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僕たちの宿題  作者: 祓川雄次


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3/8

 八月一日の木曜日になった。

 昼食後に、四人は吉岡の家へと集まった。

 吉岡の家は、この間寄った八神の家と比べると小さかった。公団住宅という、古い建物であり、母親は仕事で留守だった。居間に続くふすまを開けると五畳の部屋になっている。そこに勉強するための机が一つだけ置いてあった。

その部屋にみんなは直に座った。

「みんな宿題の調子はどうだい」

 吉岡が気を使って進捗状況をみんなに尋ねた。

「プリント類は全部終わったから、後はちょこちょことやれば平気かな」

 真っ先に広田が答えた。自信満々の表情は、自由研究に向けて準備は出来ていると言った様子であった。

「私は毎年、七月中にある程度終わらせるから、例年通りに進んでいる状態」

 余裕を持った表情の八神が続く。

「俺はもうちょいでプリント類が終わる。今までの夏休みもこんな感じでやっていたら、後半は遊んでいられると思ったら、ちょっと去年までの事を後悔している」

「そんな個人的な感想なんてどうでもいいよ」

 八神が最後に発言をした松本に突っ込みを入れた。松本は照れ笑いで返した。

「よし、ここまでは思った以上にみんな順調にきているという事でいいかな」

 吉岡の締めの言葉にみんなが頷く。

「それじゃあ、今日から化学物質過敏症についてやっていこう」

 そう言うと吉岡は、あらかじめ用意しておいた、A四の用紙をみんなに手渡した。

「簡単にだけれども、科学物質過敏症について、ネットで調べてみたことをまとめておいたんだ」

 吉岡に言われて個々に渡された用紙に目を通す。

【化学物質過敏症は、薬物や科学物質(主に揮発性有機化合物)のばく露によって、健康被害が引き起こされる疾病である】

 最初に書いてある文章である。

「化学物質だけじゃなくて、薬物でもなるんだね」

 広田が考えていた事との違いに、驚くように言葉を出した。

「まぁ。薬物が薬を指しているのか、麻薬を指しているのかはわからなかったけれど、医者などから処方される薬などのコーティングにも、石油系の物が使われている場合もあるから、そこの事を言っているのかもしれないけれど…」

