幸せだった記憶
ヴィオラが再び目覚めると、窓の外はちょうど陽が傾いてきたところだった。夕陽の橙色に染まる部屋の中で、薄いカーテン越しに涼しい風がヴィオラの頬を撫でていく。
(ああ、これは悪夢ではなく、現実なのね)
さっきと同じベッドの上で薄く目を開けたヴィオラは、今の自分の状況を改めて認めざるを得なかった。
(私、馬鹿みたい。アダム様のあの言葉を聞くまでは……私は彼にとって特別な存在なのだと、疑いもなく信じていた)
胸に空虚な穴がぽっかりと開いたように感じながら、現実から目を背けるようにヴィオラが目を閉じる。彼女はすっかり途方に暮れていた。
(私には、頼れる家族もいない。これからどうしたらいいのかしら……)
ヴィオラはフェルナート伯爵家の一人娘だったけれど、母は彼女が幼い頃に他界し、父も魔物との戦いで命を落とした。ヴィオラの後見人という名目でフェルナート伯爵家にやってきた父方の叔父は、伯爵家を乗っ取るような形でヴィオラを家の隅に追いやった。光属性の強力な加護が突然ヴィオラに発現したのは、伯爵家で虐げられていた彼女が独りぼっちで耐えていた時のことだ。ヴィオラは半ば逃げるように家を出て、王立魔術師団に入団したのだった。
かつてのアダムの笑顔が、言葉が、ヴィオラの頭に甦ってくる。
『素晴らしい才能だよ、ヴィオラ。まだ魔法を使い始めたばかりとは思えない』
アダムは、ヴィオラが王立魔術師団に入団した時から、飛び抜けて優秀な彼女に目をかけていた。そして、新人に対しては珍しく、彼が直々にヴィオラに魔法を指導することも少なくはなかった。
とりわけ回復魔法に優れ、目を瞠るほどにどんどんと腕を上げていくヴィオラに、アダムは輝くばかりの笑顔を向けたのだ。
『光の精霊に余程愛されているのだろうな。君ほどの回復魔法の使い手は初めてだ』
艶やかな栗色の髪を靡かせ、燃えるような橙色の瞳をした凛々しいアダムは、優れた魔法の腕に加えて、その端整な容姿でも魔術師団で人気が高い。威風堂々として自信に溢れる彼は、ヴィオラにとっても憧れの存在だった。そして、叔父に乗っ取られた伯爵家で疎んじられていたヴィオラには、眩い彼が自分を特別扱いしてくれることが、まるで奇跡のように感じられた。尊敬する彼に指導を受ける度、ヴィオラの胸は高鳴った。
そんなアダムがヴィオラに向ける視線は、いつしか甘やかなものに変わっていった。
『ヴィオラ……もう、俺の気持ちに気付いているだろう?』
アダムが上司から恋人になり、とうとう彼に婚約を申し込まれた時には、幸福のあまり、ヴィオラはぽろぽろと涙を流した。彼は涙の止まらないヴィオラを抱き締めると、美しいダイヤの婚約指輪を贈り、必ず幸せにすると彼女の前で誓ったのだ。
(……でも、あの頃のアダム様は、もういない)
彼から吐き捨てられた、『このまま目を覚まさなければいいのに』という言葉を思い出し、ヴィオラの胸がすうっと冷える。
アダムの心変わりが、ヴィオラにはまだ信じられないような気持ちだった。自分の光魔法の能力だけにアダムは魅力を感じていたのだろうかと、やるせない気持ちになる。
(アダム様とマイヤは、いつからあんな関係になっていたのかしら……?)
マイヤとヴィオラは魔術師団の同じ小隊に所属している。アダムのお気に入りだったヴィオラに、親しげに声をかけてきたのがマイヤだった。
ヴィオラの一つ年下のマイヤは華やかな美人で、優れた火魔法の腕を持つ自信家だ。裕福な伯爵家出身の彼女は、ウェーブした艶やかな金髪に、ぱっちりと大きな桃色の目をしている。魔術師団でいつもヴィオラの側にいたマイヤは、同じく火属性の上司であるアダムを慕っており、ヴィオラと親しくなってからは、マイヤとアダムが近しく話す時間も目立って増えていた。
(……マイヤははじめから、私を友人だと思っていなかったのかもしれないわ)
さっき耳にした、ヴィオラを見下すようなマイヤの言葉が胸に刺さる。今から思い返せば、アダムの前でだけとびきりの笑みを浮かべていたマイヤは、彼のことしか眼中になかったのかもしれなかった。
重い瞼を上げたヴィオラが左手を見ると、肌身離さずヴィオラが身に着けていた、アダムから贈られた婚約指輪が、今も彼女の薬指できらきらと輝いている。眩く夕陽を弾く婚約指輪だけが変わらずにそこにあることが、ヴィオラには皮肉に感じられた。
(何も知らなかったのは、きっと私だけね。光の高位精霊からの加護も薄らいでいるようだし……私には、もう何も残ってはいない。アダム様が仰っていたように、目など覚まさなければよかったのに)
以前よりも細くなった左手薬指に嵌っている、緩くなった婚約指輪を眺めて、喪失感に襲われたヴィオラは深い溜息を吐いた。
そんなヴィオラの横から、カイルの声が聞こえる。
「ヴィオラ様、お目覚めですか?」
「カイル様……」
重い身体を起こそうとするヴィオラに、カイルが手を差し伸べる。
「大丈夫ですか?」
ひっそりと佇んでいたカイルと、意外に逞しい彼の腕に驚きながら、ヴィオラは彼の手を借りて上半身を起こした。




