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「夏休みは、学校に来ないとは言え、朝しっかりと起きたり、家の手伝いなどをしたり、しっかりとした生活をしながら、楽しんでいただければと思います」
空気があまり動かない、暑苦しい体育館の中で、髪の少し後退した校長先生の話が、あまりにも長く感じられた。実際に感じだけでなく、本当に長かったために、一人の生徒が体調を悪くして倒れた。まだ良かったのは、それを気にしてか、途中で校長先生が、みんなを座らせたことであった。
「ああ、校長の話って本当つまらないよな」
もちろん子供たちの感想である。校長先生の言葉をじっくりと受け止めて、真摯に考えようという気持ちがある生徒は少なかったのかもしれない。それでも校長は、自分なりに考え、過去の話しなどを参考にして、子供たちの事を考えて伝えようとしているのだろう。
その点、教室へ戻った後の、担任の倉又先生の話しは簡潔でよかった。
「兎に角、悪いことをせずに、怪我のない、楽しい夏休みを迎えて欲しい」
というものであった。
中学受験をしようとしている学級委員長の伊丹を含め、数名の生徒たちは、夏休みに入り、颯爽と受験合宿に行くという話しをしていた。それなので、その班は自由研究が少し遅れるなどという話が聞こえてきた。
松本、吉岡、広田、八神と九班の四人は、下校をするときに、再度原田の自宅へと向かった。昨日決まったパンケーキの自由研究を行う事を伝えにいく為であった。
「キヨ、成績はどうだった」
原田の自宅に向かう途中、吉岡が聞いてきた。頭の良い吉岡に成績を聞かれることはあまり本意ではないが、松本は隠すこともなく答えた。
「悪いに決まっているじゃん。体育の五以外は三と二ばっかりだよ」
照れ隠しではなく、笑いながら松本は言った。ある種の開き直りであった。
「確かに松本は、運動はできるからね」
広田が擁護する。確かにそこだけは誇れるし、他人から褒められることもある。一学期に行われた運動会では、十分に活躍の場が得られたことは間違いのない事実であった。
それにしても本当に気が重いのは、友達に成績を言うことではなく、母親に通信簿を見せなくてはならないという事であった。どうせガミガミと小言を言われるのだろうと松本は嫌な表情を浮かべた。しかも夜には仕事から帰ってくる父親にも何かを言われる可能性があると思うと、夏休み早々嫌な感じを松本は覚えた。
しかしそれさえ過ぎてしまえば、後は自由時間だ。宿題は面倒だが、適当にこなしていけば良いと考えていた。ただ毎年夏休みの終わりに、一気にやるようになるのだが……。そんな教訓を覚えていても、松本は計画的に宿題をする気はなかった。
「ねぇ、今日は服の匂いは平気だよね」
八神が気にして、自らの服の袖の匂いを嗅いだ。つられて広田も同じような仕草をして確認をした。
「大丈夫だと思うけどね。お母さんに昨日帰ってから洗ってもらったし」
二人は同調した。吉岡も改めて洗濯してもらった服を着てきていた。確かにみんなの服の匂いは昨日よりもしない感じはするが、それでも松本としては少し臭いを感じていた。
本当にこれで家に入れてもらえるのだろうか…それが心配であった。原田に会いたいという気持ちもあるから、断られると余計にショックが大きいと思えた。
原田の家に着くと、昨日とは異なり母親は庭の掃除をしてはいなかった。道路に面した門にある呼び鈴を吉岡が押した。
「はい」
インターホンから昨日も聞いた母親の声が聞こえた。
「同じクラスの吉岡ですけれども、原田さんにお会いできますでしょうか」
「ちょっと待っていてね」
母親はどこにいたのかわからないが、すぐに玄関に姿を現し、門の前にいる四人へと近づいてきた。
「こんにちは、昨日と同じでいることはいるのだけれどね」
先ほどのインターホン越しとは異なり、言葉が重く、昨日と同じような返答であった。
「どうしても会えないですか」
広田が追い討ちをかけるように言う。八神も続く。
「今日は香りのついていない服をきてきたんですけど」
それを聞いて母親はクンクンと匂いを嗅ぐように鼻を鳴らした。
「うーん、やっぱり匂いはするかな」
少し顔をしかめて母親は言葉を出した。
「柔軟材を使わないで洗い直してもらった服なんですけど、それでも匂いがありますか」
広田が自分の服を再度嗅ぎながら、母親に食い下がった。頑張れ広田、原田に会うためにも、もう一押しだ。松本は心の中で自分のために応援をした。
「そうね、やっぱり匂いはするかな。どうしよう」
考え込む母親は、どうやって四人を納得させて帰るように仕向けようかと考えていた。
