かりそめの婚約者
「でも、私はカイル様よりも年上ですし、婚約者だなんて思われたら、カイル様にとってご迷惑なのでは……?」
カイルが首を横に振る。
「ヴィオラ様が、僕を義弟としか見ていないことは知っています。でも、元婚約者の弟と旅をしていると言えば、きっと不可解な顔をされるでしょうし、僕たちは血が繋がっているようには見えないでしょうから、姉弟というのも難しそうです。何より、婚約者ということであれば、お側でヴィオラ様を支えやすいと思いますから」
「それはつまり、カイル様が名目上の婚約者になってくださるということですか?」
「はい、かりそめの婚約者とでも思っていただければ。ただ、お嫌であれば、もちろん無理にとは言いません」
(かりそめの婚約者……。私の余命を考えると、建前としてはぴったりなのかもしれないわ。近いうちにカイル様は私から解放されるでしょうし、私に残された時間は、彼に差し上げると約束したのだし)
真っ直ぐにカイルの瞳を見つめて、ヴィオラは頷いた。
「では、カイル様にとって問題ないようでしたら、婚約者ということでお願いします」
「ありがとうございます。こちらこそ、よろしくお願いします」
カイルに差し出された手を、ヴィオラが握る。彼のすべすべとした白い手の力が意外に強いことに、ヴィオラは改めて驚いていた。
「では、僕は部屋に戻ります。ヴィオラ様、どうぞよい夢を」
別れ際に、カイルは再び彼女に回復魔法を掛けた。ヴィオラの足元にちょこんと座るノクティスの頭を、カイルが撫でる。
「ノクティス。もし万が一何かあったら、ヴィオラ様のことを守ってね?」
琥珀色の澄んだ瞳でカイルを見上げたノクティスが、わかったと言いたげに尻尾を振る。カイルは微笑むと、ヴィオラの部屋を後にした。
***
夜が更けてきても、ヴィオラはなかなか寝付けなかった。ノクティスは、ベッドの片隅で丸くなっている。
(ふふ、可愛いわ)
微かに上下するノクティスの黒い背中を眺めて、ヴィオラが微笑む。しんと静かな真夜中の部屋で、ヴィオラは小さな机の上に手帳を広げた。ランプの温かな灯りがゆらゆらと手帳を照らす。窓の外には、暗い夜空を切り取るように明るい三日月が浮かんでいた。
「今日カイル様と見た満開の花、本当に綺麗だったわ……」
ヴィオラは、この日見た景色を思い返して、ほうっと幸せそうに息を吐いた。視界いっぱいに広がる薄桃色の花々を見上げて、優しい香りに包まれながら、花吹雪の中をカイルと歩いた時間は、まるで夢の中にいるようだった。
(人生って、こんなに豊かなものだったのね)
しみじみとしながら、ヴィオラが目を閉じる。それまでは、仕事とアダムのことが、常に彼女の頭の中でほとんどの位置を占めていた。必死に仕事に追われるばかりで、流されるように忙しい時間を過ごしていた日々が、ふと足を止めた今だからこそ、どれほど余裕がなかったのかがよくわかる。
風に舞う花弁をカイルに手渡されて、小さな花弁の瑞々しい柔らかさや、儚げな色合いまでもが、ヴィオラには新鮮に感じられた。どうして一枚一枚がこれほど精巧に作られているのだろうと、花弁に目を凝らして胸を打たれたのだった。
ゆっくりと目を開けたヴィオラが、手帳に並ぶ項目に星印を付ける。季節の花を楽しむことも、彼女がリストに加えた項目の一つだった。
「私が生きているうちに、あといくつ叶えることができるのかしら……」
ヴィオラがぽつりと呟く。自分の生命の灯があまり長くは持たないだろうということは、医者の言葉以上に、身体の感覚としてわかるところがあった。『幻の湖』を見ることまで叶える自信は、正直なところ、あまりない。
(でも、カイル様が私の側にいてくれて、本当によかった)
優しいカイルの存在は、ヴィオラが考えていた以上に大きかった。彼の回復魔法は、すぐに疲れて体調が悪くなる彼女によく効いたし、身体だけでなく、気持ちの上でも大きな支えとなっている。
(何かを分かち合える人がいるって、幸せなことなのね)
きっと、同じ花、同じ光景を一人きりで見たとしても、あれほど心は動かなかっただろうとヴィオラは思う。温かな陽射しの中、美しい景色を見た感動をカイルと共有できたことが、ヴィオラにとってはとても嬉しかったのだ。
(カイル様がかりそめの婚約者役を申し出てくださるなんて、驚いたけれど……)
カイルに、自分たちの関係を『婚約者』にしようと提案されたことは意外だった。彼にとって、何のメリットもないようにしか思えない。首を傾げたヴィオラだったけれど、真剣なカイルの表情を思い出し、色白の頬が薄らと染まる。
(カイル様は、もうお休みになったのかしら?)
壁一枚を隔てて隣の部屋にいるカイルのことを想像しながら、ヴィオラがゆっくりとベッドに入る。ヴィオラに気付いて、ノクティスがむくりと顔を上げた。
「ごめんなさい、起こしてしまったかしら?」
ノクティスは、ちゃっかりと彼女のブランケットの中に滑り込んだ。そのまま目を閉じたノクティスを見て、ヴィオラがくすりと笑う。
「本当に人懐こいのね。……おやすみなさい」
小さなノクティスのふわふわとした身体と温もりが、ヴィオラを安心させた。目を閉じたヴィオラは、深い眠りへと落ちていった。




