第七十三話① 過去との決着(前編)
ハイドのフォローもあって、イチヤはここに辿り着いた。
過去の傷と恐怖に立ち向かえる場所に。
目の前にいる、イチヤにとって天敵とも言える人物。サウスウェストの召喚者『チサト』となった、青野千里。
イチヤは馬を走らせた。
そのまま、チサトに斬り掛かろうとして。
チサトの両手から、魔術が放たれる気配を察知して。
チサトの顔に、昔と同じ笑顔が浮かんでいて。
あの笑顔。
五味と共にイチヤを貶め、嘲り、地獄に落としたときの笑顔。前回の戦いでイチヤを圧倒し、異世界に来てもなお、絶望の象徴となっている笑顔。
「――!!」
声にならない悲鳴が、イチヤの胸中に響いた。体が強張る。ガタガタと震え始める。心も体も、チサトの存在を拒否している。
あの女に近付きたくない。戦いたくない。関わりたくない。視界に入れたくない。視界に入りたくない。
――逃げ出したい!
心的外傷が、イチヤの腰を退かせた。
チサトの手から、魔術が放たれた。風の魔術。かまいたち。鋭い空気の刃が向かってくる。敵味方関係なく、周囲を切り裂く刃。
恐怖とも嫌悪感とも分からない気分に襲われながら、イチヤは剣を振るった。チサトの魔術をなんとか弾き、身を守る。一発受けるごとに、イチヤの剣が悲鳴を上げる。剣を握る手に衝撃が走り、腕に力が入る。
ハイドとの訓練で、イチヤは、攻撃を受け止めるのではなく、受け流せるようになっていた。モティボでの戦いでは、訓練の成果を発揮できていた。
もちろん、モティボにいた敵兵とチサトとでは、まるで格が違う。それでも、彼女はハイドには劣る。ハイドを相手にできたことを、チサト相手にできないはずがない。
それなのに、できない。
直撃を避けているものの、チサトの魔術が、イチヤの体を傷付けてゆく。スパッという音が聞こえそうなほど鋭く、腕や体を切り裂いてゆく。
イチヤを乗せた馬が、前足に力を込めて前進を拒んでいた。動物的な本能で理解しているのだろうか。イチヤが劣勢であることを。このまま前進しても、殺されるだけだということを。
必死に魔術を防ぎながら、イチヤは舌打ちした。苛立ちが胸に募る。どうして上手くできないんだ、と。
急激に重くなった体。退けている腰。思うように動けない自分。
自問しながらも、イチヤは分かっていた。自分がこんな状態になっている理由を。
体に、恐怖という重りを着けている。手足を、心的外傷という鎖で縛っている。そのせいで、思うように動けない。
元の世界で、イチヤは、運動能力も身体能力も低かった。だから、優秀なアスリートに憧れた。自分が実践するわけでもないのに、トレーニング学の本を読み漁った。アスリートの心理学の本まで読んでいた。
チサトの魔術に押されながら、イチヤは、今の自分を冷静に分析した。
自信に満ちているアスリートは、訓練を重ねることで加速度的に成長できる。さらに、自信は本番での強さも生み出す。ただし、その自信には根拠が必要だ。根拠のない自信は、本番を迎えたときに脆く崩れ去る。
モティボの戦いで、イチヤは確かに自信を得ていた。イニシオ村から逃走後に始めた訓練で、確かな成果を感じていた。ハイドの協力を得て、さらに成長できるようになった。理論的かつ過酷な訓練という根拠が、崩れない自信を作り上げたはずだった。
それなのに、今、イチヤは窮地に立たされている。
窮地に立たされている理由は分かっている。
チサトという存在そのものが、イチヤのすべてを封じているのだ。自信も、これまでの積み重ねも。
――どうすればいい!?
何をすれば、この心的外傷を克服できる? どうすれば、この恐怖を打ち払える?
イチヤは、今の自分を客観的に見つめた。自分を見つめる、もう一人の自分になったように。
俯瞰して見た自分は、あまりに無様な姿をしていた。
恐怖のあまりに瞼をすぼめ、薄目に近い状態になっている。これでは、相手の攻撃を見切ることなどできない。
体に余計な力が入り、瞬発力も正確性も目減りさせている。これでは、相手の攻撃を的確に受け流すことなどできない。
無意識に腰が退け、尻を突き出してしまっている。これでは、本来の力を発揮することなどできない。
客観的に今の自分を見て、イチヤは確信した。このまま戦い続ければ、間違いなく殺される。殺され、屍になったイチヤを見て、チサトはまた笑うのだ。あの日のように。
恐怖と並んでイチヤの心にある、自分への苛立ち。
苛立ちが、イチヤ自身に向って叫んだ。
――冗談じゃない!
