優しい手
夜が更けて、窓の外にはしんと静かな夜空が広がっていた。明るかった町の灯はほとんど消えて、町全体が寝静まっているようだ。
カイルはなかなか寝付けずにソファーから起き出してくると、大きな窓をごく薄く開けた。吹き込んできた涼しい夜風が、彼の頬を撫でていく。
(同じ部屋にヴィオラがいると思うと、なかなか眠れないな……)
既にヴィオラはベッドですやすやと眠っている。しばらくヴィオラとこれからの旅について計画を立ててから、眠そうになってきた彼女にカイルはベッドを勧めた。しばらく遠慮がちに渋っていたヴィオラだったけれど、とうとう折れてベッドに入ったのだった。
ヴィオラの隣で丸くなって眠るノクティスを眺めて、カイルが穏やかに笑う。
(呑気なものだな、ノクティスは)
ノクティスはすっかりヴィオラに心を許しているようだ。一番ヴィオラに近い位置を堂々と占めているノクティスを、カイルは微かな羨望を込めて見つめた。
足音を潜めてベッドの側に近付くと、カイルはヴィオラに回復魔法を唱えた。夜の闇の中で、仄かな光がヴィオラの身体を包み込む。
ほとんど灯りのない夜のせいか、ヴィオラの肌はさらに青白く見えた。
(どうか、彼女の体調が良くなりますように)
祈るような思いを込めたカイルは、ほんの小さな声で呟いた。
「ヴィオラ……」
敬称を付けないで呼ぶだけで、なぜか距離が近付いたように感じる。
自分の我儘だとは自覚しつつも、ヴィオラも同じように感じてくれたならと、カイルは願わずにはいられなかった。
「貴女は僕のすべて。貴女の幸せのために、ほんの少しでも僕に何かできますように」
切ない声で絞り出したカイルの声が、静かな夜の部屋に溶けていく。
カイルはゆっくりとヴィオラに背を向けると、ソファーに身体を横たえた。
***
翌朝、ヴィオラは高い鳥の囀りで目を覚ました。明るい朝陽がカーテンの隙間から部屋に差し込んでいる。
(そうだ、カイル様……いえ、カイルも一緒の部屋にいるのよね)
ゆっくりとベッドの上に身体を起こしたヴィオラがソファーを眺めると、カイルはまだソファーの上で眠っていた。
そっとベッドを抜け出して彼に近付くと、その無垢な寝顔が見えた。
(よく眠っているみたいね。それにしても、綺麗な顔をしているわ……)
前髪を切って、目元がはっきりと見えるようになったせいで、彼の端整な顔立ちが露わになっていた。すっと通った鼻筋に、形のよい唇。切れ長の涼しげな目元には、長い睫毛が朝陽を受けて淡い陰影を描いている。
天使のように見えつつも、そこはかとなく漂い出る色香を感じて、ヴィオラの頬には熱が集まる。
(何だか、カイルが急にこれまでとは違って見えて、戸惑ってしまうわ)
少し前までは本当の弟のように可愛がっていた彼が、建前上の婚約者になったり、敬語を使わなくなったりと、ヴィオラは突然の変化に困惑していた。けれど、決して嫌な感じはしない。
(カイルはアダム様の弟だけれど、性格はまったく違う。思いやりがあって、どこまでも優しい)
魔術師として役に立たなくなった途端、用済みとばかりに自分を捨てたアダムとは対照的に、カイルは、余命僅かなヴィオラを常に気遣ってくれる。
まるで神様が遣わしてくれた本物の天使のように思いながら、ヴィオラはしばらくカイルの寝顔を見つめていた。
足元に温かな感触を覚えて、ヴィオラが下を向く。そこにはつぶらな瞳で彼女を見上げるノクティスがいた。
「あら、ノクティス」
ヴィオラがノクティスを抱き上げる。ノクティスは彼女の顔をペロリと舐めた。
「ふふっ、おはよう」
その時、カイルが薄く目を開けた。何度か目を瞬いたカイルが、はっとソファーの上で上半身を起こす。
カイルは恥ずかしそうに笑うと、ヴィオラを見つめた。
「ヴィオラ、おはよう」
「……おはよう、カイル」
輝くようなカイルの笑顔に、ヴィオラは思わず眩暈を覚えた。
「昨夜はソファーの上で寝てもらうことになって、ごめんなさい。疲れが取れていないのではないかしら……?」
心配そうに尋ねるヴィオラに向かって、カイルが首を横に振る。
「いや、すっきり気持ちよく目覚めたよ。起きた時からヴィオラの顔が見られるなんて、何ていい朝なんだろうって」
驚きに目を瞠ったヴィオラが、くすくすと笑い出す。
「カイルって、お世辞が上手なのね……! でも、嬉しいわ」
誰にも必要とされなくなったはずの自分を、こんな笑顔で迎えてくれるカイルの存在は、ヴィオラにとって何より心強い。
「朝食を軽く摂ったら、辺りを散歩しながらカフェを探すのはどうかな?」
「それはいい考えね」
この日も、窓の外には抜けるような青空が広がっている。
眩しい朝陽に照らされる町並みを窓から眺めて、ヴィオラは目を細めた。
朝食後に一休みしてから、ヴィオラはカイルと一緒にノクティスを連れて町歩きに出かけた。
石畳の大通りはところどころ凸凹としていた。カイルがヴィオラに手を差し出す。
「手を繋ごうか」
(えっ……?)
一瞬躊躇ったヴィオラだったけれど、はたと気が付いた。
(石畳の道があまりよくないから、私が転ばないように、きっと気遣ってくれているのね)
体調自体は悪くないものの、足に力があまり入らなくなったように感じて、ヴィオラは心細い気持ちでいたのだった。
遠慮がちに頷いたヴィオラがカイルの手を取ると、彼は思いのほか嬉しそうに笑った。
滑らかで大きな彼の手を感じて、ヴィオラの胸がうるさくなる。
「体調はどうだい?」
彼の手に気を取られていたヴィオラが、慌てて口を開く。
「大丈夫! 今日も元気よ」
「それならよかった」
ほっとカイルが胸を撫で下ろす。
「いつも私のことを気遣ってくれて、ありがとう。こうして町歩きをするのもいいわね」
朝の爽やかな風が、ヴィオラの長いプラチナブロンドの髪を揺らす。彼女の横顔を、カイルは眩しそうに見つめた。
「そうだね。知らない景色をヴィオラと眺めるのも楽しいよ。どこか気になるカフェがあったら教えて?」
「ええ。テラス席があるところなら、ノクティスも連れて入れるかしら?」
「そうだね」
ノクティスはひょいひょいと身軽に、二人の周りの石畳を歩いてついてきている。
(やっぱり賢くて人懐こい、可愛い子だわ)
カイルと二人きりだと少し緊張してしまうような場面でも、ノクティスがいるとどこか気持ちがほぐれる。可愛いノクティスが懐いてくれることにも、ヴィオラは救われていた。
二人が少し細い路地に入った時、ちょうど目の前に現れたカフェに、ヴィオラは目を輝かせた。
「このカフェはどうかしら?」
カイルも明るい顔で頷く。
「素敵なところだね」
隠れ家的な趣のある煉瓦造りのカフェには、大きなガラス張りの窓越しに、数多くのケーキや菓子類が並んでいるのが見える。ノクティスを抱き上げたヴィオラとカイルは、早速カフェに足を踏み入れた。
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