第六十六話 誰かの力になれる
ディグノ邸の別邸で、ハイドが公演をしてから。
イチヤ達は、週に一回ほどのペースでディグノ邸を訪ねた。デシーディダやエフィメラに連れられて、クレアの部屋に足を運ぶ。ハイドが、彼女の前で歌う。
それほど広くない部屋――日本の感覚で言う、八畳間ほどの広さの部屋――で歌うので、ハイドは風の魔術を使わず、完全に生の声だけで歌っていた。
二回目に、ハイドがクレアの部屋で歌った後。
プリメラが彼に訊いた。
「何か、私にできることはないですか? 少しでもクレアさんに喜んでもらいたいんです」
ハイドは少し考えた後、イチヤやプリメラを連れて、街にある雑貨店に足を運んだ。
「じゃあ、プリメラ。俺が教えるから、これを練習してみて」
ハイドが雑貨店で購入したのは、ギターに似た楽器だった。
「シターンっていう楽器なんだけど」
言いつつ、プリメラに渡す。
「俺も弾けるけど、弾きながら歌うと、どうしても歌への集中力が落ちるからね。だけど、やっぱり、楽器があった方が音に深みが出るんだよ」
納得したように、プリメラは小さく頷いた。
「ただ――」
クレアへの献身を見せるプリメラに、ハイドが忠告した。
「――シターンの練習をするといっても、魔術の訓練を軽くする気はないよ。それでもいい?」
「はい」
クレアに何かしたい、と言ったプリメラ。彼女の顔に滲む、悲壮感にも似た優しさ。
イチヤには、プリメラの心情がなんとなく分かる気がした。彼女は今でも、トーダの死に罪悪感を持っているのだ。
プリメラのために戦い、プリメラのために傷付き、プリメラのために死んだトーダ。プリメラのことを、命を捨ててでも守りたいと思うほど好きだったトーダ。
トーダが殺された直後、プリメラは、彼の死を悲しむことができなかった。ただ恐怖に包まれ、自分のことしか考えられなかった。
トーダが死に、自分が生きている。生きていることに罪悪感がある。だから、他人に少しでも尽くそうとする。イチヤを助けようとしたのも、プリメラの中に罪悪感があるからだろう。
罪の意識が、プリメラを、他人への献身に走らせている。
この日から、プリメラのやるべきことが増えた。今まで通り魔術の訓練をし、それが終わったら、ハイドに教わってシターンの練習をする。シターンの弦で指が切れたら、回復魔術で治す。そのまま、寝る間も惜しんで練習する。
イチヤ達がディグノ邸に通い始めて二ヶ月半ほどになると、クレアは、ほとんど体を動かせなくなった。食事や排泄も、自分ではできない。完全介護の状態。
それでもディグノ夫妻は、クレアを見捨てなかった。彼女の介護を使用人達に頼む。ただし、使用人に負担がかかり過ぎないよう、自分達の仕事を増やしたらしい。
全身が動かなくなっても、クレアの長い耳だけは、彼女の気持ちを代弁するように少しだけ動いていた。
イチヤ達がディグノ邸に通い始めて、五ヶ月ほど経った日。
ディグノ邸に向う前に、ハイドが、プリメラにシターンを持たせた。
「今日から、プリメラも一緒に演奏してくれる?」
イチヤは、楽器に関しては素人だ。この世界はもちろん、元の世界でも。だから、専門的なことは何一つ分からない。ただ、素人の耳でも、プリメラのシターンがずいぶん上達したのは分かる。
プリメラは魔術の訓練だけではなく、シターンの練習も、驚くほどの量をこなしていた。それこそ、命すら削るほどに。これほどの練習をして、上手くならないはずがない。
「いいんですか? まだ、人前で披露できるほどの腕前とは思えませんけど」
プリメラは自信のない顔をしていた。そもそも彼女自身、自分に自信があるタイプではない。イチヤと出会う前はどうだったか分からないが、出会った後――トーダが死んだ後は、大き過ぎるほどの劣等感を抱えていた。罪悪感から生まれた、劣等感。
ハイドは優しく、プリメラの頭を撫でた。
「大丈夫だよ。正直なところ、確かにまだまだ未熟だ。でも、ね。プリメラは、この五ヶ月間で、普通の人の何年分も練習したんだから」
プリメラの頭から手を離し、続ける。
「それに、クレアさんに聴いてもらいたいんだろ? だったら、今弾かないと。彼女には時間がないんだから」
クレアのフェイタル病が発症してから、概ね八ヶ月。いつ亡くなっても不思議ではない。もしかしたら、今日明日の命かも知れない。
プリメラは頷き、いつも練習しているシターンを抱えた。
三人で、泊まっている宿を出て。
ディグノ邸に着いて、クレアの部屋に通された。
プリメラはベッドに近付き、クレアに、自分の演奏も交えたい旨を伝えた。
「今日は、ハイドさんの歌に合わせて、私も演奏したいです。いいですか?」
もう声すら出せないクレア。彼女は唇を必死に動かし、自分の意思を伝えてきた。
『あなたの、演奏も、聞きたい、です』
唇の動きだけで伝えられた言葉。
プリメラはハイドと目配せすると、大きく深呼吸をしてから演奏を始めた。
