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お盆休みが終わり、親たちがいつもの日常を取り戻した一九日。
その日、六年三組の九班は、原田の家に集まった。自由研究の総仕上げをするためであった。
みんなが着替えを済ませた後に、原田は珍しく居間へと降りてきた。転校前に九班全員でやることのできる最期の宿題であったために、覚悟をしてきたようであった。体調を考えてマスクをしているために、表情は伺いにくかったが、笑顔であろうと思える感じを受けた。
「さあ、化学物質過敏症の事を、模造紙にまとめていこう」
吉岡の号令により、みんながどこに何を書くか、鉛筆で話し合いながら書いていこうということになった。
「まずは上に大きく化学物質過敏症についてと書こう」
口火を切ったのは原田であった。自分の病気が発端で、このような自由研究にさせてしまったことに対して、もう後ろめたさは感じることはなかった。以前の話し合いで、九班のみんなが自分の気持ちを理解してくれたとわかっていたからこそ、自ら動こうとしていたのだ。本音を言わないうちは、不可能な人間関係が、そこには築かれていた。
「そうしよう」
みんなが口を揃えて原田の鉛筆の動きを待った。原田がその意図を汲んで、模造紙に文字を書き込んでいく。
「清書も原田が書くんだよな」
思わず松本が言った。ここに転校する原田の気持ちを、一番大きな文字に託してもらいたいと思ったからだ。
「体調さえ良ければそうしなさい」
見守っている母親からの言葉であった。原田は一度鉛筆を止めると、大きく頷いた。
「その後は真ん中に体の絵を書いて、周りに化学物質の名前を書こう」
吉岡が頭の中で画いてきた構想をみんなに告げた。広田のノートに書かれた色々な化学物質の名前が模造紙に書かれていく。勿論、その中に食品添加物(科学添加)も書かれていく。
そしてその次に、症状が書かれた。
●粘膜刺激症…結膜炎、鼻炎、咽頭炎、皮膚炎、中耳炎、気管支炎、喘息など
●循環器症状…動悸、不整脈など
●消化器症状…下痢、便秘など
●自律神経症状…異常発汗、手足の冷え、易疲労性など
●精神症状…不眠、不安、うつ状態、記憶困難、集中困難、価値観や認識の変化など
●中枢神経症状…痙攣、頭痛、発熱、疲労感、光を眩しく感じるなど
●他にも運動障害、四肢末端の知覚症状、意識障害など
大体の全容が書かれた。
「これで後は清書して発表をするだけだね」
長い時間を経て、模造紙に書かれた文字を見て、広田がやり終えたという感じを、前面に押し出すようにして言った。他の四人も同じ思いで頷き、満足感を表情に出した。
「ねえ、ここの清書は私がやってもいいでしょう」
原田がみんなにというよりも母親に確認をした。母親の懸念は、マジックなどを使用するときに反応が出てしまうことであった。だが娘の気持ちを感が、その時には自分がすぐに対応すれば良いと考え
「いいわよ、でも体調が悪くなったらすぐに終わりにするからね」
厳しくも優しい視線が原田に向けられた。
「やったぁ」
この夏休みの間で、はじめて原田が腕を上げて全身で喜んだ。
「亜美ちゃん、よろしくね」
「亜美ちゃん、無理しないでいいから、ゆっくり」
二人の女が反応する。そして三人で手を取り合って喜んだ。
「じゃあ、明日これを取りにきますね」
吉岡が一気にこれを書くことを懸念して、模造紙を置いていく事を提案した。
「わかったわ、明日までに仕上げられるように亜美、頑張らないとね」
母親はいつもどおりに笑顔で答えてくれた。そして感謝で頭を下げた。
その日、みんなが帰った後、原田は下書きされた文字を、マジックでなぞる様にして清書をしていった。マスクをしているが、時折咳き込むことがあったが、休みながら仕上げていった。
「何としてでもこれは私がやるんだ」