このまま殺されるわけにはいかない。
――あの日のことを克服するために、この女の前に立ってるんだ!
同じことを繰り返すためじゃない。
イチヤは視点を戻した。自分を客観視する視点から、本来の自分の視点へ。同時に、馬の背中から飛び降りた。チサトの魔術を防ぎながら、地面に着地する。
チサトの魔術の余波を食らい、傷だらけになった馬は、そのまま逃走した。
チサトとイチヤの周囲に、兵達は入ってこない。敵も味方も、チサトの魔術に巻き込まれることを恐れているのだ。少し距離を置いたところで、交戦を続ける両軍。戦況は、いつの間にか、ノースが完全に不利になっていた。もともと、あまりに数が違い過ぎる。
地に足をつき、イチヤは構えた。こうして自分の足で立つと、さらに実感する。自分はチサトを恐れているのだ、と。膝がかすかに震えている。
チサトの魔術が止まった。馬の上からイチヤを見下し、鼻で笑って見せた。
「どうしたの、馬から降りて。もしかして、土下座でもして降参するの?」
チサトの挑発を無視して、イチヤは大きく深呼吸をした。目を見開き、彼女をじっと見つめた。靴の中で足の親指に力を入れ、地面を踏みしめる。胸中で、何度も繰り返す。
今までの自分から脱却するんだ、と。
過去の傷を捨てて、今までの自分を超えるんだ。高校時代の、ただ耐えているだけだった自分を。傷を抱え、人生に希望を抱けなくなった自分を。敗者だった自分を。
――今が、超えるときなんだ!
大きく息を吐き、再度大きく吸った。チサトを凝視し、彼女に宣告した。
「俺が降参するんじゃない。お前が、地べたで這いつくばって死ぬんだ。昔の俺みたいに」
かつて、心を殺された自分のように。
今度はチサトを殺す。
チサトが嘲笑を浮かべた。彼女は美人なのに、酷く醜く見えた。おぞましい姿をした怪物。
再び、チサトの両手から風の魔術が放たれた。圧倒的な数と威力の魔術。
――よく見ろ!
自らを鼓舞し、イチヤは剣を振るった。
まだ思うように動けない。チサトの魔術を受け流すのではなく、腕力で弾いてしまっている。
イチヤは意図的に、思い切り目を見開いた。チサトから――恐怖と嫌悪の対象から、決して目を逸らさないために。
大きく見開いたイチヤの目が、チサトの魔術を正確に見極め始めた。彼女の両手から放たれる、空気の歪み。真空故の歪みだ。圧倒的な速度で魔術を発動させ、次々と撃ってくる。
でも。
――ハイドに比べたら遅い!
空気の歪みを的確に見極める。かまいたちを正面から叩くのではなく、横から払って受け流す。
立て続けに放たれた三発のうち、一発は的確に払い落とせた。けれど、他の二発は力任せに弾いてしまった。これでは、前進することができない。
次に放たれた三発は、二発を払い落とせた。一歩前進し、一発を叩いて防いだ。これでは、一気に距離を詰められない。
さらに放たれた三発。的確に、三発とも払い落とした。これなら距離を詰めることができる。
感覚を掴んできた。
連続で、無数に放たれる真空の刃。かすかな空気の歪みを見切り、次々と払い落とす。
――見える!
イチヤの膝の震えが止まった。
――見切れる!
体から、無駄な力が抜けた。
チサトの魔術を払い落とし、イチヤは、一気に距離を詰めていった。
戦闘開始時点で、彼女との距離は十二、三メートルほどだった。
一気に、五メートルほどまで距離を詰めた。
チサトの顔から、あの笑みが消えてきた。驚きと焦りの表情になった。
彼女の変化が、イチヤの心情に、油断とは異なる余裕を与えた。
もう、チサトの魔術を払い落とす必要もない。完全に見切っている。左右に動くことで避けられる。
イチヤは素早く左右に動き、チサトの魔術を避けた。防御に剣を使うこともないから、接近する速度がさらに上がった。
チサトの間近まで近付いた。




