4
「清隆、明日はマーちゃんが来るからね」
家に帰った松本に母親は言った。マーちゃんとは、旧姓佐々木政子、松本の母親である恭子の妹である。母恭子とは年齢が離れているので、今年二九歳だ。
松本に取っては叔母に当たる。しかし子供の頃に遊んでもらった記憶の中では、叔母というよりも、松本は雅子に対してお姉さんというイメージを抱いていた。
「そうなんだ、泊まっていくの」
最近雅子に会う機会がなかったので、その間にあった色々な話を聞かせてもらえるかもしれない。そんな期待が松本にはあった。綺麗なお姉さんという感じの政子に、少しずつ異性を気にする年齢になっている松本に取っては憧れという印象もあった。もちろん同級生の女も異性を感じるようになっている。小学校高学年の成長とはそのようなものであろう。
「お昼に来て、夕方には帰ると言っていたかな」
そんな母親の返答に、松本は少し落胆した。そんな気持ちを振り切るかのように、夕食までの間、松本はプリントへと向き合った。
三日の午前中。友達と遊ぶ約束をしていた松本は、目一杯楽しんできた。学校のグラウンドは使えないが、近くの運動場へと入り込み、サッカーをしてきたのだ。
みんなが昼飯時になり帰りはじめると、松本も同じように自宅へと帰っていった。しかも今日は政子がくるというので、嬉しさが止まらない感じでもあった。
「こら、マーちゃんがくるって言ったでしょう。なんでそんなに服を汚してくるの。早く着替えてきなさい」
遊んで汚れた服を見た母親の第一声であった。語気の強い言葉であったが、松本はそれほど気にせずに、部屋へと戻って服を着替えた。勿論、部屋へと行く前に汚れた手を洗うことは忘れなかった。
「こんにちは」
そうこうしているうちに、政子は子供を連れて家の中へと入ってきた。土曜なのに夫は仕事で一緒ではなかった。
松本の父親と母親が政子を出迎えた。
「清隆、マーちゃんきたぞ」
父親が着替えをしている松本を呼んだ。大きな声で返事をして、松本は政子が来るという事で、いつもよりも豪華な食事が並ぶ居間へと姿を現した。
「マーちゃん、こんにちは」
急いで今へと現れた松本は、政子に元気よく声をかけた。政子は久しぶりに見た甥っ子へ視線を移した。
「こんにちは、キヨちゃん、大きくなったわね」
何だか褒められているようで、松本は照れくさかった。そんな政子の後ろから、松本の存在を気にしながら見ている子供……もうじき四歳になる政子の長女、唯香であった。今まで数回しか会ったことがないので、松本と面と向かうのが恥ずかしいのか、ちょっと照れている様子である。
「唯香、清隆お兄ちゃんにご挨拶して」
政子が即すと、唯香は、政子の足の後ろから、身体を半分出した。指を起用に三本立てて
「ゆいかです、三歳です」
と子供にしてははっきりと挨拶をした。これは政子がしっかりとしつけをしているという現われなのであろう。松本はそんな事を思うが、それと共に自分が三歳の頃はどうだったのかと、ふと考えてしまった。
両親には教えられたのだろうと考えると、自分ができていたのか、できていなかったのかは、今となっては覚えていない。そう思うと松本は考える事をやめた。
みんなで食卓を囲んで食事がはじまった。唯香は、三歳にしては行儀が良く、箸の使い方もうまかった。
「俺もこんな風に、子供の頃から箸の使い方がうまかったの」
思わず松本は母親に聞いた。自分の三歳の頃など、松本はそれほど覚えていない。ましてや日常の事となると全くであった。
「マーちゃんが教えてくれたのよ。あなたは子供の頃にお母さんが散々教えてもできなかったの。
それなのに、マーちゃんが教えたらすぐにできるようになって…。あの時には親として自信がなくなりそうだったわよ」
少し愚痴まじりに母親が言った。それを見ている父親は大笑いであった。ちょっとバツが悪そうにする松本に、政子は笑顔を向けてくれた。それだけが救いのような気がした。