休んでいる時に、何度となく母親に言った言葉であった。母親もその意思を尊重するように、体調を見ながら少しずつではあるが、清書をすることを許した。
翌日、九班のみんなは原田の家を訪れた。
「はい、みんな出来たわよ」
原田の母親が、居間で出来上がった模造紙を広げた。原田の綺麗な文字で出来上がった模造紙を確認した。
「凄い、やっとできたね」
「本当、これで自由研究も終わりだね」
八神、広田が嬉しそうな表情と同じよう口調で、次々に言葉を発した。
「俺、こんなに真面目に自由研究をやったのははじめてだ」
松本も歓喜の声を上げた。吉岡はそんな三人を静観していた。自分たちが直面している化学物質過敏症という問題を、六年三組で、問題提起できることに満足感を覚えていた。
「おばさん、そういえば亜美ちゃんは」
広田は功労者がいないことを確認した。
「ちょっと調子が悪くて、今は寝ているの。
ごめんなさいね。みんなに会うのを楽しみにしていたのだけれども…」
母親は頭を下げた。みんなはマジックの影響があったのかも知れないと、少しだけ罪悪感を抱いた。その気持ちを代弁するように吉岡が口を開いた。
「そんな事はないです。原田は化学物質過敏症の中で、体調に良くないはずのマジックを使ってこれだけの作業をしてくれたんですから、逆にこちらが申し訳ない思いです」
そして母親に対して頭を下げた。みんなも同じ気持ちでそれに続いた。
「そうやって言ってもらえると助かるわ。亜美はこの自由研究だけは早く済ませたいと言っていたので、やることができて満足をしているの。
でも思ったよりも体調が悪くなってきているので、明日にでも亜美と私は引っ越しをすることになったの」
引っ越しをすることがわかっていても、明日と言われると、みんなの驚きは大きなものであった。
「やっぱり私達が無理をさせたからですか」
広田が心配そうな表情で言う。母親は首を横に振り、笑顔を返した
「とんでもない、あの子が望んでやったのよ。この学校の友達と最後にやる共同作業で、自分がやらない訳にはいかないって…。本人はとても満足していたの、みんなと一緒に今年の自由研究ができて良かったって」
八神と広田はそれを聞いて、泣きそうになりながらも笑顔を作った。
「明日は何時頃出発するのですか」
吉岡が母親に聞いた。
「多分昼過ぎになると思うの、自動車である程度の荷物を持って行くことになると思うから、午前中は準備する時間になると思う」
「おばさん、見送りにきてもいいですか」
「私も見送りたい」
女たちの意見に、松本、吉岡も同調し、母親を見た。
「もちろん、亜美も喜ぶから是非きてね」
母親は瞳に涙を浮かべるが、それを頬に流すことはなかった。
「じゃあ、明日原田を見送りにこよう」
松本の元気の良い言葉に、みんなが声を上げた。
原田はその声を、ベッドの中で横たわりながら聞いていた。
二一日、松本は昼食を食べた後に、自転車で原田の家へと向かった。その途中で予定通り、みんなと合流をした。
原田の家に着くと、軽自動車にはたくさんの荷物が積まれていた。当面の荷物を先に持っていくと母親が言っていた通りであった。
「みんな、きてくれたんだ」
家から出てきた原田は、マスク姿で答えた。模造紙を作る作業が余程大変だったのだろうか、少しふらついているようにも見えた。
「亜美ちゃん、転校しても友達だよね」
広田がすでに泣きそうな顔で原田に近づいた。八神も一緒に歩み寄る。
「もちろん、手紙を出すからね」
原田は今の体調で作れる最高の笑顔を作るが、マスクでそれを見ることはできなかった。しかし広田から貰い泣きしたような物が、瞳の脇のほうに見えた。
「体調が良くなったら遊びに行くからね」
そんなやりとりを女たちは繰り返した。男二人は後方からその光景を見守ることしかできなかった。
「今回の自由研究のテーマを変えようと言ってくれたのはヨシ君なんだってね。
ありがとう」
女の塊の中から、原田が吉岡を見た。
「そんなことはない。テーマを決めるとかはどうでも良くて、みんなでこれをやり遂げたんだ。
