幻の湖
空きのあった宿を取ったカイルは、すぐにヴィオラを部屋のベッドに横たえた。
今も呼吸が苦しそうなヴィオラの手を、カイルが両手で包み込む。
「君の身体に障るようなら、今はいったん下山しても……」
「いいえ」
ヴィオラは首を横に振った。
「我儘を言ってごめんなさい、カイル。でも、私にとって、これが幻の湖を見る最後の機会だと思うの」
「ヴィオラ……」
カイルが俯く。ヴィオラへの回復魔法の効き具合は、だんだんと悪くなっているようだ。彼女の命の火が少しずつ消えそうになっていることは、カイルにも嫌でも感じられた。
ヴィオラはカイルを見つめて微笑んだ。
「カイルと一緒に過ごした毎日は、本当に楽しかった。これでもし幻の湖が見られるなら、何も言うことはないわ」
カイルは、ヴィオラの手を包んだ両手に、そっと力を入れることしかできなかった。
「本当にありがとう、カイル。私と一緒にここまで旅をしてくれて」
「僕のほうこそ」
切なげな表情を浮かべて、カイルがヴィオラを両腕に抱き締める。
ノクティスはベッドに飛び乗ると、ヴィオラの枕元に座ってじっと彼女を見つめていた。
***
その二日後、二人はノクティスを連れて、幻の湖を探すために宿を出た。その後も連泊する予定で、荷物は宿に置いている。
到着の翌日には、高地に慣れさせるためにヴィオラを宿に残して、カイルは一人で周辺の探索をしていた。その後の幻の湖探しを、ヴィオラにとって少しでも楽なものにしたかったからだ。できれば幻の湖を先に見付けて、ヴィオラを案内したいと思っていたカイルだったけれど、結局見付けることはできなかった。
出発の日、天気は薄曇りで少し肌寒かったものの、うきうきとした様子でヴィオラは笑った。
「ふふ。幻の湖が見付かるかはわからないけれど、楽しみだわ」
「ああ、そうだね。体調は本当に問題ないのかい?」
「ええ、もうすっかり落ち着いたわ」
そう答えたヴィオラだったけれど、その顔はまだ血色が悪かった。心配そうに彼女を見つめるカイルの前で、ヴィオラが村はずれの草原に向かって足を踏み出す。この先は、カイルもまだ確認できていない場所だった。踏み固められた細い道が薄らと見える程度で、変身後のノクティスが通れるほどの幅はない。生い茂る草木の間を縫って進むしかなさそうだった。
「足元に気を付けて」
カイルが言った途端、ヴィオラが足を縺れさせる。
「あっ……」
すぐにカイルはヴィオラを抱き留めた。ヴィオラの頬がほんのりと染まる。
「ごめんなさい。気を付けてって言ってくれたばかりなのに」
「いや、いいんだ」
カイルは、ほっそりとしたヴィオラの身体を支えながら思った。
(今のは、転びかけたっていうよりも……きっと、足に十分な力が入らないんだ)
寂しさを押し殺すようにして、カイルはふわりと両腕にヴィオラを抱き上げた。
「えっ、カイル……!?」
ますます顔を赤くしたヴィオラに、カイルが微笑む。
「大丈夫、こうやって行こう」
「でも……」
「ほら、僕に任せて」
カイルがヴィオラに軽くウインクをする。
有無を言わさずにヴィオラを抱いて進むカイルの腕は優しく、力強い。足元が覚束なくなってきたことを自覚し始めていたヴィオラは、彼の両腕に身体を預けた。
「ありがとう」
温かな彼の両腕も、しっかりとした胸も、そして見上げる彼の凛々しい顔も、頼もしい立派な青年のそれだった。
愛しさが込み上げてきて、ヴィオラはそっと彼の胸に頭を寄せた。細い道の両側に生える、背の高い草や伸びる枝がヴィオラに当たらないように、カイルは慎重に足を運ぶ。