「おばさん、何で匂いがあると会えないのですか」
松本が核心を突くように言った。場合によっては匂いのない自分だけでも入れてもらえるかもしれないという、ちょっとした期待を持ってのものであった。
「ちょっと亜美の体調に関係があるのよね。
でも夏休みの宿題の件って言っていたわよね」
そうして少し考える仕草を見せた。ここで誰かがもう一押しするかで、原田に会えるかどうかが決まりそうである。
「そうです。ちょっとの時間でもいいので、自由研究のことについて話をしたいのです。
お願いできませんか」
迷っている母親を、吉岡が押し切ろうと言葉を出した。
「ちょっと待っていてくれるかしら」
母親はそれだけを言うと、自宅の中へと入っていった。
「体調に関係あるって言うけれど、一体どんな病気なんだろう」
「そうだよね。匂いが関係しているみたいだし…、それとも亜美ちゃん、私たちに会いたくないとかなのかな」
広田と八神が向き合って話を始めた。話を始めると女たちは止まらないようすであった。松本と吉岡は、そんな二人を気にせずに家を見ていた。
しばらくすると母親が再び姿を現した。みんなは固唾を飲んで言葉を待った。
「少しの間だったらいいけれども、あと一つだけ条件があるの」
ちょっと言いにくそうな表情を見せる。次の言葉のほうが重要なのだと、みんなが雰囲気で感じ取りその言葉を待った。
「みんなに、服を着替えてもらってもいいかしら…こちらで着替えを用意するので、それを着てもらいたいの。
今日はそれが条件かな」
服を着替える。自分たちが着てきた服が、原田の体調に取って何らかの影響があるようだ。それを考えると先日、母親が言っていたように、やはり匂いの問題なのだろう…。四人ともある意味はてなマークが頭に浮かんでいた。
「着替えることが条件だったら、着替えればいい。それだけのことですよね」
吉岡はみんなに言ってから、母親に向かって確認を取った。
「そう、それをしてもらえれば短時間だけれども会ってもらってかまわないわ」
母親は真剣な表情で答えた。
「いいですよ、俺は」
真っ先に松本が答えた。六年生になってからほとんど会っていない原田の顔を、自宅まで尋ねて来て二日連続で、一度も拝まずに帰るという選択肢は頭にはなかった。
「わかりました。僕も着替えます」
吉岡が続くと、女二人もそれに続いて、着替えることを了承した。
まずは女たちが風呂に隣接された脱衣場へと入っていった。その間、松本と吉岡は居間で待っていた。ほどなくして二人が原田の物と思えるジャージとTシャツ姿で現れた。母親は気を使ってか、二人の服を入れる袋も用意していた。
続いて松本と吉岡が脱衣所へと案内された。
「着替えた衣服は、このカゴの中へと入れておいてね」
女とは扱いが違う。しかしながら男の服は見られても良いが、女は嫌がるかもしれないという、同姓ならではの母親の心使いなのだろう。それは松本も吉岡も納得していたから、文句は出てこなかった。
男たちは、たぶん原田の父親の物であろう短パンとTシャツであった。少し大きいことから父親の体格が想像できる。もしかすると自分たちがまだ子供だから大きく感じるのだろうか……松本はそんな事を考えた。
「ちょっとここで待っていてね」
母親は二階の原田の部屋へと入って、今一度娘に確認を取ってから、四人を二階へと案内した。
「ちょっと体調を見ながらにしたいので、おばさんも立ち合わせてね」
そう言って、原田の部屋の扉を開けた。
八神の時にも感じたように松本、吉岡は中に入ると女の部屋という、自分たちの部屋とは違うという感じを受ける、だが八神の部屋とは何かが違う。そこにはぬいぐるみなどの無駄な物がなく、無機質に整頓されているようであった。
「亜美ちゃん、久しぶり」
広田と八神が、一学期にほとんど見ることのなかった友人の顔を見て、嬉しそうに近寄った。
「きてくれてありがとう」
原田も嬉しそうに布団の中から、半身を起こした状態で、手を軽く振って答えた。
「原田久しぶり」
「元気にしていたか」
吉岡、松本の順で続く。それを原田は笑顔で聞いた後に、
「元気だったら学校に行っているよ」
と笑顔で返した。広田と八神が、何を言っているのという表情で松本を見た。松本はバツが悪そうに、少し照れたように頭を掻いて
「そうだよな。ごめん」
と笑うしかなかった。それでも原田の顔は、不機嫌というものではなく、笑顔であった。
よほど友人の訪問が嬉しいのだろう。そんな雰囲気の中、すぐに吉岡が、再会の感動など考えずに本題を持ち出した。母親に短い時間と言われていた事を考えてである。
「原田が休んでいる間に、夏休みの自由研究は、各班ごとにやることが決まったんだ」