僕達九班は、大きな事をみんなでやった。それでいいじゃないか」
吉岡はいつもと相変わらず冷静に話した。松本は、吉岡が以前に、強く自らの意思や将来を語った時の事を、みんなに言いたくなったが、誰にも語らず、胸の中だけに止めようと決めた。本音を言うことは大切だが、個人の秘密を守ることも大切であると考えたからだ。
「原田、これで会えないって事はないだろうけど、俺は結構お前の事を気にいっていたんだ」
松本がいつもと違う口調で言った。一瞬原田と視線が合うと、松本はそっとそれを外した。
「それって告白なの」
からかうような広田の声が聴こえた。それを無視して松本は言葉を続けた。
「好きとはどうなのか、良くわからないけれども、仲間として、一緒に自由研究をやれた事を本当に良かったと思っている」
松本が似合わない涙を見せた。吉岡がそんな松本を見て、思わずその肩に手を置いた。
「松本君、ありがとう」
原田が松本に対して手を出して握手を求めた。松本は一度自分の服で手を拭いてから、その手を握った。そこに広田が手を合わせた。
「抜け駆けはよくないよ」
その言葉に釣られるようにして、八神、吉岡が手を合わせた。
「自由研究の発表は、先生に行って動画で取らせてもらうね
絶対亜美ちゃんに送るから」
広田が原田の目を見て誓う。原田は無言で頷いて、その意思を受け止めた。
原田が少し咳き込みはじめたので、母親が背中に手を置いた。
「みんな、ごめんね。もうそろそろ出発するね」
そう言って車の助手席へと原田を乗せた。車が駐車場から出され、母親が門を閉めている時に、原田は窓を開けてみんなに向かって言った。
「ありがとう、今回の自由研究の事、私一生忘れないから」
その言葉を受けて全員がそれぞれに頷いた。
「じゃあ行きましょう。みんなありがとう」
母親はそれだけを言うと、運転席へと乗り込んだ。
車がゆっくりと発信すると、原田は窓を開けて手を振った。その去っていく車が見えなくなるまで、四人は手を振り続けた。
「松本、振られたね」
八神が松本の傷口に塩を塗った。松本はそんな八神を振り返り
「そんなんじゃないよ」
と強がることしかできなかった。
一人の仲間が去っていった。そのことに全員涙が止まらなかった。そして自由研究のテーマとなった化学物質過敏症が原因であることに、憤りを感じていた。
二六日の登校日に、倉又先生から原田が引っ越しをした事が、六年三組の全員に告げられた。病気で静養を兼ねて引っ越したと言っていたが、九班が化学物質過敏症を取り上げるということから、倉又は病名を言わないでいてくれた。
そして、未だに暑さが残る中、二学期が始まった。
松本は今までの夏休みとは異なり、終わった全ての宿題を提出した。自由研究のテーマが化学物質過敏症にならなければ、未だにあくせくと宿題に追われている、五年生までと同じ時期であったかもしれない。
図書館から借りてきた本は、結局日本経済のなんたらかんたらという本以外は読むことはできなかった。しかし、そのうちまた図書館へと行って、色々な本を借りてこようと読書の楽しみを知った夏休みでもあった。
そして自由研究の発表の日がやってきた。
「僕達八班の結果だと、斜め横断や、自転車が歩道から車道へと出る時に、左右を確認しない人は八割を超えていました。
事故は起こす側も、起こされる側も原因がありながらも、法律がそれを一方的に弱者保護という枠にはめられていることを、私たちは知りました」
八班の発表の最後を、代表して永原由実が言った。それに対して手が巻き起こった。
いよいよ九班の発表になった。
松本と広田、八神が、原田が清書してくれた模造紙を黒板へと張った。倉又に映像を撮る許可をもらっていたので、教室の後方にはビデオカメラが置かれていた。
「僕たち九班は、化学物質過敏症という病気について調べました。
