第六十五話 友人として
ディグノ公爵夫人デシーディダが企画した、ハイドの公演。
会場となっている、ディグノ邸の別邸。
普段は、貴族や王族達のパーティーなどに利用される建物。透明度の高いガラス窓。壁に掛けられた燭台。観客の数だけ並べられた椅子。
ハイドが歌い始めると、一気に室内が静まり返る。
ハイドの歌声だけが、周囲に響き渡る。
外で行う公演よりも、室内の方が、はるかに音響がいい。彼の歌声が、胸に突き刺さるようだった。
一曲終わるたびに、鳴り響く拍手。
ハイドが歌い始めると、また誰もが身動きもせず静まり返る。
集まった人々が、ハイドの歌に酔いしれていた。
サウスウェスト軍がフロンティアを陥落させた話は、もう、セントロ中に知れ渡っている。きっと誰もが、侵略に恐れる日々を送っている。
それでも、今だけは、歌声という芸術に没頭することができる。
昼前から始まった公演。
ハイドが歌った曲数は、三十二曲。
最後の曲をハイドが歌い終えると、今までで一番の拍手が響き渡った。
拍手を背にして、ハイドが、別邸の奥の部屋に去ってゆく。
観客全員に心地好い余韻を残し、公演は終了した。
イチヤとプリメラは、クレプシアの両隣に座っていた。彼女に何かあったときに、すぐに手助けできるように。
クレプシア――クレアは、中年のエルフだった。
彼女のフェイタル病はかなり進行していて、ほとんど身動きが取れなくなっている。両腕を動かすことが精一杯で、その動きも弱々しい。喋るのも大変そうで、声は小さく、滑舌も悪い。エルフの特徴である長い耳が、時々、ピクンピクンッと動く。
公演の間中、クレアはずっと泣いていた。明らかに、自由に動かない表情筋。それなのに彼女は、涙を流しながら微笑んでいた。それほど、ハイドの歌声に感動していた。
公演が終わり、客が、一人また一人と席を立つ。屋内ライブというイベントが一般的ではないので、アンコールという発想もないのだろう。誰もが、心を奪われた表情のまま別邸を後にしてゆく。
やがて、別邸の客席に残ったのは、イチヤとプリメラ、クレアだけになった。
静まり返った別邸内。
「あの、イチヤさん」
「ん?」
プリメラの声で、イチヤは彼女の方を向いた。
「私達、これからどうしたらいいんでしょうか? クレアさんをディグノ邸まで連れて行くんでしょうか?」
「いや、俺達だけで行ったらまずいだろ。ハイドが何か指示しに来るだろうから、待ってた方がいいんじゃないか?」
「そうですね」
言って、プリメラはクレアに訊いた。
「クレアさん。具合はどうですか? 喉、乾いてませんか?」
「だ、い、じょぶ、です」
言葉を覚えたばかりの赤子のように、クレアの喋りはたどたどしい。
クレアを気遣うプリメラを見て、イチヤは、またレトのことを思い出した。病気の母親のために、召喚者の付き人をしていた女性。
彼女は無事だろうか。母親のもとに戻れたのだろうか。彼女の母親の病気は、どれほど重いのだろうか。
レトの母親がフェイタル病だということはないだろう。
フェイタル病に罹った者は、発症して半年~一年ほどで命を落とす。レトは、シュウのときから数えると、もう二年以上も召喚者の付人をしている。その間もずっと、母親のために働いていた。フェイタル病なら、もう亡くなっているはずだ。
ギイッとドアが開く音が聞こえて、イチヤは思考を中断した。
開けられたのは、先ほどハイドが入っていった部屋のドア。
イチヤは、ドアの方に視線を向けた。
ハイドが戻ってきた。彼の側に、二人の女性と一人の男性がいる。
男性は、見たところ四十代中盤くらいだろうか。姿勢がよく、鍛えられていることが伺い知れる体。黒を基調とし、金色の刺繍が施された上着、すらりとしたズボンに、外装に合う磨かれたブーツ。おそらく彼が、この領土を治めるウィディアン・ディグノだろう。