「どこに向かえばいいかわからないけど、とりあえず、このまま進んでみようか。もし幻の湖がなかったとしても、この先に、眺めの良い場所があるはずだよ」
「ええ。楽しみだわ」
前日のうちに、カイルは宿の主人に近場の見所を含めて確認していた。もしも幻の湖が見付からなかったとしても、ヴィオラをがっかりさせないようにという配慮からだった。
いつの間にか、二人の前をノクティスが軽い足取りで歩いていた。まるでヴィオラとカイルを案内するかのように、ちらちらと二人を振り返る。
「あら。もしかしたら、ノクティスは幻の湖の場所を知っているのかしら?」
「はは、そうだといいね」
しばらく進むと、周囲の草の丈が次第に低くなり、視界が開けてきた。切り立った崖の上から、町や村が点々と見える。
ヴィオラは遠く見える村々に目を細めると、深呼吸をした。
「いい景色ね。あの村は、私たちが前に泊まったところかしら?」
ヴィオラが眼下に見える村を指差す。
「ああ、そうだね」
「もう、こんなに高い所まで来ていたのね……」
感慨深げに言ったヴィオラは、申し訳なさそうにカイルを見上げた。
「ごめんなさい、カイル。結局、すっかりあなたに甘えてしまって」
「僕は全然平気だから、気にしないで。ヴィオラに甘えてもらえるほうが、僕も嬉しいし」
実際のところ、カイルが心配になるほど、ヴィオラの身体は華奢で軽かった。ここ数日、彼女の食がとりわけ細くなっていることが、カイルには不安でならなかった。
高所からの眺めを楽しむ二人の前で、ノクティスが道なき道を左に折れる。まるで知っている場所を進むかのように、堂々と進む方向を変えたノクティスを、カイルは不思議そうに見つめた。
「あれっ、ノクティス?」
ノクティスの後をついて、カイルがその先にある背の高い木々の奥に回り込む。すると、見える景色が一気に変わった。
「これは……」
「わあっ、素敵ね!」
ヴィオラがカイルの腕の中で目を輝かせる。崖沿いに、びっしりと敷き詰められるように黄色い花が咲いていた。空を背景にして、黄色い花の絨毯が浮かび上がるような光景に、二人とも目を奪われる。
「こんな場所があったのね」
「本当だね。綺麗だ……」
涼しい風にそよそよと黄色い花が揺れ、優しい香りが二人を包む。
しばらく目の前の景色に見惚れていたカイルは、ふと視線を上げた。黄色の花畑と曇り空との境界の辺りに、不思議な白っぽい輝きが見える。
「……?」
目を凝らしたカイルが、声を震わせる。
「ねえ、ヴィオラ。あれって……」
ヴィオラは、カイルが指差した先を目で追った。雲の切れ目から覗いた太陽が、周囲を明るく照らす。鏡面のように光を弾くものに気付いて、彼女は興奮気味にカイルを見上げた。
「……! 幻の湖だわ……!!」
カイルははやる気持ちを抑え切れずに、急ぎ足で湖の見える方向へと向かった。ノクティスも弾むような足取りで二人についてくる。
断崖絶壁の手前から覗くと、小さな湖は崖越しに薄らと見えた。湖は輝くばかりの銀色の花に囲まれている。
カイルは興奮気味に口を開いた。
「あの場所なら、いったんさっきの道に戻って、崖沿いをもうしばらくいけば、きっと辿り着けるよ」
崖の向こう側に見える幻の湖まで辿り着くには、まだ時間はかかりそうだったけれど、場所がわかったことで、カイルは胸を撫で下ろしていた。
「そうね」
ヴィオラが微笑みを浮かべる。
「……でも、もう十分よ、カイル」
「えっ……?」
はっとしてカイルがヴィオラを見つめる。彼女の顔は紙のように白くなっていた。