 聞かれたわけではないが、吉岡は自らが知っている事を、一々説明した。

「この間も言っていたように、科学物質なんてあちこちにあるから、亜美ちゃんみたいになると外出ができなくなるのかもね」

 思案顔で広田が自らを納得させるように頷きながら言った。

「そうだね。揮発性有機化合物という事が書かれているから、特に香りなどは完全に揮発する物。だから余計におばさんは気を使って、僕たちに着替えをさせたのだろうね」

 またしても吉岡が答えた。

「でも俺たちもその匂いを嗅いでいるけど、何で原田だけなんだろう。クラスの半数以上は香りつきの洗剤や柔軟材を使用しているはずだろう」

 松本が不思議に思ったのか、首をかしげながら疑問を口にした。

「次の文章にそれが書いてある」

 吉岡は自らが作成した資料に、再びみんなの視線を向けさせた。

【人体の、薬物や化学物質に対する許容量を一定以上超えると、症状が出てくる。

 人により、その許容量は差があるといわれている】

 と明記されていた。

「じゃあ私たちよりも、亜美ちゃんの科学物質に対する許容量が少なかったという事なのかな」

「そういう事になるのだろうね」

 八神が自分の考えた事を言うと、それに同調するように吉岡が答えた。広田は自分の事に置き換えて考えた事を言った。

「もし、私たちも許容量を超えてしまったら、亜美ちゃんと同じようにこの病気になるんだよね」

「それはそうなるだろうな」

 松本がいかにも自らが知っている知識のように答えた。続いた八神が話の方向を変えた。

「でも許容量って目に見えるものじゃないから怖いよね。

誰がいつ、その量を超えてしまうかわからないじゃない」

「だから普段から気を付けなきゃならないんだろうな」

「でも私達子供が気をつけることができるものってなんだろう」

 吉岡の答えに更なる疑問を広田がぶつけた。

「俺達ができることか…、実際柔軟剤とかは親が使っているから俺たちもそれを使わざるを得ないもんな」

「確かに、じゃあ自分で洗え、って言われてもね」

「使わないでと言っても、ママの趣味だから難しいかな、うちは」

 広田が松本を見て、後に続いた。八神も意見を言った。

「ただ、この間原田の家に行った時に、俺達は親に頼んで、柔軟剤を使わないで洗ってもらった衣服を着ていったはずだ。それでも原田のお母さんは匂いがあるから着替えて欲しいと言っていた。

 もしかすると、別に洗っても一度匂いがついてしまった服の匂いは、消えにくいとかなのか」

 吉岡が顎に手を当てて考えた事を述べる。何だか真面目過ぎるような議論ばかりしていると松本は思うが、その雰囲気を変えることは無理そうだと思った。それに自由研究という、あくまでも研究という名の下だから、それも仕方がないと考えていた。

「宣伝で長持ちとかやっているから、一度ついた匂いは、何回か洗わないと消えないのかも」

「でも匂いって、揮発するはずだからずっと付いているって不思議だよね。

もしかするとそれも化学物質とかを使っているからなのかな」

「さあわからないけれども、可能性はあるよね」

 みんなの疑問がどんどんと出てくる中で、松本は、うちは使っていないからな、としか考えていなかった。

「その他に科学物質って何があるんだろう」

 そう言って八神は考え始めた。広田、松本も続くように考えるが、その間に吉岡が言葉を出した。

「昔はシックハウスという病気の一部に、化学物質過敏症と同じような症状が出ている人がいたらしい」

「シックハウスって」

 松本が聞いたことのない病名に反応した。吉岡はそんな松本を見て答えた。

「家などを建てたり、リフォームをしたりした時に建材や薬品などから出る化学物質によって引き起こされる症状らしい。

 ホルムアルデヒドという化学物質らしいけど、ただ二〇〇三年に法律の改正で、ホルムアルデヒドの濃度の軽減や、換気をすることによって被害は減っているみたいだね」

 吉岡は調べた資料を見ながら答えた。

「じゃあ亜美ちゃんの家がいつ建てられたかが問題になるのかな」

「それはあるだろうね。二〇〇三年以前だとあり得ない話ではないだろう。

 僕達が平成一九年、二〇〇七年生まれだから、僕達が産まれた後に建てられた家では、シックハウスはほぼないのかもしれないね。

 ちなみにシックハウスが化学物質過敏症と別に考えられているのは、住宅に由来する健康被害という点だからみたいだね。

 ホルムアルデヒド以外にも、ダニなどでも影響が出る人もいるらしいから、それもシックハウスだ。それは化学物質には当たらない」

 吉岡が広田の意見に、別の補足を入れて説明をした。これだけの事を調べるのに、どれだけの時間を要したのだろう。しかも宿題をある程度やりながらのはずである。そんな事をできるのかと、松本は自らと比べて、どれだけの速度で吉岡が宿題をやっていたのかを考えると、いつもの成績の差に繋がりそうで、そこで考えることを放棄した。

「今度亜美ちゃんの家に行く時に聞いてみよう」

「そうだね、とりあえず化学物質過敏症という病気については、簡単に話しをするとこんな感じになるのかな」

 八神の意見に、吉岡が賛成した。

 一三時前になると、広田が習い事の水泳の時間だという事で、その日は解散することになった。

 広田、八神が習い事をしているために、それを避けて自由研究の日程を組むことになった。

 月曜と木曜は、広田の水泳があった。とは言っても夕方からだという事で、もしもその曜日に自由研究やるとしたら、今日のように一三時まではできることになる。

 火曜、金曜は八神が塾だという。夏休み期間なので、夜ではなく昼からだという。だからそこは予定に入れることはできない。

 あと一三日から一六日までは、吉岡と広田が田舎に帰るという事で、ここも外すことになる。

 結局いつでも都合の良いのは松本だけであった。場合によっては八神がどこかで家族旅行があるかもと言っていた。それを考えると思った以上に時間がないということに四人は気が付いた。