「昨日、お母さんから何となくは話を聞いたけれども、私は参加できるのかな」
吉岡の話しを聞いて、先ほどまで笑っていた顔に、少しだけ寂しさを帯びた。そこには学校に行けていない、という気持ちが有り有りと見受けられた。
「参加できる、できないよりも、やっぱり同じ班だから、やる内容だけでも亜美ちゃんに伝えておかないと、と思って今日はみんなで来たんだ」
広田が話を先に進める。
「亜美ちゃんが参加できるように、私たちが何かできることはあるのかな」
八神が考えるように言った。原田の状態を見ると、夏休みも家から出ることはできなそうである。何とか班としてまとまる方法があるのではないかと、みんなが模索する。
「何についてやろうとしているの」
原田はまずはそこから、というように四人に問いかけた。それに対して発案者である八神が声を上げた。
「パンケーキにしようと思うんだよね。
パンケーキとホットケーキの違いとか、何を材料にしたら美味しいものができるのか、とか、トッピングはどうとか……」
「パンケーキかぁ、いいなぁ」
原田の反応は、美味しそうだというよりも、羨ましいという感じに見えなくはなかった。食べたいという願望がそこにはあったかもしれない。その視線は、何かを訴えるように母親へと向けられていた。母親はその瞳を見て、少し悲しそうな表情をして、首を左右に振った。
「ある程度の研究が進んだら、報告をしたり、文章を書いたりするなどをしてもらえば、原田も参加していることになるんじゃないかな」
吉岡がもっともらしい意見を言う。
「確かに、そうしたら亜美ちゃんにも会いに来られるし」
広田が嬉しそうに原田を見て言う。原田も釣られるように笑って首を縦に振った。
「そうしたら私も参加したことになるかな」
「原田がそう思えるならば、参加したことになるんじゃないか」
松本が自分で納得するように言った。広田が言ったように会う機会もできる。そこも吉岡の意見にみんなが乗る一つの要因でもあった。
「それにしても原田が学校を休んでいる理由は何なんだ」
思わず松本が言った時に、みんなの視線が集まった。はじめは原田に向けてであったが、当の本人の視線が母親に移ったので、同じように母親を一〇個の瞳が同時に見つめる事となった。
ドア付近に立ったままで立ち会いながら話を聞いていた母親が、少し深いため息を漏らした。
「おばさん、こんなに長い間学校に来られない亜美ちゃんの病気が何なのか、私も知りたいです」
広田が追い討ちをかけるように言った。母親はみんなが輪を作る中に入り込むようにして座った。そして重い口を開いた。
「病名を言ってもみんなわからないかもしれないけれども、亜美の病気は、科学物質過敏症という病気なの」
「科学物質過敏症…」
原田と母親以外、訪ねてきた四人にはそれがどのような病気なのか皆目見当もつかないし、理解もできなかった。
「それはどんな病気なのですか」
吉岡が興味を持って聞いた。他の三人も同じように、聞いたこともない病名に興味を持った表情を母親に向けた。
「科学物質全てに対して、アレルギーのような反応を起こしてしまう病気なの」
子供たちに言っても理解しにくい病気なので、母親は簡単な説明をした。そしてその病気を発症している娘を心配そうに見た。
「アレルギーって花粉とか、食べ物以外にもあるのですね」
広田なりに理解をした感想を述べた。
この世の中には知り得ない事柄がいっぱい溢れている。それを改めて実感したのだ。自分たちが子供だからなのだろうか…だから自由研究のテーマにしたパンケーキの事も知らないんだ。そんな風に考えてしまう。
「そうなの、色々なアレルギーがあるの。
だから亜美は学校に行けないの」
母親がみんなを見渡すようにして答えた。それを一番寂しそうに聞いていたのは、当の原田であった。それを見て九班のみんなはしばらく沈黙してしまった。自分たちが同じような状況になったら、どのように感じるのだろう……。そんな事を考える時間であった。
「でも、それだから学校にいけないって、一体」
考えても理解ができない松本が聞いた。他の同級生も同じ考えであった。今ひとつ、自分たちの考えでは化学物質過敏症という病気が理解に及ばないのだ。実際に花粉症は症状が出ていても学校へ行けないことはない。それと何が違うのか……。
「今の日本では、化学物質はあちこちで使われているの。
花粉症の人が、花粉の時期に苦しくなったりするように、あちこちで使われている科学物質によって、亜美の身体は反応を起こしてしまうの」