「そう言えばこの間、唯香の幼稚園の他の子たちと、はじめて外食をしたの」
政子が切り出すと、自らの事だとわかって唯香が一瞬政子を見上げた。
「どこに行こうかという事で、チェーンのお店に入ったのだけれども、この子ったらビックリしちゃって」
「ビックリって何が」
母親は、早くその内容を知りたいと、箸で食べ物を掴んだまま尋ねた。
「この子が産まれた時に、アトピーなんかが酷かったから、少し食事には気を使っていたのよ。だから外食もその時が始めてだっのだけど……。
みんなが食べたい物を頼んで、食べ始めた時に、この子ったら、何て言ったと思う」
話を進めておきながらも、政子は質問をした。
「美味しいじゃないの」
恭子が当たりでしょうという自信満々の表情で言った。しかしそれを聞いて政子は首を横へと数回振って口を開いた。
「お母さん、これを食べると舌が痺れるよって……。
私もだけれど、他のお母さんたちがビックリ…目が丸くなっていたわ」
言った直後に、物真似のように政子が驚くような表情を見せた。母親も驚いたようで
「ゆいちゃん、そんな事を言ったの」
と唯香を褒めるように顔を近づけて言った。
「だって、ベロが痛いんだよ。食べられない訳じゃないけれども、ヒリヒリするの」
たどたどしい口調で唯香が答える。
「うちの料理は平気かしら」
「おばちゃんの料理は美味しいよ」
心配した母親の表情は、唯香の笑顔でアットいう間に微笑みに変わった。
「それにしても、何でチェーンのお店の料理で舌が痺れるなんて…」
母親は先ほどの微笑みを疑問の表情に変えた。
「多分添加物だと思うの。随分とこの子の食事には気を使っていたから、スーパーに買い物に行くと、必ず食品成分表を見て、なるべく避けるようにしたのよ」
「そんな事をしていたら、食べる物がなくなっちゃいそうだな」
父親がポツリと呟いた。松本はそんな事を聞いても、頭にはてなマークが出ているだけである。普段食べている物の中に、子供が食べられないような物が入っているのだろうか。それとも他の子供たちは平気でも、唯香が食べることができない物が入っているのだろうか。松本の頭では理解が及ばなかった。しかし何となく化学物質の許容量のように、個人差があるという点には考えついた。
「ある程度は手作りをしますから…でもそんな事をしていたら、好き嫌いが激しくなって、それもまたビックリ」
政子は娘に目を向けた。
「ゆいちゃんは何が好きなの」
恭子が問いかけると、唯香は色々と頭の中で考えるように首をかしげた。
「うーん、お豆腐も好きだし、肉団子も好きだな」
可愛らしい唯香の返答の後に、松本が続いた。
「肉団子っていうか、ミートボールだ」
「いや、肉団子なのよ。私が醤油なんかで煮込むやつ。しかも豆腐にはもっと参ったのよ」
思い出すように政子が言う。
「最初は豆腐が嫌いで、どうやって食べさせようかと思っていた時に、たまたま近所にあった豆腐屋さんで、豆腐を買ったの」
「今時豆腐屋なんてあるの」
「うちの近くには、個人店も少しあるから、たまたま寄ったのよ」
恭子の言葉に政子が返す。
「そう言えばこの辺りも昔は個人店が多かったなぁ、俺は肉屋のコロッケなんかは好きだったな。大人になってからは、鶏肉屋の焼き鳥は、晩酌のお供だったな」
父親が思い出すようにしみじみと言った。
「確かに多かったね」
母親もそれに続いた。松本は思わず言葉を出した。
「そんなの、俺は知らないよ」
「あんたが産まれる頃には、もう無かったからね。今はもう買えるところはスーパーくらいしか無くなったし」
母親が自分の子供の時代とのギャップを説明した。
「山下さんのところのトーフは美味しいんだよ」
唯香が自慢気に松本に言った。松本はそんな豆腐の違いを自分がわかるのかどうか、少し不安になった。味覚ではもしかすると三歳の方が、色々な物を食べていないから、余計に敏感なのかもしれない。政子はそんな事を言っていた。