なぜこの研究をしようと思ったかというと、同じ九班にいて、先日引っ越しをしてしまった原田さんの病気が、この化学物質過敏症だったからです」
原田の病名が、ここで吉岡から知らされると、クラスがざわついた。中には
「そんな病気知らないよな」
という言葉もあった。九班の全員が同じであったとその言葉に同調した。
「この病気は、花粉症のように、化学物質を摂取しすぎたために、発症する病気です。
人によって許容量が違うために、発症する人としない人がいます」
八神が吉岡に続いて言った。
「化学物質と一言に言っても、この模造紙に書いたように、現在の世の中には、色々な化学物質があふれています。
現在の日本では、化学物質に触れないという事の方が難しいということが、これを見てわかります」
広田が模造紙を話の途中で振り返り、様々な化学物質の書かれるところを指したりしながら発言した。
「化学物質は、私たちがつけている柔軟剤などにも含まれているし、食べ物の添加物の中にも、それに該当する物が多くあることが調べていてわかりました」
松本が紙に書いたところを棒読みする。ちょっと噛みそうになった時に、小さな笑いが教室の中で起こった。
「真面目に発表をしているんだから、笑うところじゃないだろう」
倉又先生が生徒たちをたしなめた。数名の生徒たちは、申し訳無さそうな顔をした。
「化学物質過敏症を発症すると、様々な症状が出ることがわかりました」
八神が言いながら、模造紙に書かれたところを指し示した。
「確かに色々な症状がでるんだな」
思わず誰かが口に出した。
「原田さんの症状は、主に中枢神経症状で、吐き気や頭痛であり、粘膜症状として、皮膚炎にもなっていました」
八神が先ほどの続きを話した。
「初期の頃に、洋服の繊維に対して、科学物質が使われている物などを着た際には、痺れや痛みを感じることもあったようです」
「原田さんが一学期に学校に来る回数が少なかったのは、学校にくるまでに吸引してしまう化学物質や、学校に来ても、周りのみんなが使用している化学物質に反応してしまい、早退などを余儀なくされたのが原因でした」
松本が再び紙を読みながら発表した。
「僕たち九班としては、これから大人になる上で、このような問題に対して、自分たちが何をできるのだろうかと考えることが必要であると思いました。
僕たちが大人になるための、社会に対する宿題なのではないかと改めて考えさせられました。
世の中には、僕たちが知らない事が多くあることも、今回気付く要因になりました。
全てが良い、悪いで判断はできないし、企業ももちろん悪いという事を考えて作っているわけではないと思います。
しかしながら、それを考えて、小さなことかも知れませんが、今回の原田さんのように苦しむ人を減らし、誰もが楽しい生活を送っていければいいと思います」
吉岡が締めくくった。
九班の発表が終わり、クラスの全ての班の自由研究の発表が終わった。
「はい、みんなの自由研究。今年は班ごとという事で、大変な事もあったと思います。
ただ、どの班も、しっかりと考えた上で、みんなで協力してやってきたのだと感じました。
その上で、先生の感想を言わせてもらいます」
生徒たちが席についている中で、教壇で倉又は続けた。
「今、九班の発表があった通り、原田さんが転校をしなければならなくなった理由は、化学物質過敏症という病気です。
これは誰もがなる可能性のある病気です。
原田さんは、それでも学校に来たいと言っていました。けれどもそれは叶いませんでした。
今回のこの問題は、もしも良ければ親御さんと話をしてみてください。
みんなはお父さんやお母さんが用意した物を、無条件で使わなくてはいけない状況が殆どです。それが悪いとかそういう事ではなく、どのような物を使うことによって、どのような影響が出るのか、話をすることによって、色々な問題が改善できるかもしれません。
さっき吉岡君が言った話のように、今回の自由研究は、どの班も、自分たちの将来に繋がっていくものであると、先生は確信しています。