「清隆、電話よ」

 二日の昼過ぎであった。だいぶ宿題をやる癖のついた松本が、残りのプリント類に着手して、しばらくした頃であった。

 母親が居間から松本を呼んだ。携帯電話を持っていない松本は、家の固定電話に出てみると、受話器の向こうには広田が存在していた。

「珍しいな、どうしたんだよ」

 学校に行っている時には、何か用事があれば学校で話をすれば良いし、休みの日に広田と遊んだ経験がないので、思わずそんな言葉が出てしまった。

「あのさ、これから亜美ちゃんの家に行こうと思うんだけど、良かったら一緒にいかない」

 それは原田の家に行くという誘いであった。話を聞いてみると、もしかしたら昨日話題になった原田の症状が、シックハウスからきているのではないかという事を、原田の母親に確認したいという事であった。

「一人でいけばいいじゃないかよ」

 折角宿題のプリントが大詰めに来ている時だったので、勢いに任せて終わらせようと松本は考えていた。いくら気になっている原田の家に行けるとはいえ、目の前にあるものの方が優先順位は先だと思っていた。

「一人だと質問しにくい事もあるかなと思って…その点松本なら気にしないで聞けると思って」

 松本が行かないというので、少し気落ちした感じで広田は答えた。それにしても他人に対して自分が気を使わないという話しに、松本は少し不快な感じを覚えた。

「あのさぁ、俺だって気は使う時もあるんだぜ。まぁ、しょうがないな、行ってやるよ」

「ありがとう」

 感情が表裏、一気に変わるような明るい声に広田はなった。もう少し進めたかったプリントを雑に机の上に置いて、松本は家を出た。

 待ち合わせは、原田の家の近くにある駄菓子屋であった。携帯電話を持っていれば、明確な場所を指定しなくても良いのだが、松本は持ちあわせていない。だから場所を指定したのであった。

 松本が駄菓子屋の前に着いた時に、広田の姿はまだなかった。この駄菓子屋は昔から地域の子供たちにお菓子を売ってきた店である。松本の両親も小学校の頃に世話になったと言っていた。それを考えると、両親はずっと地元に住んでいることになる。

 そんな長く営業をしている駄菓子屋で、駄菓子を買って頬張っていると、広田は歩いてやってきた。

「ごめん、待った」

「そんなじゃないよ」

 答えてから松本は、駄菓子を無理やり口に入れて、食べ終え、その口を再び開いた。

「何で原田の家の前で待ち合わせじゃなかったの」

「だって、それじゃあ作戦会議ができないじゃん」

「作戦会議」

 不思議そうに松本は広田を見ながら言った。その広田は鞄から出した小さなノートを開いた。

「まずはあの家を何年頃に建てたのか、それと亜美ちゃんの症状が、いつくらいからではじめたのか。 

 せめてそのくらいは聞きたいんだよね」

 広田は真剣そのものであった。仲の良い原田との関係性もあるのだろうが、松本は不思議に思って尋ねた。

「そんなに自由研究に真面目に取り組もうとしているのか。俺なんか今まで適当にしかやらなかったけどな」

「私もそうだよ。でも今回は」

 ちょっと考えるように広田は下を向いた。少しの沈黙の後、顔を上げて決意したように、言葉を続けた。

「今回は亜美ちゃんの身に起こっていることだから、真剣に取り組みたいんだ。

 何かができるなんて思っていないけれど、少しでも良い情報を調べられたらいいかなって……」

 その友達思いの広田の言葉を、松本は汲み取ろうとしていた。今年の、小学校最後の自由研究は、今までにないくらいに真剣だ。いつも夏休みの終わりに無理やり終わらせる宿題も、自由研究のお陰で順調に消化している。今年の夏は自分の中で何かが違う。松本は自らの変化を感じていた。