これからはもっと気にして、食事の味を見てみよう。ふと松本が思った事であった。
「三歳の子供が、そんな話をするなんて」
五日の午前中、広田の家に集まった時の松本の従妹、唯香の話に、八神が驚いて言葉を出した。
「昔アトピーだったんだって…だから食事には気を使ったらしいけれども、それでチェーンの店の食事が痺れるなんて、信じられないよ」
松本が補足するように、アトピーがあったからという話を補足した。
「アトピーを避けるのに、食事療法が効くんだね。ちょっと覚えておこう」
保健委員とはいえ、学校ではそんな事を使わないのではないかと、広田は八神の言葉を聞いて思うが、個人の問題だから放おっておこうと思った。
「添加物の問題か」
話を黙って聞いていた吉岡がいつものように考える目で答えた。
「問題って」
広田が、八神の話ではなく吉岡の話に興味を持って聞き返した。
「食品添加物には、自然の物を科学的に抽出して使う物と、化学物質を使って添加するものがあるって聞くから、もしかするとこれも化学物質過敏症になる原因があるのかなと…」
「えっ、でも食べ物でしょう。そういう物って入れないんじゃないの」
「全てが悪いわけじゃないから、添加してもいいはずだよ」
驚きっぱなしの八神の問いに、吉岡が再び答えた。
「法律で規制とかはされていないって事なのかな」
広田がシックハウスは法改正によって減ったという話を思い出して、法律の話を持ちだした。
「さあ、明らかに身体に悪いものは規制されているだろうが、平気だとか、それが証明されていない物は使われているんじゃないかな」
「そんな」
力なく答えた広田だけではなく、みんなが茫然とした。
「だってこの間、俺達が柔軟剤を付けていた事と、原田が柔軟剤を駄目な事が、それを現しているんじゃないかな。
一方の人は駄目で、一方は大丈夫。それでも法規制としては、販売をしてもいいとなっている。そこに法律の規制はないだろう」
納得させるような吉岡の話である。全ての人が駄目な訳ではないから、法律で縛ることは難しい。それを言われて三人は納得せざるを得なかった。
「そういえば、今思ったのだけれども、この間は柔軟材などの化学物質がっておばさんが言っていたけれども、もしかしたら食べ物とかも駄目なものが多いのかな」
ふとした広田の疑問であった。
「食べ物も科学物質だったら駄目なのか…。そんな事まで考えなければならないとなったら、かなり大変な病気だな」
吉岡が顎に手をかけて考える。それにつられるように八神が
「大変って、そんなに科学添加物が食べ物に入っているの」
「そうらしい、うちの叔母さんが子供の食事に気を使っているから、食品なんたら表示を確認しながら買っていると言っていたよ」
松本は政子の言葉を思い出して言った。
「食品成分表示かな。良く色々な食べ物の裏側に書かれているものだよ」
「それそれ」
吉岡の補足を含めて、自分の意見にするように松本は言った。
「食品成分表示には、確か使用している量の多いものから表示されていたはず。添加物の多くは、あくまでも添加だから、少量と言えば少量だ。
だから原材料から書かれて、最後に添加物が書かれることが多い」
「そういえば私、さっき買ってきたおかしがある」
吉岡の言葉に続くように言って八神は鞄から菓子を取り出した。そして成分表を見て続けた。
「原材料の他に、乳化剤、香料、膨張剤、アナトー色素、調味料なんかが書かれているけれども、一体これって何なのだろう」
「さあ、わからないけれども、どれかが化学物質という可能性もあるね」
吉岡があくまでも可能性として答えた。
「本当に世の中には私達の知らないことが多いんだね」
しみじみと広田が言った。
「じゃあ化学物質過敏症を考える上で、食品まで調べるって事か」
「やろうと思うのならばそこまでやってもいいのかもね」
