婚約者の弟
ヴィオラはカイルの前で弱々しく目を開くと、必死に言葉を紡いだ。
「カイ……ル、様……」
ヴィオラの視界に、黒く長い前髪の間から金色の目を輝かせるカイルの姿が映る。
掠れたヴィオラの声を聞きながら、カイルは両手で彼女の手を包み込んだ。
「無理はしないでください、ヴィオラ様。痛みはありませんか?」
ヴィオラが小さく頷く。全身が鉛のように重く、あまり力は入らなかったけれど、特に痛みは感じなかった。
「ヴィオラ様が目を覚ましてくれて、僕は本当に嬉しくて……!」
大粒の涙がカイルの目から零れ落ちる。彼は、そのまま大切そうにヴィオラの手を胸に抱き締めた。
少ししてはっと我に返ったカイルは、慌ててヴィオラの手を胸から離した。
「……すみません。嫌ではありませんでしたか?」
微かに笑みを浮かべ、今度は首を横に振ったヴィオラを見て、カイルはほっと胸を撫で下ろした。
「よかった……」
何か言いたげに再び口を開こうとしたヴィオラを見て、真剣な表情でカイルが続ける。
「ちょっと待ってください」
彼はヴィオラの喉元まで手を伸ばすと、もう一度回復魔法を唱えた。淡い霧が舞い、ヴィオラの首を包み込む。
ヴィオラは、かさかさと乾いていた喉が潤ったように感じた。深く息を吸い込んでから、ヴィオラが言葉を紡ぐ。
「ありがとうございます、カイル様」
「いえ。これくらい、何でもありません」
微笑んだカイルはしばし口を噤むと、逡巡してから口を開いた。
「……兄上を呼んできましょうか?」
彼の顔には、苦しそうな影が差している。まるでカイル自身が痛みを感じているようなその表情に、ヴィオラは彼の繊細な気遣いを感じながら、ゆっくりと答えた。
「いいえ。アダム様は、私が目覚めても喜ばないでしょうから」
「‼︎」
カイルの顔がすうっと青ざめる。
「ヴィオラ様……まさか、さっきの兄上たちの言葉を聞いていたのですか?」
カイルの言葉に、ヴィオラは力なく頷いた。
「ええ」
カイルはベッドの横に膝をつくと、深く首を垂れた。
「本当に申し訳ありません、ヴィオラ様。身を挺して兄上を助けてくださったヴィオラ様に、あまりにも酷いことを……」
「カイル様、貴方が謝る必要はありませんわ。それに私、自分の身に何が起きたのか、まだすべては思い出せずにいるのです」
「……そうでしたか」
魔物に襲われそうになっていたアダムを助けようと、身体で彼を庇い、残り僅かな魔力を振り絞って防御魔法を唱えたところまでの記憶は、薄らとヴィオラに残っていた。けれど、ヴィオラの記憶はそこでぷつりと途切れている。自分がアダムを庇うことができたかどうかも曖昧だった。 ただ、さっきヴィオラの耳にアダムの言葉が届いたことからは、少なくとも彼が無事だということはわかる。
(そうだとしても、アダム様は私を見放した)
ヴィオラの胸に、鈍い痛みが走る。彼女は、ふっと遠い目をした。
「アダム様にとって、私はとっくに過去の存在になっていたのですね……」
絶望を滲ませて、消え入りそうな声で呟いたヴィオラの青紫色の瞳を、身を乗り出したカイルが必死に覗き込む。
「そんな顔をなさらないでください、ヴィオラ様」
真っ直ぐなカイルの金色の瞳からは、ヴィオラを心から慮っていることが感じられた。長い前髪に覆われた彼の表情は、普段はわかりづらい。けれど、彼がベッドに身を乗り出した時、いつも長い前髪に隠されている彼の顔立ちを間近で見て、ヴィオラは美しく成長した彼の姿に驚いていた。涼しげに整った彼の顔立ちは、近くで見ると息を呑むほどだった。背もすらりと高く伸びている。
(まだ幼いような気がしていたのに……。いつの間にか、立派な青年になっていたのね)
カイルは兄のアダムとは歳が八つ離れており、ヴィオラの三つ年下に当たる。ヴィオラが彼と初めて会ったのは、三年ほど前、彼女が十七歳でカイルが十四歳の時だ。兄の婚約者となったヴィオラとの挨拶すら恥ずかしがっていた、線が細く小柄だった当時のカイルは、ヴィオラにとって純朴で可愛く見えた。滅多にいない闇属性の持ち主は、世間一般では不吉とされている。闇属性は魔物を呼び寄せるとか、目が合うと呪われるなどと噂されていたけれど、ヴィオラは気にすることはなかった。むしろ、カイルが人見知りで部屋に引き籠っているのはそのせいなのだろうかと、彼の存在を気にかけていたのだ。
しばらく口を噤んでいたヴィオラに向かって、カイルは優しく言った。
「お目覚めになったばかりですが、食欲はありますか?」
「いいえ、ありません。ただ、少し眠くなってきました」
側で寄り添ってくれるカイルの存在に気が緩んだのか、ヴィオラに強い睡魔が襲ってきた。うとうととし始めたヴィオラに、カイルが微笑む。
「では、ゆっくり眠ってください。おやすみなさい、ヴィオラ様」
ヴィオラは頷くと、静かに目を瞑った。
間もなく穏やかな寝息を立て始めたヴィオラを、カイルが切なげな瞳で見つめる。
「ヴィオラ様……」
噛み締めるようにヴィオラの名前を口にしたカイルは、彼女の手の甲にそっと口付けた。