「わかった。じゃあヨシ君たちには悪いが、俺達で聞きに行こう」

 松本が意気揚々と言う。広田もそれに続くように、希望を瞳に宿した。

二人は話をしながら原田の自宅へと向かう。聞くことはたいしたことでもなかったので、道中は作戦会議というよりも、ちょっとした話で終わった。

「いらっしゃい」

 原田の自宅へと着いた時に、母親は玄関口へと出てきていた。広田に聞くと、松本と会う前に、連絡を入れていたというのである。  

 携帯電話とは便利なものである。そのうち俺も持てればいいなぁ、松本は広田のポケットに入っている携帯電話を、自分が持っている姿を想像した。

「急にきてしまってすみません」

 広田は頭を下げた。それを見て、慌てて続くように松本も習う。

「それで、今日は私に話があるって言っていたわよね」

 母親の口調は穏やかであった。

「そうです。少しだけおばさんから、亜美ちゃんの事を聞ければと思っているんですけれども」

 広田は少し遠慮がちに言った。病気の事というので少し気は引けるのか、一度下を向いてから、母親の表情を見た。

「いいわよ、いらっしゃい」

 母親は二人を居間へと通した。今日は原田に会うためではないので、着替えは不要であるという。原田の症状はそこまで重くないので、居間くらいならば平気であるという事であった。

 母親は机に麦茶を持ってきて、椅子に座る二人の前に置いた。

「ありがとうございます」

 二人はお礼と共に頭を下げた。外の暑さとは異なり、エアコンの風が心地良く感じられた。広田はノートを出すと松本に目配せをした。

「おばさん、そう言えばこの家はいつ頃建てたのですか」

 松本が広田から聞いて欲しいと言われていた事を質問した。

「そうね。亜美が幼稚園へと行き始めた頃には建ってたはずだから…」

 母親は頭の中で計算をはじめた。

 俺たちが産まれたのが平成一九年。西暦で言うと二〇〇七年。そして幼稚園へと入ったのを三歳と考えると、平成二二年、二〇一〇年だ。松本が頭の中で答えを出そうとした。

「平成二三年ね。だから西暦二〇一一年だったわね」

 そうか、産まれた年を数えないから、というか、四歳に成る歳で考えるから…えっと、松本は自らの間違いを修正した。広田はその数字をノートに書いた。

 前に吉岡の家で話をしていた時に、ホルムアルデヒドの法改正がなされたのが、二〇〇三年だと聞いた。原田の家はその後に建てられたことになる。そうしたら、シックハウスが原田の科学物質過敏症になる原因だということは、基本的に考えられなかった。

「もしかして、化学物質過敏症について、調べようとしているのかしら……」

 広田のノートに書かれているシックハウスから↑を引いて、化学物質過敏症という字を見て、母親は広田に尋ねた。

 思わず自分の考えを見透かされた広田が慌てる。対称的に松本は動じずに答えた。

「はい。終業式の時にお邪魔をして、化学物質過敏症という病気を知り、本当は夏休みの宿題の自由研究は、パンケーキをやろうとしていたのですが、テーマを変更しようという事になりました」

 松本の視線は、まっすぐに母親を見ていた。母親はそれを受け止めるように瞳を一度閉じてから

「そうだったの。それで色々と調べようとしているのね」

 と優しく答えた。

「はい」

 受け入れてもらえたのかもしれない。そんな確信があってか、今度は広田が臆せずに答えた。

「簡単な事は、ヨシ君が調べて、今後どのような研究をしようかという話をしていたのですが、まずは実際に病気になっている亜美ちゃんの事を聞いてみようと、今日はおばさんに無理を言ってしまいました」

