婚約解消
医者の言葉を黙ったまま聞いていたヴィオラは、胸に息を吸い込むとアダムを見つめた。
「アダム様、私から一つお願いがございます」
「……それは何だ?」
硬い顔で緊張を滲ませたアダムに、ヴィオラは静かに言った。
「私との婚約を解消していただきたいのです。この婚約指輪はお返しします」
「……!!」
アダムの喉がこくりと動く。マイヤも驚きに目を瞠った。
心配そうにヴィオラを見つめるカイルの前で、彼女はアダムに続けた。
「こんな私では、もうアダム様のお役には立てません。これ以上、アダム様にご迷惑をお掛けしたくはないのです」
「……そうか」
自ら身を引くと告げたヴィオラに、アダムは隠し切れず安堵を滲ませる。
「わかった。君がそう言うのなら、仕方ない」
ヴィオラは、大きなダイヤのあしらわれた婚約指輪を左手薬指から外すと、アダムに手渡した。掌の上に載せた婚約指輪を眺めたアダムは、少し考えてから、訝しむように言った。
「だが、これから君はどうするつもりだ? 実家に戻るのか?」
アダムは頭を回転させると、腕組みをして続けた。
「……君のこれまでの魔術師団への貢献を踏まえて、十分な金額を君の実家に送ろう。そうすれば、継続して治療を受けられるだろう」
(要するに、手切れ金ということね)
ヴィオラを気遣っているように聞こえるアダムの言葉だったけれど、彼がヴィオラの翻意を懸念していること、早く手を打って決別したいと思っていることが、彼女には透けて見えるようだった。ヴィオラが首を横に振る。
「いえ、フェルナート伯爵家に戻るつもりはありません」
アダムが目を眇める。
「なら、君はこれからどうするつもりだ? その身体だ、無理はできまい」
しばし口を噤んでから、ヴィオラは続けた。
「……最後に、できることなら、一目見たい景色があるのです」
「見たい景色?」
「ええ。このカリスティード王国の最北端の、隣国と国境を隔てて連なる山の辺りです」
「何だって?」
意表を突かれて、アダムが尋ねる。
「そんな僻地に、これから一人で向かうつもりか?」
「ええ。自由に旅をしたいと思います」
横からカイルも声を上げる。
「さすがに無茶ですよ! そんなことをしてはお身体に障ります……!」
微笑みを浮かべたヴィオラは、はっきりと言った。
「もう、私に残された時間は限られていますから。それなら、無理に余命を引き伸ばす代わりに、最後に好きなことをして、思い残すことのないように、人生の幕を引きたいと思います」
ヴィオラはゆっくりとベッドから降りると、驚く医者たちの前で数歩、足を前に踏み出した。足腰は弱っているけれど、これまでの治療のお蔭か、日常生活にはそれほど支障はなさそうだ。
「はっ……そうか」
アダムは口元に薄く笑みが浮かびそうになるのを堪えた。
「わかった、君の人生だ。選択する権利は君にある」
「兄上!!」
ヴィオラを止めようと焦るカイルを、アダムはぎろりと睨み付けた。
「お前は黙っていろ」
「でも……!!」
「だいたい、お前のような闇属性の持ち主がヴィオラに近付いたせいで、こんな不幸がヴィオラを襲ったんじゃないのか?」
さっと顔から血の気が引いたカイルを庇うように、ヴィオラはきっぱりと言った。
「カイル様には何の関係もないことです。そんな風に仰るのはやめてください!」
ヴィオラの剣幕に不満そうに眉を顰めたアダムは、彼女の言葉を無視するとカイルに吐き捨てた。
「呪われた闇の精霊の加護しか受けられないなんて、お前はこのクローヴェン侯爵家の恥だ。分をわきまえろ」
残酷なアダムの言葉に、ヴィオラの眉尻が下がる。
(……カイル様はいつも、こんな暴言に耐えてきたのかしら)
ヴィオラはアダムから、弟のカイルは引っ込み思案で、さらに光属性とは相性の悪い闇属性の持ち主だから、気にかける必要はないと言われていた。けれど、これほどあからさまに弟を攻撃するような言葉を、目の前で聞いたのは初めてだった。カイルの気持ちを想像して、ヴィオラの胸はずきりと痛む。
ただ、思い返してみると、アダムのそのような言動が推測できるような、小さな違和感は時々覚えていたような気もした。
(私……アダム様は素晴らしい方だと信じて、そんな自分の違和感には蓋をしていたのかもしれないわ)
目覚めた時にアダムが放った言葉だけでなく、頭ごなしに彼がカイルに投げつけた言葉を聞いて、ヴィオラは胸の奥に重苦しいものが揺蕩うのを感じた。