素晴らしい自由研究ばかりで、先生はみんながこんな事をやってきてくれて、嬉しかったです」
倉又が言い終えると、自ら拍手をした。生徒たちも釣られるように、自分たちがやってきた事に対して拍手をした。その拍手それは、教室に大きく反響するようであった。
「それにしても原田が学校に来なくなった理由が病気だったなんて知らなかったよ」
給食を終えた昼休みに、鮫島が松本たち九班の方へと近寄ってきた。それと共に数人の生徒たちも、その話に入ろうとして集まった。
「何、鮫島くんがいじめたからとか思っていたの」
広田がからかうようにして言った。頭を掻きながら鮫島は
「そんな、俺はいじめてないよ」
と慌てて弁解をする。
「そんな事ないだろう。お前好きだからちょっかいを出していたじゃんかよ」
誰かが更にからかうようにして発言した。
「確かに」
そんな言葉に同調する者さえいた。鮫島は少し頬を膨らまして不満を表情に浮かべた。
「でもさ、鮫島どうこうじゃなくて、クラスのみんなで原田を転校させたようなもんだよな」
吉岡がポツリと呟いた。その真意を知りたくて、みんながその後の発言を待った。
「確かに、俺たちの中には化学香料をまとっている奴もいるからな」
その声は吉岡からのものではなく、輪の外側から聞こえてきた。学級委員長の伊丹であった。
「でもそれって俺たちのせいじゃないだろう。親が使っているから仕方がないじゃないか」
「そうだよ、使うなっていっても、お母さんの趣味だって言われたら何も言えないし…」
数人が反論するように言った。しかし松本はそれを聞いて立ち上がった。
「親のせいかもしれないけれども、それによって原田はこの学校から転校しなきゃならなかったんだ。
もちろん原田が化学物質過敏症になった原因は何だかはわからないよ。だけれども、確かに原田の体調が悪くなった原因は俺たちにもあるんだ」
強い口調の松本の話を聞いて、誰もが罪悪感を持った。そして沈黙が生まれた。松本もその後の言葉が出なかった。自分も何かしらの原因になっていたのかもしれない。そんな気持ちがどっかにあったからだ。
「そうやって考えると、親たちはどちらかと言えば、子供たちのことまでは深く考えていないのかもしれないな。
都合のよいことだけは言うけれども、子供たちが何に影響を受けて、身体にダメージを負っていくかまでは考えていない。
食べ物だってそうだよ。実際に身体に影響があるかどうかわからない物を摂取させているんだ。親も考えていないし、現状では調べないから仕方がないけど。
僕が調べた中では、犯罪や異常行動を取る人たちの食べていた物は、科学食品が入っている物が多いという。しかもそれを長期に渡って摂取していたからという。
親たちは僕たちを勝手に産むけれども、そこに対する責任は考えていない。
勿論、そんな親ばかりではないと思うが、そんな親もいるって事だよ」
吉岡が沈黙をやぶり、まとめるように言った。
みんなが再び黙り、しばらくの沈黙が生まれた。
「確かにヨシ君たち九班の自由研究で言っていたように、僕たち自身が将来に何をしなければならないか、そんな宿題を与えられているのかもしれない」
伊丹が、自分たちの将来像を、少なからず考えながら言った。沈黙の中にいた生徒たちも、自分たちが親元を離れたりした時に、今後何をしていくべきか、明確にわからない中で考えていた。
「もしも私がお母さんになったら、その時に子供たちには、安全で楽しく過ごせる世界にしてあげたい。そんな宿題をちゃんとできるかはわからないけれども、できるように努力していきたいな」
八神が微笑みながら言った。
「俺も、少しでも何かができるか頑張ってみよう」
「そうよ、私たちが、自分たちが生きていく未来なんだから」
「戦争なんかもなくなればいいのに」
数名が思い思いの声を上げた。
俺たちの自由研究は、大成功だった。