 改めて広田が、今日の計画を話した。

「そうだったの。亜美のせいでテーマを変えさせてしまったのね」

 母親の表情は複雑でもあり、それでもそれを辞めてほしいというものでもなかった。

「いや、私達自身が興味を持ったので、調べてみようと」

「ありがとう。亜美が化学物質過敏症になったのは、五年生の頃かしらね」

 当時の事を思い出すように、一瞬、天井を見て、母親は話をはじめた。


 それは原田が五年生の秋だった。

 原田の両親は当時、共働きだったという。そんな事もあり、原田は鍵っ子であった。それは聞いている広田も覚えていた。

 朝食は、冷凍食品や、簡単な物で済ませることも多かったという。夜は、母親が早く帰った時に、時間があれば料理を作ったりしたらしいが、塾などの習い事がある日などは、食事の時間が早いために、あらかじめ渡しておいた金銭で外食またはスーパーやコンビニなどで購入したもので食事をしていたという。

 松本は何回かコンビニで弁当を購入していた原田の姿を見たことを思い出した。

「去年の秋の頃から、この間も話をした通りに、亜美が洋服を着た時に、身体が痛いと言い出したの」

 確かに前回お邪魔した時に聞いた話である。広田はそれを順序立てるように、ノートへと書き込む。

「その時は皮膚科に行ったのだけれども、少し赤くなっているから、軟膏を出してもらったのね。

 でも亜美はその後も痛いと言っていたの。けれども症状が出たり出なかったりだから、あまり気にせずに、その軟膏をずっと使っていたの」

「症状が出たり、出なかったりするんだ」

 松本が思わず口に出した。広田は同じような事をノートへと書いている。友達の、原田の症状を理解したいという思いが、そこには有り有りと現れていた。

「そう、何でだと思う」

 母親は急に質問を投げかけてきた。ちょっとしたテストを受けているように松本は感じるが、学校のテストのように、何故か嫌な感覚ではない。

「なんでだろう」

 二人の小学生が考えるが、良い答えは出てこない。

「単純に、その時の体調が良いとか悪いとかですか」

 広田が思った事を口に出した。それに対しておばさんは優しく問いかけた。

「違うの、化学物質過敏症は何に反応するのかしら」

 考えるという事をどうしてもさせたいらしい。ちょっと面白いおばさんだと松本は思うが、広田はそんな事を思うよりも、答えを探そうとしていた。

「化学物質過敏症だから、もちろん化学物質ですよね。この間の話だと服についてる科学物質だと言っていたけれども、殆どの服には科学物質が入っているし…」

「そう、化学繊維が入っているのだけれどね」

「じゃあ、化学物質の入っていない繊維で作られているか、そうじゃないか、それじゃないですか」

 広田が見つかったとばかりに、真剣な眼差しを母親に向けた。

「半分は正解、半分はちょっと違うかな。

 確かに化学繊維を使っていない物の時には、痛いとは言わなかったの。

後は古い服なのよ」

 おばさんはそこまで言うと席を立った。そして自らの麦茶を持ってきた。ここまでしゃべるとは思っていなかったのだろう。喉を潤してから、おばさんは再び話し始めた。

「何度も洗った服は、化学物質が弱まって、身体が反応を起こさなくなってくるの」

「あっ」

 広田が何かを思い出したように、顔を上げた。

「そういえば、この間亜美ちゃんが着ていた寝間着も、少しくたびれた感じがありましたけれども、それってもしかして…」

 松本は広田がそんなところまで見ていたとは思ってもいなかった。

「シズちゃん、良くわかったわね。化学繊維を使わない服をなるべく用意しているけれども、何度も洗った古い服は大丈夫なの。だからたまに古い物を着用している時があるの」

 おばさんは微笑みを見せて、広田を褒めた。

「冬になっても、亜美が化学物質過敏症だとは気が付かなかったの。

だからクリスマスに新しい洋服を買って上げたのだけれども、その服も痛いというので、どうしようかと思ったんだけれどね」

時折母親の見せる悲しみの滲んだ表情を広田は痛むように見て言った。

「それ、三学期のはじめに亜美ちゃんが着てきましたよね」

「あら覚えているの」