彼の隣りには、四十台前半くらいの女性。モスグリーンと白を基調とし、胸元をスパイラルレイシングで結んだドレス。コルセットはしていないのに、非常に姿勢がいい。彼女が、この公演を企画したデシーディダだろうか。
そうすると、彼女達から一歩引いている女性が、デシーディダの親友であり侍女でもあるエフィメラか。パスティオン邸で見た侍女とはまったく違う格好をしている。黒と白を基調とした、日本人がイメージするメイド服に近い格好。
ウィディアンもデシーディダも、背が高い。近くを歩くハイドが小さく見える。もっとも、彼は実際に小柄なのだが。
イチヤ達の近くまで来ると、ハイドは、クレアの前で片膝をついた。その体勢で、彼女の手を両手で包み込む。
「クレアさん。今日の公演は楽しんでいただけましたか?」
「……は……あ……」
クレアの表情筋は、かなり弱っている。それでも彼女は、驚愕と感動をはっきりと露わにしていた。
日本の感覚で言えば、今のクレアは、憧れのミュージシャンに手を握られ、話しかけられているのだ。感激しないはずがない。
思うようにならない体を必死に動かそうとしながら、クレアは声を絞り出した。
「あ……り、がと……ご……じゃ、ます」
彼女の両目から、再び涙が流れていた。感激の涙。必死に体を動かそうとしているのは、ハイドに対して頭を下げたいからか。あるいは、触れられた手をギュッと握りたいからか。でも彼女は、もうそれもできない。
エフィメラもクレアの側に来て、彼女の頬に触れた。
「よかったね、クレア。よかったね」
エフィメラの目にも、少し涙が浮かんでいる。
「クレア。名残惜しいかも知れないが、そろそろ部屋に戻ろうか。気分が高揚して麻痺しているだろうが、長い時間ベッドから離れたから、かなり疲れているはずだ」
ウィディアンの言葉に、クレアは残念そうな顔を見せた。
ハイドはクレアの手を離し、ウィディアンが彼女を抱き上げた。
「だ、んな、様。いけ、ま、せん、わたし、など」
私などを抱き上げてはいけません。そう言ったクレアを、ウィディアンは優しく突っぱねた。
「君はもう、仕事をしていない。だから君は、ディグノ家の侍女ではない。私やシーダ、エフィーの友人だ。友人を抱き上げて悪いことなどないだろう?」
クレアを抱き上げたウィディアンは、デシーディダに目配せした。
「なあ、シーダ」
「そうですね」
ウィディアンに近寄り、デシーディダは、彼の腕に触れた。
「クレアは私達の友人です。なので、丁重にお部屋に連れて行ってくださいね」
言いつつ、デシーディダは、少しだけ悪戯っぽい顔を見せた。
「でも、あなたが私以外の女性に触れるのは、少し嫉妬してしまいますが」
「それは見逃してくれ。君以外の女性を、友人以上として見られないんだから」
ウィディアンはデシーディダの頬にキスをして、クレアを抱いたまま別邸を出て行った。ディグノ夫妻は仲睦まじいと聞いていたが、想像以上だった。見ていて照れてしまうほどだ。
もっとも、デシーディダに、恥ずかしがる様子は微塵もなかった。イチヤやハイド、プリメラに向って背筋を伸ばす。エフィメラも彼女の横に立ち、背筋を伸ばした。
二人とも、イチヤ達に向って頭を下げた。
「今日は、私達の友人のためにお時間をとっていただき、ありがとうございます」
よく通る、デシーディダの声。威圧感がなく、貫禄と誠実さが滲み出ている。明らかに、人の上に立つ才能がある女性だ。
デシーディダとエフィメラが、頭を上げた。そのまま、デシーディダが続ける。
「ハイド様のご厚意、お連れの方々のご協力、決して忘れません。もし私に協力できることがございましたら、ぜひ仰って下さい」
