幸せな時間
店内には芳しいコーヒーの香りが漂っていた。二人はそれぞれコーヒーを注文したけれど、ヴィオラの視線が、ケーキが並ぶガラス張りのケースに釘付けになっていることにカイルは気付いた。
「ケーキも頼もうか?」
「……いいかしら?」
「もちろん」
嬉しそうに笑ったヴィオラは、ケースに並べられたケーキを熱い瞳で見つめた。フルーツがふんだんに飾られた幾種類ものタルトや、たっぷりのクリームで飾られたケーキ、ガトーショコラやモンブランなど、どれも目にも鮮やかで美しい。
「うーん、迷ってしまうわ」
真剣なヴィオラの表情に、カイルがくすっと笑う。
「どのケーキで迷っているの?」
「あの苺のタルトと、ガトーショコラのどちらにしようかなって……」
「わかった」
カイルは店員に声を掛けると、苺のタルトとガトーショコラを注文した。
「えっ、両方?」
「うん。そうすればヴィオラはどっちも食べられるでしょう? 僕は特にケーキにこだわりはないから」
「……ありがとう」
カイルのさりげない優しさに、ヴィオラの胸がきゅんとときめく。
ヴィオラとカイルがテラス席につくと、店員が温かなコーヒーとケーキを二人の前に運んできた。
カイルはコーヒーを一口飲んで幸せそうに笑うと、コーヒーカップを傾けるヴィオラを見つめた。
「こんなお洒落なカフェを見付けるなんて、さすがヴィオラだね。コーヒーも美味しいし」
「偶然だけれど、よかったわ。カイルはこういうカフェには来るの?」
カイルがコーヒーカップに視線を落とす。
「王立魔術学校の帰りに、勉強がてら何度か寄ったな。帰り道の途中、大通りから少し入った場所に、割と空いているカフェがあって。家に帰りたくなくて、勉強が終わってもしばらく考え事をしたり、ゆっくりコーヒーを飲んだりして……」
ヴィオラには、カイルがふっと寂しげな表情を浮かべたように見えたけれど、彼はすぐに笑顔に戻った。
「ケーキもどうぞ?」
まず苺のタルトを食べたヴィオラが、ほうっと感嘆の息を吐く。
「こんな美味しいタルトを食べたのは、初めてかもしれないわ……!」
「本当に?」
「ええ。大袈裟じゃなくって、凄く美味しいの。カイルもどうぞ」
「うん、これは美味しいね」
苺のタルトに伸ばしたフォークを口に運んだカイルが、にっこりと笑う。
「これまで、カフェではコーヒーしか頼んだことはなかったんだ。ここのケーキはきっと特別美味しいんだろうけど、今まで損してたのかもしれないな」
「ふふっ、そうね」
濃厚で味わい深いガトーショコラも、ヴィオラはカイルと一緒に楽しんだ。ノクティスはタルトの上の苺を一粒もらい、満足そうに二人の足元で地面に寝そべっている。穏やかな時間が彼らの間に流れていた。
ヴィオラは、カイルとなら気取らずにくつろいだ気持ちで過ごせる。義弟になる予定だったために、カイルをどこか身内のように感じていたヴィオラだったけれど、彼と向き合ってお喋りをしながら、ふと思った。
(何だか、こうしていると、本物の婚約者同士というか、まるでカイルの恋人になったみたいだわ……)
意識してしまうと、一気に頬に熱が集まった。知的で端整な顔立ちをしたカイルが彼女に向ける瞳は温かい。
「カイル、付き合ってくれてありがとう」
「僕も、こうしてヴィオラと過ごせて楽しいから。でも、こうしてカフェで甘いものを食べてコーヒーを飲むことくらい、しようと思えば、すぐにできたはずなのに……その余裕さえなかったなんて、これまで大変だったね」
カイルの兄のアダムは、仕事に無関係なことは容赦なく切り捨てる。カイルにも、ヴィオラが元婚約者だった兄と、このようにゆったりとした時間を過ごせなかったであろうことは、想像に難くなかった。
微かに眉尻を下げたカイルの前で、ヴィオラが俯く。
「できないわけではなかったと思うの。でも、絶対に必要なことでもないし、つい目の前の仕事を優先して、いつか時間ができたらって思うばかりで、ずっと先延ばしにしていたわ」
次々にやってくる魔物討伐と、アダムの期待。そのために必要な準備と、確実に結果を出さなければいけないプレッシャー。アダムが次期魔術師団長を目指して必死になっていることを知っていたからこそ、ちょっとした息抜きさえも躊躇ってしまった。仕事に追われるように日々を過ごしていたら、気付けば余命僅かと宣告されたのだ。すべてを捧げてきた仕事とアダムに裏切られたようで、虚しい気持ちがないと言えば嘘になる。
「私、こんな身体になってしまって、アダム様にも見放されて、あの時は、目なんて覚めなければよかったのに、って思ったの。でも……」
顔を上げたヴィオラが、真っ直ぐにカイルを見つめる。
「もし私が怪我を負った時に命を落としていたら、こんな幸せがあることに気付かなかった。それに、もし私が一人きりだったら、これほど満たされた気持ちにはならなかったわ。カイルがいてくれるから、こんなに楽しいの」
「ヴィオラ……」
切なげな表情を浮かべたカイルの前で、ヴィオラが微笑む。
「幻の湖には辿り着けないまま、旅の途中で私の身体が動かなくなったとしても……私、最後にこんな素敵な時間を過ごせたこと、忘れないわ」
コーヒーカップを包むヴィオラの手に、カイルが両手を重ねる。
「絶対に、幻の湖を探し出そう。僕たちなら見付けられるよ」
「……ありがとう」
(余命短い私のために、こんなに親身になってくれるなんて……)
幻の湖に辿り着くことは、今の身体ではきっと難しいのだろうとヴィオラは感覚的に理解していた。それでも、幻の湖を見付けることは、暗く朧げな足元を照らす希望の光になっている。
カイルは両手にそっと力を込めた。
「こうして、したいことを一つずつ叶えながらでも、目的地には着実に近付いているから安心して」
「ええ」
ヴィオラが頷く。カイルの温かな気遣いが、彼女には嬉しかった。
「僕じゃ、兄上の代わりにはなれないかもしれないけど……君を全力で守るから」
(そういえば、私、アダム様のことを思い出すこともなくなってきているわ)
目覚めたばかりの時には、アダムと想い合っていた過去ばかり思い返して、幾度も涙を流したヴィオラだったけれど、カイルの存在が、だんだん心の傷を癒しているようだ。
マイヤと一緒に去っていったアダムを思い出しても、特に胸の痛みは感じなかった。
「アダム様よりも、私はあなたが側にいてくれることが嬉しいの。頼りにしているわ」
安堵の表情を浮かべたカイルが、嬉しそうに笑う。
その後、カフェを出た二人はノクティスを連れて、馬車で少しずつカリスティード王国を北上していった。




