昨夜の記憶
翌朝、目を覚ましたヴィオラは、ベッドの上で彼女を見つめる瞳に気が付いた。気遣わしげな、美しい金色の瞳だ。
「あ……カイル、おはよう」
「おはよう、ヴィオラ。体調はどう?」
ヴィオラは上半身を起こそうとして、くらりと眩暈を覚えた。全身がどことなく熱くて怠い。
「少し熱っぽいみたい。でも、たいしたことはないわ」
「そうか……」
そっとカイルがヴィオラの額に触れる。
「昨夜、ヴィオラが高熱でうなされていたから、心配していたんだ」
労わるように、彼は続けた。
「昨夜よりは熱は下がったみたいだけど、まだ熱いな。安静にしたほうがいいね」
夜に火照っていたヴィオラの顔から、赤みはかなり引いていた。しばし口を噤んでいたヴィオラが、カイルに尋ねる。
「もしかして、夜中に、私の額を冷やしてくれた……?」
昨夜の記憶は、夢と混ざり合うように、薄らとしか残っていない。けれど、額にひんやりとした感覚があったことは思い出した。
「ああ。かなりの高熱が出ていたからね」
昨夜見た夢を思い出しながら、ヴィオラがおずおずとカイルに尋ねる。
「あの……カイル……私、あなたに抱き着いたり、したかしら……?」
不安のうちにカイルの名前を呼んでから、彼の胸に飛び込んだこと、温かな腕を感じてほっとしたことが、朧げにヴィオラの記憶にあった。けれど、それが夢か現実か、定かではなかったのだ。
カイルの頬が染まり、その瞳が微かに揺れる。
「それも……覚えてるの?」
「ごめんなさい……! 私、夢かと思って……」
狼狽えるヴィオラを前にして、カイルはくすりと笑みを零した。
「夢の中だと思ったとしたって、嬉しいよ。ヴィオラがあんな風に僕に甘えてくれたのは、初めてだったから」
(私、カイルに何てことを……!)
昨夜、カイルの胸に飛び込んだ記憶が次第に頭に蘇ってきて、ヴィオラは思わず両手で顔を覆った。
悪夢にうなされて、思わずカイルの胸に縋ってしまったことも、彼が優しい声で、大丈夫だと繰り返してくれたことも思い出した。大胆なことをしてしまった恥ずかしさに、穴があったら入りたい気分になる。
カイルが至近距離にいることにも、改めてどぎまぎとしてしまう。
「あんなに熱が高かったんだ、不安に感じたって当然だよ。いつだって、僕を頼って」
さらりとヴィオラの髪を撫でると、カイルは起き上がってベッドから下りた。
「君の体調が落ち着くまで、しばらくここに滞在して、ゆっくりと過ごそう。移動を急ぐせいで、これ以上君の具合が悪くなったら、元も子もないから」
ヴィオラをじっと見つめたカイルの眉尻が下がる。
「君の身体には、もっと僕が気を付けなければいけなかったのに。無理をさせてしまって、ごめん」
ヴィオラは首を横に振った。
「毎日が楽しくて、つい自分の体調を後回しにしてしまったのは私なのよ。カイルが気にすることなんて、少しもないわ」
「でも、これ以上の無理は禁物だよ。……僕の回復魔法だけではなくて、薬を使ってもいいかもしれないね。薬屋ならきっと早い時間から開いているだろうから、町で探してくるよ。ヴィオラはここで休んでいて」
「……ありがとう」
カイルの温かな笑顔に、ヴィオラは頷くことしかできなかった。
***
ヴィオラは、カイルが部屋を出てから、朝日の眩しい窓の外を眺めていた。賑やかだった昨夜とは違って、まだ早朝の今の町は静かだ。
(カイルに心配をかけてしまって、申し訳ないわ)
ヴィオラがゆっくりと目を閉じる。
(やっぱり、私の身体は……いつ動かなくなるか、わからないのね)
昨夜、全身が熱く、鉛のように重かったことも、カイルに縋らずにはいられなかった心細さも、ぼんやりと思い出した。身体に力が入りづらい感覚や、収まらない怠さから目を背け続けてきたけれど、やはり逃げることはできなかったようだ。
自分に残された時間が僅かしかないことを、嫌でも感じざるを得ない。
ヴィオラの頭に、旅に出てからの光景が蘇ってくる。
舞い散る美しい薄桃色の花、芳しい香りのコーヒー、甘酸っぱい苺のタルト、明るい陽射しに包まれたカフェ。
馬車の窓から見た初めての景色、ステンドグラスが彩る荘厳な大聖堂、賑やかな屋台の灯り、夜空を走る流れ星。
そして――嬉しそうに尻尾を振るノクティスと――温かなカイルの笑顔。
(カイル……)
楽しい旅の思い出には、いつでもカイルの笑顔があった。誰よりヴィオラを気遣い、寄り添い、惜しみない優しさを注いでくれる彼の存在は、日に日にヴィオラの中で大きくなっている。
(もっと、カイルと一緒の時間を過ごしたい。まだ、生きていたいわ……)
旅の思い出が輝いて見えれば見えるほど、死の恐怖はじわじわとヴィオラを蝕んでいた。
アダムに捨てられた時には、もうどうなってもいいと感じていた自分の命が、今更惜しく感じられる。
できるだけ前向きに、残りの人生を楽しもうと考えていたヴィオラだけれど、ふとした瞬間に、底知れぬ暗い深淵が、目の前に広がっているような気がするのだ。
怖くて不安でどうしようもない時、カイルの優しさには言葉にならないほど救われている。『一緒にいたい』と言ってくれた彼の言葉は、心の深く柔らかい部分に届いていた。
それでも、どれほどカイルが大切か、はっきりと口にすることができない自分がもどかしくもある。
カイルの瞳に浮かぶ切ない色の意味を探してしまいそうになり、胸が締め付けられるような思いがする。
苦しそうに息を吐いたヴィオラに気付いたかのように、顔を上げたノクティスが立ち上がる。彼女の側まで来ると、顔に鼻をすり寄せた。
ヴィオラは手を伸ばすと、ノクティスを撫でた。
「……いい子ね」
ノクティスは、琥珀色の大きな瞳でじっとヴィオラを見つめている。なぜか、ノクティスに見つめられると、心に秘めた想いまで見透かされるようにヴィオラには思えた。
ノクティスの頭を撫でながら、ヴィオラが呟く。
「ねえ、ノクティス。私がいなくなっても――カイルをよろしくね」
ヴィオラの言葉を、ノクティスは黙ったまま聞いていた。