「はい、クリスマスにおばさんが、気に入った洋服を買ってきてくれたって、自慢していましたよ」

 母親は、喜んでくれていた娘の姿を思い浮かべた。

母としては服よりも、親思いの娘の自慢をしたかったのだろう。ちょっと目が潤んでいるようにも思えた。

「冬休みが終わった頃から、頭痛がしたり、咳き込んだりが多くなったの」

 母親は、再び原田の症状の経過を話はじめた。

「頭痛、咳」

 思わず声に出しながら広田はノートに書き込んだ。

「病院に何回か行ったのだけれども、体調不良でしょうと、鎮痛剤や咳止めを出されたの。けれどもそれで症状が治まることはなかったの」

「病院に行ったのに、なぜ先生はわからなかったのだろう」

 松本が疑問を口にした。

「確かに、先生ならわかるはずじゃないの」

 広田が続いた。二人は先ほど母親に質問を投げかけられた時と同じように、自らの疑問に答えを見つけようとしていた。

 母親はその考えを無理に遮ろうとはしなかった。しばらくの間、二人を見守る。しかしこれ以上考えても無理かなと思った時に、口を開いた。

「病院の先生も、万能じゃないのよ。

 もちろん知っている事は多いけれども、知らないこともあるの」

「先生でも知らないのか…」

 自分たち子供が物事を知らないのは、当たり前だが、先生という職業でも知らない事があるのか…松本はそう思った。それを思うと、たまに担任の倉又先生も生徒たちの質問に、答えを探すことを苦しんでいる時があることを思い出して納得した。

「ましてや、珍しい病気である化学物質過敏症の患者を見たことがない先生が、すぐにその病気だという判断ができる事なんてないの。

 しかも化学物質過敏症は、日常にある症状がでる病気でしょう。

風邪かな、食中毒かなって考えたら、一発でこれだなんてわからないのよ。もしも判るとしたら、漫画の中の主人公くらいかもしれないのよ」

 母親の言葉に、二人がフムフムと納得するように、数回頭を縦に振った。

「そっか、極端に症状が出ればわかるけれども、そうでないと判断はできないのですね」

 復唱するように広田が自らを納得させノートに書き込んだ。

「1月の間に、何箇所か病院を回ったけれども、まだ化学物質過敏症という病名には至らなかったの」

 母親の苦しい感情が、表情に現れた。松本も広田もそれを読み取った。そして、自分たちが、それほどの事を母親に聞いているのだと思うと、心苦しかった。また、自分の両親も、病気になった時には、これほど悲しんでくれるのだろうと考えてしまった。

「じゃあその間は、前と同じように、痛み止めなどの薬をもらうだけだったんですね」

「そう、シズちゃんの言う通り、でも薬を飲んでも治まらないから、何回も病院に行ったの。

相変わらず服を着て、身体が痛い時もあるというので、この頃から無添加の洗剤を使うようになったの」

 俺はそんなに病院に行かないから、余計に病院に行くことの大変さを知っている。それを繰り返すことは、かなり大変な事だったのだろう。松本は自らに置き換えて考えた。

「大変だったのですね」

 思わず言葉が出た。

「そう大変だったわ、ただおばさんは会社を休んで車を運転すれば良いけれども、その都度苦しい思いをしたのは亜美なのよ。しかも病名も分からずに……」

「やっぱり病院に行くのは大変なんですね」

「行くだけならそんなに大変ではないのだけれども……」

 母親の頭に、嫌な思い出が浮かんできた。それが表情に出た。

「何か別の事が」

 広田は心配なそうな表情で問いかけた。

「学校に行けない時があったり、家から出られない時があったり、そんな事を色々と話していると、先生によっては、学校が嫌だからとか、精神的な病気じゃないかとか、色々と言われたの。

 亜美は学校に行きたいのに行けない。そんな状態なのに、そうやって言われるから、病院に行きたくないというところまで追い込まれてしまったの」

「病院に病気を治してもらうために行こうとしているのに、それによって苦しめられるなんて……」

 広田が悲しい表情を浮かべた。苦しい時に、もっと苦しい言葉を投げかけられたら、耐えられなくなってしまうかもしれない。それなのに、病院の先生たちは、そんな事を何も考えないのだろうか…。そんな感想が頭に浮かんだ。