いつもは演奏がまったくない、アカペラのハイドの歌。
今日は、ハイドが歌い始める前に、プリメラの前奏が加わった。
二十秒ほどの前奏の後に、ハイドが歌い始めた。
もちろん、プリメラの演奏も続く。
シターンの音と交わる、ハイドの歌。
この世界には、アンプも音響設備もない。完全に、楽器と声だけの演奏。
けれど、少なくともイチヤには、どんな音楽よりも素晴しく聴こえた。楽器と歌が交わり、互いを引き立てる。ただでさえ素晴しいハイドの歌が、プリメラのシターンで増幅されるようだ。
音に浸りながら、イチヤは周囲を見てみた。デシーディダも、ウィディアンも、エフィメラも、二人の楽曲に心を奪われているようだった。普段は精悍なディグノ夫妻が、どこか呆けた顔さえ見せている。
クレアの表情は、ほとんど動かない。彼女はもう、表情筋すら自由に動かせない。それでも、その細めた目が、目尻から頬を伝う涙が、ハイドとプリメラの演奏に対する感想を物語っていた。
クレアは、数万人に一人しか罹らない病に蝕まれた、悲運な女性だ。自分の不遇に、絶望しても不思議ではない。
それなのに、クレアは幸せそうだった。
ハイドとプリメラが奏でた曲は、全部で十七曲。
歌と演奏が終わると、この場にいる全員がクレアの傍に寄った。
演奏を終えたプリメラは、少し汗をかいていた。自信がなさそうな様子で、クレアに顔を近付ける。
「どうでしたか? クレアさん」
イチヤは、クレアから回答が返ってくるとは思っていなかった。彼女はもう、まともに言葉を発することもできない。この場の誰もが、イチヤと同じように思っているだろう。
だが。
「あり、が、と」
クレアの口から、かすかではあるものの、声が発せられた。すでに動かないと思われていた表情筋で、明確な笑顔を見せていた。
「ありが、と」
クレア以外の誰もが、無言になっていた。
「わた、し、は、い、ま、とて、も、しあわ、せ、です」
たどたどしく、聞き取りにくい言葉。それでもクレアは、プリメラの質問に対し、明確で最大の賛辞を返していた。
「あり、が、と――」
涙に塗れた、クレアの笑顔。
もう喋れないはずの彼女が、再び言葉を発した。それは、一見すると回復の兆候にも見える。
けれど、違うのだ。回復の兆候ではないと、この場の誰もが分かっていた。
これは、最後の灯火。死の直前に振り絞られた、クレアの思い。
この世界に来て、イチヤは、何度も人の死に直面した。だから知っている。美しい死などない、と。死の直前に、人は苦痛に襲われる。生理反応で痙攣を起こす。糞尿を垂れ流す。どれほど美しい理由の死であっても、死そのものは決して美しくない。
それなのに、クレアの死は美しかった。最後の力で感謝の気持ちを述べ、プリメラの努力に最大の賛辞を残し、笑顔と涙を見せて、静かに息を引き取った。
クレアの友人であるエフィメラは、声を上げて泣いていた。
ディグノ夫妻は自分を律しているようだったが、それでも、目に涙を溜めていた。
プリメラは涙を流しながら、そっと、クレアの手を握った。
「礼を言うのは私の方です、クレアさん」
トーダが死んでから、プリメラはずっと苦しんでいたのだ。
『トーダではなく、自分が死ぬべきだった』
そんなことすら思っていたかも知れない。
プリメラの劣等感の一因が自分にあることを、イチヤは自覚している。トーダが殺されたとき、イチヤは、感情に任せて彼女にひどいことを言った。
『自分のことよりも、お前のことを考えているこいつの前で――それでもお前は、『助けて』しか言えねぇのか!?』
できることなら、プリメラに突き付けたこの言葉を、取り消したい。
「プリメラ」
イチヤが呼ぶと、プリメラは、クレアの手を握ったままこちらを向いた。
「はい?」
「偉そうな言い方だったら申し訳ないけど。今のプリメラは、優しくて、強い人だと思う」
「……?」
プリメラは悲しそうな様子のまま、わけが分からない、という顔をした。
構わず、イチヤは続けた。
「悪かったな。一度出た言葉を消すことはできないけど」
「……?」
やはりプリメラは、イチヤの言葉の意味が分からないようだ。
イチヤがそれ以上何も言わなかったので、プリメラは、再びクレアに視線を戻した。プリメラの努力と献身で、人生最後の瞬間に幸せを感じていた女性。
クレアが亡くなったことで、ハイドとプリメラは、一つの仕事を終えた。
◇
その情報がセントロに入ってきたのは、クレアが息を引き取って二日後のことだった。
フロンティアとセントロの中間辺りにある都市、シウダッドミリタール。ガルダール・メディオ侯爵が治める領地の都市。
その都市に向かい、サウスウェスト軍が進軍を開始した。
フロンティアとシウダッドミリタールの間にある都市は、ほぼ全てが、サウスウェスト軍に侵略されたという。
サウスウェスト軍の中には、召喚者の女がいる。
圧倒的な魔力を持ち、強力な魔術を使う、チサトという女が。
※次回更新は9/2を予定しています




