頃は、彼に嫉妬していた。彼が男だと知ってからは、プリメラに嫉妬するようになった。
イチヤの傍にいる限り、自分は、醜い感情を抱き続けることになる。彼に好かれるかも知れない女性を、妬み続ける。傍にいたいのに、傍にいると辛い。彼を好きになる資格も、嫉妬する資格すらも、自分にはないのに。
自分は、イチヤに好かれることなどない。
――それなら、せめて。
好かれることなどないのなら。
自分の気持ちが叶わないのなら。
せめて、好きな人の望みを叶えたかった。戦争などない世界を実現したかった。
戦争などなくなって。今まで戦争に使っていたものが、全て各国の治安に向けられる世界。平和で、平穏な世界。
イチヤが望む世界に、手を貸したかった。
彼に手を貸すということは、母を失うことを意味する。
母が亡くなったら。
その後は、静かにイチヤのもとを去ろう。どこかで、死ぬまで一人でひっそりと暮そう。
イチヤの殺害を命じられてから、レトはずっと悩んでいた。マセリアの命か、イチヤの命か。できるはずのない選択に、心を裂れそうだった。
決断させたのは、母の――マセリアの言葉だった。
彼女の言葉で、レトは決意を固めた。
そして今。
自分に作ることのできる最大限の火球を、ロキに向って放った。油断し、無防備になっていた彼に。
この場面にいたるまで、細心の注意を払った。イチヤ達に自分の策略を話して、ロキに遭遇した瞬間に奇襲をかけることも考えた。でも、やめた。ロキがどこで耳を潜めているか分からない。だから、イチヤ達すら騙して、今の状況を作り上げた。最大限の火球を、ロキに食らわせる状況。
もっとも、ロキがこの程度で死ぬとは思えない。
腹に力を込め、レトは、力の限り叫んだ。
「イチヤ! ロキを仕留めて! 早く! こいつは、この程度じゃ死なない!」
レトの気持ちとは裏腹に、イチヤは呆然としていた。まるで殺気がない。戦うことを放棄したかのように。
「イチヤ! 早く!」
イチヤは呆然とした顔のまま、唇を震わせていた。どこか困惑している様子で、それでいて悲しそうな顔で、言葉を漏らした。
「だって……マセリアさんは……」
ロキが死ねば、マセリアを治療できる者はいなくなる。もしかしたら、他の二人の皇帝であれば可能かも知れない。とはいえ、彼等がどこにいるのかも知らないし、彼等がレトの願いを聞き入れるはずもない。
ロキが死ねば、マセリアも死ぬ。
レトの間近で、燃え盛る炎。普通の人間なら、すでに消し炭になっている魔術。
夜を照らす炎の中から、嘲笑が聞こえた。
「いいんだ? レト」
笑い声とは裏腹の、冷たい口調。ロキにとって、人間は、情を抱く生き物ではない。ハイドから戦争が起こった理由を聞いて、レトは、それをはっきりと理解していた。三人の皇帝にとっては、三つの国も、そこに住まう無数の命も、ただの遊具に過ぎない。
遊具に過ぎないから、平気で見殺しにできる。自分の手で殺すこともできる。たとえ、もう七年以上もの付き合いがある人物であっても。
「俺が治療しないと、マセリアは死ぬ。お前を愛して、たった一人で育ててくれた母親が。フェイタル病を治せる者なんて、俺以外にはいないんだから」
マセリアが死ぬ。そんなことは十分承知している。マセリアを失いたくないから、レトは必死だった。過酷な訓練で魔術を磨いた。血が飛び交い、死体が山積みになる戦場にも出た。ゲスな男の慰み者にもなった。それくらいなら、心を殺して耐えられた。
でも、心を殺せなくなった。
「……お母さんが言ってくれたの」
レトは再度、ロキに向って魔術を放った。ロキを包む炎にさらに火力を加えながら、マセリアがくれた言葉を口にした。
「親の死は、親が子に与える最後の試練だ、って。私の気持ちに気付いて、お母さんは、自分を見捨てるように言った! 私の望むようにしろ、って!」
フロンテーラから逃走し、イチヤと離れ、故郷に戻っていたとき。涙を流したレトに、マセリアが教えてくれた言葉。
レトに、覚悟と決意をくれた言葉。
「だから私は、私の大切なもののために戦う」
炎の中で、ロキが、ゆっくりと手を動かした。こんな炎に包まれながらも、彼は平然としている。
「イチヤ! 早く!」
再度、レトは腹から声を張り上げた。少しだけ涙声になった。それくらい、胸が苦しい。
涙に歪むレトの視界で、一筋の閃光が走った。
イチヤが、ロキに斬り掛かった。閃光と思えるほど速い動きだった。振り降ろされる大剣。レトが知っているだけでも、千人以上は斬ったであろうイチヤの剣。
イチヤが斬り掛かった瞬間、ロキを包んだ炎が消えた。霧にも見える湯気が、周囲を包んだ。ロキが、水の魔術で炎を消したのだ。そのまま、振り降ろされたイチヤの剣を、右手で受け止めた。人間を一刀両断にできる、イチヤの大剣を。
おそらくロキは、風の魔術で右手に防御膜を作ったのだ。その手で、イチヤの剣を受け止めた。レトに魔術を教えたのはロキだ。彼の技術を、レトはよく知っている。
右手で剣を防いだロキは、左手の手刀をイチヤに突き出した。「目にも止まらぬ」どころか、目に映すことさえ困難な速さの手刀。
イチヤは素早く反応し、バックステップで避けた。
レトが最後にイチヤの戦いを見たのは、フロンテーラ侵攻のときだ。あのときよりも、遙かに速い。反応速度も、体の動きも。
ロキの攻撃を避け、イチヤは構え直した。イチヤと、レトと、ハイドとプリメラ。四人が戦闘態勢になっている。
レト達四人を前に、ロキには余裕があった。
先ほどの魔術で、レトは、ロキにある程度のダメージを与えられると思っていた。だからこそ、最初の不意打ちに賭けていた。この一撃でダメージを与え、回復する間も与えずに殺そう、と。
しかし、その思惑は崩れた。ロキの能力は、レトの想像以上だった。
少しだけ、涙が頬を伝った。どんな感情で流れた涙なのか、レト自身にも分からなかった。悲しみの涙か。絶望の涙か。あるいは、諦めの涙なのか。
――ごめん、お母さん。
胸中で、レトはマセリアに謝罪した。彼女を見殺しにする道を選んだのに、結局、望みは叶いそうにない。
それなら、せめて。
――私達も、みんな一緒に死ぬから。お母さんと一緒に。
あの世で再会できたら、もう一回、みんなで一緒に食卓を囲もうね。ハイドとプリメラの演奏を聴きながら。あの時間を、また一緒に過ごそうね。
死を覚悟して、レトは魔術を練った。最後まで、イチヤと一緒に戦う。せめて、彼と一緒に死ぬ。
ロキは、余裕のある様子を崩さない。蔑みに近い目で、この場にいる四人を見回した。プリメラの方に視線を向け、ハイドを通過し、イチヤを表情だけで馬鹿にして、レトを見て鼻で笑った。
レトは勘違いをしていた。
ロキにあったのは、余裕ではない。
彼は油断していたのだ。
そう気付いたのは、ロキが鼻で笑った直後だった。
彼の右腕が、肩口から斬り落とされた。
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