「亜美が、体調が悪くて病院に行きたくないという話を、たまたまおばあさんが会社でしたら、先輩が、いい病院を紹介してくれたの。そこで亜美の病名がわかったのよ」

「それが化学物質過敏症だったのですね」

 松本が目で問いかけるように、しっかりとした眼差しで母親を見て言った。

 それに対して母親は頷いた。

「その先輩は、病院に通ったことはないのだけれども、色々な経済番組とかが好きで、その中で化学物質過敏症を調べている先生がいたと教えてくれたの。

 おばさんも、そのあとインターネットなどで調べて、やっとその病院に行き着いたの。それが五年生の三月くらいだったかな」

「秋くらいから症状が出始めたというから、半年くらいはかかったのですね」

「それだけわからないと、本人としてはかなり辛そうだな」

 広田、松本が悲痛な表情を浮かべた。やはり自分たちが同じ状況であったら、苦しいのだろう。しかも原因がわからない期間が長かったという。その上で責められる時まであったというのであれば、同じような経験していなくても、それを考えるだけで嫌な気持ちになってしまう。

「そこからかな、化学物質過敏症を考えて、色々な物を変えていったのは」

 母親は自らの頭の中で回想をしたようであった。

「実際には何を変えていったのですか」

 広田がインタビューをする記者のようにノートをかざして言った。

「まずは徹底的に化学物質を遠ざける事をはじめたの。

 この間、匂いという話をしたのは覚えているかしら」

「はい、もちろんです」

 広田が、自分たちのせいで原田に会えなかった時の事を思い出した。友達の嫌がることを、自らが行っていた事を、今は後悔しているようである。しかし親が使っている物を子供は享受しなければならない。自らの責任においてそれを避けるという事は、自立しなくては、そうそうできることではない、という事も理解した時であった。

 広田が考えたことは、花粉症の人の前に、花粉をばら蒔いている事と同じことをしているという思いであった。

 自分がされたら嫌な事、それを他人にはやってはならない。それは幼稚園の頃に、すでに習った事である。それが小学校六年生にもなって出来ていないという事は、自らが成長をしていないという事である。何となく情けなくなったのも、その時である。

「でも、それは家の中でしかできないという事ですよね」

「そう」

 松本の言葉に、首を縦に振って母親は答えた。

「そっか、おばさんが幾ら頑張って化学物質を遠ざけたとしても、この間の私達のように、化学物質を利用している人は大勢いるんだ。

 だから外に出る機会が減って学校へも来られないのですね」

「正解」

 しっかりとした答えを出すと、母親は笑顔で答えてくれた。それは子供心に取って、嬉しい事であった。だから次々に答えを出す楽しさが見られるのである。答えるのが当たり前、正解するのが当たり前で、新たな発見などに喜びがなくなると、だんだんと興味を失い、苦しいものになっていく。学校の授業がたまに嫌になるのは、そんなところからかもしれない。松本は正答を出した広田が、目を輝かせるようにしているのは、そういう事ではないかと考えた。

「人によって許容量が違うから、平気な人は大丈夫だけれども、駄目な人からしたら酷い世の中なんだな」

 松本が感想を述べた。

「しかし、私達は、現在において、その恩恵も預かっているの。そこを忘れてはいけないし、それによって会社が儲かって、そこから給料をもらって生活している人もいる。そこも理解してあげなくてはならないの」

 母親は寛大であった。ほとんどの人が自らの目の前の事だけを考えている。しかもそれによって娘が被害を被っているにも拘らず、それを許したりできるのである。

 それは大人であっても中々できることではない。誰もが自分が一番かわいいのだ。それを考えると、そのような考えを自分も持てるようになりたいと松本も広田も自らに課したくなった。