松本の言葉に吉岡が答える。やるのかやらないのか…どっちにするべきなのかと、みんなに投げかけているようである。
「じゃあ、簡単なものでもいいから、調べてみる価値があるかもね」
広田が昨日、原田の母親に聞いている時に記録していたノートを出して、そこに食品添加物という文字を記した。
「すごく大変な作業になりそうだね」
「とりあえず調べるだけ調べてみるか、さっき言っていった物質の名前を書いておいてくれるかい」
吉岡が八神の言葉に続いた。八神は広田にノートを一枚破いてもらい、そこに気になっていた添加物の名前を記した。
「ちょっとネットで調べてみるよ。どこまでの答えが出るかわからないけれどね」
吉岡はそのメモをもらい、自らの鞄の中へとしまった。
そう言えば吉岡の部屋には、一台のパソコンがあったはずである。それがあれば調べることができる。そう考えると俺もパソコンが欲しいなと松本は思い、両親にせがんでみようと考えた。
八月七日に松本は遊びに行く途中、たまたま原田の自宅の前を通った、その時であった。家の中から両親と共に原田が出てきた。そして松本の存在に気付いて声をかけてきた。
「松本君」
原田の体調が今日は良いのか、自分で歩いている姿が見受けられた。
「原田、家の外に出て平気なのか」
「うん、調子の良い時は庭に出たりすることもあるけれどね」
原田の笑顔を見て、松本は何だか嬉しくなった。この顔が学校で見られるようになるのはいつなのだろう、と少し考えてしまった。二学期になったら席替えがあるかもしれないが、それまでは松本の隣りの席が原田である。そうなってくれれば嬉しいと思うと、松本の表情は緩んだ。
「じゃあ学校にも来られるようにもなるのかな」
「早く行きたいと思うよ。一学期は殆ど行けなかったからね」
そんな事を言う原田の後ろで母親は少し複雑な表情を浮かべた。
「さあ亜美、車に乗って」
父親が娘を即す。
「じゃあ、松本君、またね」
「ああ、また」
それだけを言うと、原田は車の後部座席へと乗り込んだ。母親は駐車場の扉を開け、父親は運転席へと乗り込み、エンジンをかけてから車を出そうとしている。
「おばさん、こんにちは」
「いってきます」
挨拶をした松本ににっこりとした笑顔を見せる母親。この間の質問攻めの時に、正解を出すと見せてくれた笑顔、そのままであった。松本は知らない事を知るという楽しい感覚を思い出した。
「これから出かけるのですか」
「そうなの。行ってくるね」
「はい、いってらっしゃい」
松本は元気よく答えた。
車が駐車場から出ると、母親は門を閉めて後部座席にいる原田の横へと乗り込んだ。車が走り出すと、原田は松本を見て、手を振ってくれた。松本もそれに答えるように手を振って見送った。
「亜美、ちょっとでも体調が悪くなったら言うんだぞ」
「うん」
父親の問いかけに、原田は元気に答えた。
車はいつの間にか高速道路へと入った。平日のために道はそれほど混んではいなかった。
「それにしてもみんなで出かけるなんて久しぶり、何だか楽しみだな」
「そうね。おかあさんも楽しみ」
後部座席で母と娘が楽しそうに会話をしている。その光景を嬉しそうに、父親はバックミラー越しに見た。
いつの間にか、山が見える位置まできている事に、原田の心は踊った。学校へと行けないこともそうであったが、最近は自宅を出ることすらできない状態であったので、久しぶりに味わう開放感が何とも言えなかった。
「ねえ、今日はどこに行くの」
行先を知らない原田は母親に問いかけた。
「今日はね、今度引っ越しをする家を見に行くんだよ」
母親は優しく答えた。
「えっ。引っ越しをするの」
原田はその事について何も知らなかったのか、驚くように答えた。そして隣りに座る母親を見た。母親はそんな原田の頭を撫でながら言った。
「そう、引っ越しをするのよ。多分二学期からこっちの学校になるの」
「何で」
育ってきた土地を離れる寂しさと、友達と会えなくなる事が、原田の表情を暗くした。