松本はみんなの言葉を聞いてそう考えていた。そして自らがこの夏休みという短い期間で、新しい発見や考えを持つことができるようになった事を、良かったと思えた。
「未来に向けて、私たちなりの宿題を頑張ろう」
誰かが言った言葉に、みんなが横行して歓声が上がった。
廊下でそんな生徒たちの成長を耳にしていた倉又は、少し涙ぐんだ。
はじめて六年という卒業する学年を任されて、他の先生たちから、しっかりとしろなどと言われることもあるが、この六年三組の担任をしていて良かったと心から思えた。
ポケットからハンカチを出して、目を拭ってから、倉又は自分に気合を入れて教室の扉を開けた。
「ほら、もう五時間目の授業に入るぞ、みんな席について」
大きな声で言った。その顔は満面の笑顔に満ちていた。
その後、松本は、自主的に勉強を頑張っていった。今まで、知らなかった物事を知るという事の、喜びを知らなかったためか、面倒なものとしか感じていなかったが、夏休みの自由研究以降は、知識を得るという事を楽しいと感じていた。
一〇月には、広田と八神が原田に会ってきたとい話を聞いた。転校してから原田は学校にも少しずつ行けるようになり、症状が出ることは少なくなったと言っていた。
「亜美ちゃんはかわいくなっていたよ」
引越しの時に、告白のような事をしていた松本をからかうように広田は言った。
「へぇ」
興味のなさそうな返事をしながらも、松本が意識しないことはなかった。
「何よ、ちゃんと教えてあげたのに」
「いいじゃんかよ、原田が元気なら」
食い下がってくる広田に、松本は面倒だと悪態をついた。そんな光景を見て、吉岡も八神も笑った。
「でもほら、元気になって良かったでしょう」
八神がそう言って一枚の写真を見せた。そこには、自宅で寝込んでいた原田の姿はもうなかった。明るく、勉強ができ、誰に対しても嫌な顔をしない、そんな人気者であった姿が蘇ったようであった。
松本の胸は、ほんの少しだけ、締め付けられる思いが存在していた。
小学生というよりも、子供の一年はあっという間に過ぎていった。
中学に入ると、松本はバスケットボール部に入った。身長もだいぶ伸び、二年生にはレレギラーを取れるくらいの実力も得ていた。
「ねえ、清隆はこのままバスケットを続けていくの」
一緒に下校することが多くなった、女子バスケットボール部に所属する広田が話しかけてきた。
「さあ、将来のことはわからないだろう。だけど高校に入っても活躍できるようであれば、バスケは続けたいと思うよ」
その言葉に広田は、松本の前に回りこんで言った。
「清隆ならできるんじゃない」
そこには、はにかむような笑顔であった。
「その根拠は」
対照的に真剣な表情で松本は質問をした。
「だって、勉強ができなかった清隆が、今は学校の上位五〇人に入るようになったんだから…」
自分の事ではないのに、広田は誇らしげに言った。
「勉強と運動は別だろう。実力の世界なんだから」
そんな簡単ではない事を理解して松本は返した。
「できるって、元々運動神経は良かったんだから、そこに努力が加わればできるよ」
広田はそう言うと、松本の腕に手を回した。
そんな事もあってか、松本は三年生の時にバスケットボールの全国大会に出場した。
結果は一回戦敗退であったが、松本の所属する中学校では初の全国出場という快挙であった。
それによって学校では、バスケットボール部の生徒たちの人気が出ていた。後輩の女たちでも、松本の存在を知り、バレンタインデーには多くのチョコレートをもらうこともあった。
吉岡は、卓球の部活動をやりながらも、校内一の学力を誇っていた。もしも中学受験をして私立中学に行った伊丹がいたらどうなっていたか、同級生たちはそんな噂を言うこともあったが、吉岡は気にすることはなかった。
案の定、吉岡は学習塾から声がかかり、無料で塾通いをしていた。小学校六年の時に画いていた吉岡の未来は、思い通りに進んでいた。