「自分を駄目にしていく物を許すって、簡単にはできないのだろうな」

 松本は、ちょっとした教室の中で、友人との喧嘩などを思い出すと、普段仲が良くてもその時には許すことができない。そんな自分を振り返って罪悪感を覚えてしまう。

「許さなくてもいいの、ただ環境が違う人を認めてあげることなの。

 おばさんだって、許すなんてそんな事はできないわ。だってそんなに人は偉くはないじゃない」

 広田の母親を見る目が、尊敬に変わった。自分の親と話していてもこんな話にはならない。身内だからこそ、尚更ならないのであろうが。やっぱり亜美ちゃんの母親は凄い。今日、ノートに書き込んだ事だけでも、自分を高めてくれる。今年の夏休みは有意義だ。そんな事を頭のノートに記した。

 そんな時に、広田の携帯電話が鳴った。それはインタビューが途切れるきっかけとなった。電話を嫌そうに取り出すと、ディスプレイには【自宅】表示されていた。

「はい」

 立ち上がり、母親と松本に背を向けて、広田は電話に出た。少しの間、電話での会話が続けられた。

「でも避けなければならない科学物質って、無限とは言わないけれども、いっぱいあるんだろうな」

 松本が自らの感想をポツリと述べた。それに対して母親が答えようとした時に、広田の電話が終わった。

「おばさん、ごめんなさい。お母さんに呼び出されちゃったので、帰らなくちゃいけなくなりました」

 広田の表情は残念そのものであった。

「わかったわ、もしもまた話が聞きたかったらいつでも着てね」

 母親は優しい眼差しを広田と松本に向けた。

「はい、今度来る時は柔軟剤を使わないようにお母さんに頼んでみます」 

 広田は答えた。松本は、広田が帰るのに、自分だけが残る理由もないと、一緒に帰ることを決めた。その時に出された麦茶を全て飲み干すことは忘れなかった。

 涼しかった家を出ると、暑い空気が身体にまとわりつくような不快感に覆われた。

「私から呼んだのに、中途半端になってしまってごめんね」

 広田は改めて松本に頭を下げた。

「いいよ別に、結構色々な話を聞けたしな」

 松本は今日の話だけでも、自分に取って十分な時間であったと思っていた。経験値とはこのようにして築かれていくのだろう。学業が嫌いな松本でも、それは勉学というものではなく、勉強になったと思えたから、広田を責めることはなかった。それどころか感謝すら覚えた。

「確かに色々と聞くことはできたね。この話をまとめてみんなに報告するね」

「その作業は任せるよ」

 文章にまとめる自信のない松本としては有り難い話であった。

 広田はそれだけを言うと帰っていった。

 松本は少しだけ公園に行って遊んで帰ろうと思っていた。誰か知っている人がいるかもしれない。今年の夏休みは、遊び続けるということをしていないので、たまには有りだと思い、走るようにして公園へと向かった。

 だが公園に知り合いの姿はなかった。ただ改めて思ったことは、公園に香りの付いている人の多いことであった。これまでそれほど気にしたことはなかったが、原田のことがあり、改めてそこに対して意識が向くと、これほど鼻を突くような刺激の強い匂いはないと思ってしまう。自然の匂いとはかけ離れている。これが科学香料なのだと松本は思った。

 しかも未就学児まで同じような臭いをさせている。自分たちと同じように、親の趣味を享受しなければならないのは子供なのだと、松本は心底感じていた。

 もしもこの子供たちの、化学物質に対する許容量が少なければ、いつか原田のようになってしまう。それはその子供たちにとって不幸せでしかない。

 子供が欲しいという夫婦の気持ちなど、小学生の松本にわかるはずはなかった。しかし、無理やり子供を産もうとするのであれば、それ相応の責任が生じてしまうのではないか…、それを放棄する、もしくは考えないのであれば、やはり子供など産まないほうが良い。何となく親の権利、義務などという何かの授業でやった事を思い出した。

 親は教育を受けさせる義務が生じるであったか、どうだか、松本は思い出そうとしたが、明確には思い出せなかった。義務教育の義務って、なんだったっけ…。そんな事を頭の中で一瞬考えたが、すぐに問いをかき消した。

 仕方がない、友達もいないし、何だか臭いも気になるので、今日は帰って宿題のプリントの続きでもやろう。松本は、広田に誘われる前に、勢いづいてやっていた宿題を思い出し、家へと向かった。


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