「…」
母親は言葉を失った。自分なりに答えを出したはずであるが、やはり娘の悲しい顔は見ていて辛いものである。
「亜美、これはお母さんとお父さんで決めたことなんだ。良いかい、聞いてくれ。
今、亜美は化学物質過敏症に悩まされているよな」
病名を聞いた時に、原田は一瞬身体を固くした。この病気になったせいで、母親が仕事を辞めて専業主婦になり、治療という名目で金銭的にも迷惑をかけていはずである。
その費用を一身に背負って仕事をしている父親や、看病をしてくれている両親にも大変な思いをさせている。そのくらいは小学生高学年の頭でも理解はできた。しかも六年生になってからほとんど学校に行けない状態が続いるのである。色々なところにかける迷惑や、悔しさを理解している。しかしそんな原田の思いは声にならずに、父親の話しの続きを聞く事しかできなかった。
「今の状態では、亜美は学校に行けないどころか、家から出ることもままならない。
ただ今度引越しをしようとしているところは、自然が多く、化学物質も少ない。その環境で亜美に学校に行って楽しく生活をしてもらいたいと、お父さんもお母さんも願っているんだ」
そこまで両親がしてくれる事をありがたいと思う。しかし、今まで築いてきた環境を捨てることが、どうしても釈然としなかった。それは学校にしても、塾にしても、色々な人たちと出会い、それを育んできた郷土愛にも似ているようなものであった。
「お父さんも、やっと引越し先で仕事を見つけてきたの。この辺りは農家も多いけれども、自治体が農薬などの規制もしっかりとやってくれているらしく、亜美の病気でも住みやすい環境なの。
亜美が今までの友達と離れたりすることは辛いかもしれないけれども、今のままではその友達と自由に会うこともできないでしょう。
こっちで体調が改善したら、仲の良かった友達に遊びにきてもらうこともできるのよ」
母親は原田の頭を撫でた。その温もりに触れて、原田は涙を流した。
悲しみもそうであるが、自分の不甲斐なさや、両親の気遣い…色々な事を踏まえて、様々な感情が複雑に絡み合った。だからどの感情が理由で自分が泣いているかなど理解はできなかった。ただただ涙が出てしまったのである。
父親も母親も、そんな原田の姿を見て沈黙を貫いた。それは娘が娘なりに理解をして、自分の中で噛み砕き、受け入れ、考えようとしているという期待も含めてであった。
やがて高速道路を降りた車は、山間の道へと入っていった。父親は交通量がほとんどない道を、ゆっくりと運転した。
途中で牛の鳴き声が聞こえてきた。原田は思わず窓を開けようとして、躊躇した。もしも外に浮遊している化学物質を嗅いでしまったら、そんな思いが歯止めをかけた。
「亜美、外の空気を吸ってみようか」
母親は外に興味を持っている原田が躊躇している事を読み取ってか、娘の前から手を通し、パワーウインドウの窓を開けた。
今暮らしているところとは違う匂いが漂ってくる。草の香り、牛の香り、山の香り…様々な物を嗅覚が捕らえた。
「ちょっと今臭かったね」
思わず出た言葉であった。それに母親が笑いながら答えた。
「そうね。多分牛舎の糞の匂いだね」
「そうなんだ。でもあまり刺激を感じなかった」
原田が自分の感想を述べた。化学物質過敏症を発症してからは、匂いの一部のものは原田に取って刺激臭でしかなかった。鼻腔に突き刺さるような物にしか感じられないのである。でも今の匂いはそう思えなかった。
「それは化学物質じゃなくて、自然の匂いだからだよ」
父親がのどかな風景から視線をバックミラーへと移し、窓の外を見る原田を目に入れた。
「外の空気を嗅ぐなんて、本当に久しぶり…何だか本当に気持ちがいい」
家の中にこもっていた娘の久しぶりの、心の底から出るような笑顔であった。それを見て両親も自然と微笑みが洩れる。
「こっちに引っ越してきたら、この環境ならば、亜美が外に行くことも平気だと思うの」
