願い事
慌ててカイルはヴィオラを黄色の花畑にそっと下ろした。微かに震える手で触れると、その頬も、指先も、驚くほど冷たかった。
「ごめん。……君の体調に気付けないまま、こんなところまで連れてきてしまって」
これほどヴィオラの身体の具合が急激に悪くなるとは、カイルは想像してはいなかったのだ。
「決してあなたのせいではないわ。これは、私が望んだことだから」
ヴィオラは、じっとカイルを見つめた。
「……本当に、ありがとう。幻の湖を、あなたと見られてよかった」
掠れ声になったヴィオラの顔を覗き込んだカイルは、声を絞り出すように言った。
「ねえ、ヴィオラ。幻の湖に、願い事はした?」
「ええ。……カイルは?」
「僕も今、願ったよ。『君を助けてほしい』って」
カイルの頬を、一筋の涙が伝う。
「神様にヴィオラを返してもらえるなら、僕は何だってする。――どうか、僕を置いていかないで」
ヴィオラの目にも涙が滲んだ。砂時計の砂が零れ落ちていくように、もう残された時間がごく僅かだということがわかる。
「大好きよ、カイル」
残る力を振り絞って、ヴィオラはそろそろと両手を伸ばすと、カイルの顔を両掌で包み込んだ。
「私は、私の分まで、カイルに幸せになってほしいと願ったわ。……あなたのこれからの人生が、輝きに満ちたものになりますように」
ヴィオラの両手から力が抜け、ぱたりと地面に落ちる。もう、ヴィオラの目は閉じられていた。
冷え始めている彼女の唇に、カイルがそっと触れる。
「ヴィオラ……」
そっと頬を叩いても、身体を揺さぶっても、ヴィオラは動かなかった。まだ身体に残る温もりが消えないようにと願いながら、カイルは彼女の身体を腕にかき抱いた。
「ねえ、ヴィオラ。お願いだから、目を開けて……!」
堪えきれずに、彼の目から涙が溢れる。すすり泣くカイルの声は、しんと静かな山間に吸い込まれるように消えていった。
二人を見つめるノクティスの額の宝石は、不思議な光を放ち始めていた。
***
ヴィオラは薄暗い道を歩いていた。温かく湿った風が、彼女の頬を撫でていく。
力が入らなくなったはずの足は、なぜか軽やかに動いた。身体には痛みも苦しみもない。まるで母の胎内にいるような穏やかな感覚に包まれて、恐怖も不安も、何も感じなかった。
(ここは、どこなのかしら?)
そこは一本道のようで、どこまで続いているのかはわからない。しばらく歩いていくと、誰かが道の先に立っているのが見えた。
二つの人影を見たヴィオラの目が見開かれる。
「お父様、お母様……!!」
ヴィオラは二人に駆け寄った。母は彼女を見つめると、悲しそうに口を開いた。
「ごめんなさい、ヴィオラ。私たちが、あなたに強い加護を望んだばかりに……」
「えっ……?」
戸惑うヴィオラに向かって、父が母の言葉を継いだ。
「ヴィオラ、君は弱い加護しか生まれ持っていなかった。君の将来を案じていた私たちは、『幻の湖』に願ったんだ。大切な一人娘の君に、どうか強い加護をお与えください、と」
「……!」
両親の亡き後、父方の叔父に乗っ取られた伯爵家で虐げられていた時に、突然、強力な光の精霊の加護が発現したことを思い出し、ヴィオラが息を呑む。
不思議だと思いながらも、偶然と片付けていたことが、ようやく一本の線で繋がったように感じた。
「でも――」
母の瞳に、涙が滲む。
「光の精霊の加護を授かったせいで、あなたは自分を犠牲にして……かえって命を縮めてしまった」
頬を伝う涙を指で拭った母は、ヴィオラに手を差し出した。
「もう、あなたが傷付くことはないわ。私たちと一緒に行きましょう」
頷いたヴィオラが母の手を取ろうとした時、背後から犬の鳴き声が聞こえたような気がした。
「この鳴き声は……」
振り返ったヴィオラの目に、暗闇の中で明るく光る琥珀色の瞳が見えた。黒い尻尾が左右に揺れる。
小さな愛らしい姿に口元を綻ばせたヴィオラは、思わず駆け寄ってふわふわとした毛を撫でた。
「あなたもこんなところに来ていたの、ノクティス?」
ノクティスは、じっとヴィオラを見上げた。
『戻っておいで』
不思議な響きが、ヴィオラの頭の中にこだまする。
(これは、ノクティスの声……?)
低いけれど優しい、澄んだ響きに、ヴィオラは聞き入っていた。
「でも、お父様とお母様が、そこで私を待っていて……」
ヴィオラが振り返ると、両親は眩しそうにノクティスを見つめ、優しい瞳で微笑んでいた。
「安心したわ、ヴィオラ」
「今度こそ、幸せにな」
再びヴィオラがノクティスに視線を戻すと、いつしかノクティスの額の宝石から光が溢れ出し、ノクティスの全身は光に包まれていた。
ヴィオラがかくりと膝をつく。
「ノクティス……?」
明るい光を発するノクティスの後ろには、暗く濃いくっきりとした影も見える。
『光と闇は、表裏一体。光が強ければ、闇も濃くなる。……逆もまた同じだ』
ヴィオラの頭の中で、かつて聞いた言葉と重なるように声が響く。
「あなたは、いったい……」
呆然とノクティスを見つめる彼女の頭の中に、再び低い声がこだました。
『さあ、行こう。――君たちは、正しく願った』
ヴィオラには、その言葉の意味ははっきりとはわからなかった。けれど、『君たち』と聞いて、ヴィオラの脳裏に、幻の湖で一緒に願いをかけたカイルの姿が浮かぶ。愛しいカイルとの思い出の一つひとつが、鮮明に頭に甦ってくる。
ヴィオラは、両親を振り返った。もう、そこには揺らぐ光しか見えなかった。
「お父様、お母様、お元気で……!」
最後にそれだけ叫んだヴィオラに、ノクティスは鼻面をすり寄せた。
本日は3話投稿いたします。次話は本日12時更新です。