デシーディダに言われ、イチヤは少しだけ戸惑った。今のイチヤは、髪の毛を茶色に染めて「ノーチェ」と名乗っている。召喚者のイチヤは、国中に手配書が回っているお尋ね者だ。
「では、シーダ様」
イチヤの横で、ハイドが、デシーディダを愛称で呼んだ。
「我々三人の総意として、ひとつ、お願いをしてもいいでしょうか」
「私にできることであれば、何でも」
「シーダ様は、国王陛下に、休戦の嘆願書を出し続けていると聞きました。しかし、国王陛下は聞き入れてくれない」
「ええ。サウスウェスト軍は、フロンティアを占拠し、さらに攻め込もうとしています。仮に、今休戦を持ちかけても、優位に立っているサウスウェスト軍が受け入れるとは思えませんが」
「それを続けて下さい」
ハイドの口調が強くなった。一度、イチヤの方に、ちらりと目配せしてきた。再びデシーディダに視線を戻し、続ける。
「私と、ここにいる私の友人――ノーチェとプリメラは、休戦を強く望んでいます。詳しい内容は失礼ながらお話しできませんが、そのための活動も行っております。上手くいけば、一年以内に、国王陛下が休戦の申し出を受け入れる状況を作れるはずです」
デシーディダは目を見開いた。
「国王陛下が、サウスウェストに休戦を提案できるようになる、ということですか?」
「はい」
「それはどのような……」
言って、デシーディダは苦笑した。
「……っと、詳しい内容はお話しできないんでしたね」
「ええ。誰かに知られるだけで、効果が期待できなくなる活動ですので。そのため、活動を行っているのも、たった三人なんです」
「わかりました」
デシーディダは、力強く頷いた。
「引き続き、国王陛下に、休戦の嘆願を続けます。戦争の終結は、私達も願っていることですから」
「ありがとうございます」
ハイドは一礼すると、さらに続けた。
「それと、もう一つだけお願いしてもよろしいでしょうか」
「構いません。私は、友人のために協力してくれたハイド様を、すでに友人と思っております。どうか、友人として気軽に仰ってください」
「では」
再度、ハイドは、イチヤとプリメラに目配せした。
「私とこの二人は、先ほどお話しした活動をしております。が、まるで空き時間がないわけではありません。なので、数日に一度で結構ですので、クレアさんの前で歌わせていただいてよろしいでしょうか?」
「!?」
デシーディダが目を見開いた。
彼女を見据えて、ハイドが続けた。
「残念ながら、私には、クレアさんを助ける力はありません。彼女の苦痛を取り除くことも、死の恐怖を消すこともできません。ですが、私の歌で彼女の苦痛が少しでも和らぐのなら、協力させていただきたいのです。ただし、民衆には知られないよう、ただの見舞いという体で」
デシーディダの隣りで、エフィメラが涙を流していた。両手で顔を押さえ、小さな嗚咽を漏らしている。
デシーディダは涙を見せない。けれどそれは、クレアに対する思い入れがないからではないだろう。公爵夫人として、人前で弱さを見せないようにしているのだ。彼女はもともと、男爵家の令嬢で、武に優れた女性だという。侍女のために力を尽くす情があっても、弱さは曝け出せないのだ。
それでもデシーディダは、誠実さだけは露わにした。
「ハイド様。ノーチェ様。プリメラ様」
涙を流す侍女の隣りで、デシーディダは、再びイチヤ達に頭を下げた。
「私達の友人に対するご厚意、ありがたく受け取らせていただきます」
無言のまま、イチヤは、デシーディダに礼を返した。
サウスウェストとの戦いで、イチヤは、欲望に塗れた兵士達を大勢見てきた。武人などとは呼びたくない、シュウの価値観に染められたクズ共。
彼等を見てきたからこそ、デシーディダの礼の重みを実感した。
※次回更新は8/31を予定しています