母親が娘の顔に、自らの顔を近づけて、一緒に窓の外を見て言った。
「しかも、こっちに引っ越してきたときに通う学校では、以前化学物質過敏症の生徒がいたようで、校内でもなるべくそのような物を避けているようだ。
保護者にもお願いをしているらしく。柔軟材や、化学物質を使用している物などは極力使わないようにしてもらっているらしい」
父親はそこまで調べて引越し先を決めたようである。しかもその地域での職を探すという行動も、大変な労力であった。しかしそんな苦労を口にすることはなかった。
しばらくすると、小学校が見えてきた。原田の目は、一学期の期間、ほとんど行くことのできなかった学校が、目の前にあるというだけで嬉しかった。
「引っ越してきたら、ここが亜美の通う学校になるのよ」
母親が言うと、原田はその顔を振り返った。少しずつ、子供ながらに気持ちの整理ができてきたのか、引越しという言葉に対しても抵抗がなくなってきていた。
そこから五分としないうちに、引越しをする一軒家が見えてきた。今暮らしている一軒家よりも大きく思える。駐車場も車二台は置ける広さである。
両親は物件を探しているときに、これほどまでに物価が違うのかと驚いたくらいである。
「さあ、家に入ってみよう」
父親は車を広い駐車場に楽々と停めてから、家の鍵をポケットから取り出した。
家に入ると、居間は広かった。原田はそこで、今まで嗅いだことのない匂いに遭遇した。嫌な香りではない、ちょっと干草のようなさわやかな香りである。
「どうだ、新しい畳の匂いは」
父親は自慢するように言って原田の頭を撫でた。確かにフローリングでもなく、絨毯でもない床がそこにはあった。
「凄くいい香り、ぜんぜん不自然な感じがしないよ」
原田は父親の顔を笑顔で振り返って答えた。母親は台所へと原田を連れて行った。今の自宅とは、これまた比べ物にならない広さであった。
「どう、ここはお母さんが気に入っている場所なのよ」
「凄い、ここだったら私も料理をしてみたい」
満面の笑みで母親を原田は見た。
「そうね、今までお手伝いはしてもらったけれども、亜美の体調が落ち着いたらお母さんも働こうと考えているから、一人でもできるようにしないとね」
母と娘らしい会話である。父親はその光景を嬉しく思い、縁側へと座り、陽を浴びながらそんな二人の声を耳に入れた。
都会であくせく働くことも悪いとは思っていなかったが、こっちでのんびりと働いてみることも良い。そんな事を思わせてくれたのは、この日当たりの良い縁側であった。
「どうだ亜美、こっちに引っ越してくれるか」
縁側から、台所へと向かい大きな声を出し、父親は娘の言葉を待った。
「うん、今の友達と別れたりするのは悲しいけれども、ここならば学校にも行けるんだよね」
考えながら、ゆっくりと原田は言葉を出した。
「そうよ、ここで静養したら、将来はまた都会に戻ることも可能になるかもしれないし」
母親は未来を見て言った。展望が見えることは良いことである。先が見えないという事は人に取って、辛いことだ。ちょっとでも光明が見えれば、暗いトンネルの中でも、抜け出ることが可能になるのだ。
「じゃあ、もう一度みんなに会うことができるんだよね」
「そう、でもその前に遊びに来てもらおう」
「うん」
女二人の話しに、混ざろうと縁側から父親は台所へと歩いてきていた。
「じゃあ、とりあえず引越しの手続きをしないとな。
俺の仕事のことは、亜美の夏休み中には終わるから、二学期が始まると同時にこっちにこられるようにしよう」
家族は、娘の病気によって、新たしい門出を迎えようとしていた。原因が原因だけに、喜ぶべきことではないが、それはそれでありだと両親は考えていた。これから六〇年以上生きてくれるであろう娘の人生を、悲観したものにしたくはない。そんな思いが、この家には含まれているような気がしていた。