母親は説明するにしても心苦しそうであった。自分の子供の身体が病気だったり、障害を持っていたりする場合に、父親よりも、自らの体内から子供を産み出した母親は、罪の意識を感じてしまう場合がある。父親が感じていないという訳ではない。父親以上にという話なのだ。しかも日本の家庭は、専業主婦という、女が家で子供の面倒を見る家庭が多いために、日常的にそのような症状を抱える子供と接している母親は、より自らを責めてしまうのかもしれない。
「それじゃあ亜美ちゃんは、ここから出られないという事なの」
八神の問いかけに、原田は首を縦に振って答えた。
「三月くらいからかな。ちょっとずつ身体が痛みだしたのは」
自らの症状を振り返るように、原田が話をはじめた。
「痛いって」
松本が間を置いた原田に問いかけた。原田は思い出すように体を見てから答えた。
「最初、洋服を着た時に、痺れるような感覚があったんだ。
その時はお母さんに言って身体を見てもらったんだけど、傷とかは何もなくて、少し赤くなっているような感じだったんだけれども…」
そこまで言うと、原田は少し咳き込んだ。母親はそれを見て原田に近づき、額に手をやって体温を測る素振りを見せた。熱はないようだけれども、身体に反応が出てきていることは見て取れた。
「ごめんなさい、熱はないようだけれども、ちょっと苦しくなってきているようだから、今日はここまでにしてもらっていいかな」
申し訳なさそうに言う母親の言葉に、原田自身も申し訳なさそうな表情と共に、寂しそうな表情を見せた。
「わかりました。みんな今日は帰ろう」
吉岡が母親の言葉を受けて立ち上がる。
「でも」
広田が寂しそうに原田を見ながら言う。もう一度咳き込んだ原田も寂しそうだ。
「おばさんが言っていたろう。科学物質に反応するって…。もしかしたら俺たちの誰かがその化学物質をこの場に持ち込んでいるかもしれないんだ。
原田の身体を心配するなら、まずは俺たちが帰ることだ」
厳しい言い方であるが、母親や原田からしたら、それは正しい選択であった。それでも子供心というものは、わかっていながらも釈然としない。それは当たり前の反応かもしれなかった。
「そうだね、取りあえず今日は帰ろう。また今度来てもいいですよね」
松本が吉岡の意見を受け取り、母親に言葉を投げかけた。
「ええ、もちろん。ぜひ遊びに来て、その方が亜美も喜ぶから」
もちろん状況を見ながらであるが、母親はその意見を受けて答えた。原田も嬉しそうに首を縦に振った。
「そうだよ。また来てよ。でも今日はごめんね」
笑顔で言葉を出すが、語尾は気持ちを正直に表すように少し消沈していた。その言葉で原田の体調を理解したのか、広田が立ち上がった。
「うん、絶対にまた来るから」
八神も続くようにして立ち上がった。
「亜美ちゃん、絶対に元気になってね」
「ありがとう」
そのやりとりの言葉を最後に、みんなは手を振って部屋を出た。その扉が閉まるまで原田は手を振り、みんなを見送った。
そしてみんなが帰った部屋の布団の中で、原田は窓の外を見た。そこには、今の自分が走り回ることができない、今では異世界になってしまった世界が存在していた。今日のように雲が少ない空の下を、みんなと一緒に思い切り走りたい。そんな衝動が湧いてきた。
原田は布団を剥いで、一度咳き込んでから立ち上がり、窓際へと立った。いつになったら、外に出ることができるのだろう。それを思うと、窓に映った自らの顔は、悲しい表情にしかならなかった。
四人は階下へと降りると、女から順に着替えをはじめた。母親に借りた服から、来た時に着ていた自分たちの服に着替えて居間に集まった。そのテーブルには麦茶が入った四つのコップが置かれていた。
「みんなごめんなさいね。こんなに短い時間しか会わせてあげられなくて……」
申し訳無さそうな母親の表情に広田が反応した。
「亜美ちゃんの病気は治るのですか」
その言葉を受けて母親は首を捻った。
「さあ、今はまだ化学物質過敏症を知っているお医者さんも少ないみたいで、今後どうなるかはわからないのよね」
母親はみんなを即して自らも座った。そして麦茶をみんなに進めた。
「さっき身体が痛いと言っていましたが、その痛みはどこからきていたのですか」
疑問に思った吉岡が聞いた。
「みんな、洋服の繊維に化学物質が使われているのは知っているかしら」
みんなが首を傾げる中で、広田が反応した。
「ポリエステルとか、そういうものですか」
答えた広田にみんなの視線が集まった。
「そう、多分それだけじゃないのかもしれないけれども、石油などを使った物も化学物質になるの」
「それに反応して、痛みが」
吉岡が素早く反応した。
「科学物質過敏症は、どの科学物質に反応しているかわからないの。早い段階で気がつけばもう少し手がうてたのだけれども、私達もそんな病気は知らなかったから、亜美は症状が重くなってしまったの」
母親は罪悪感を表情に現した。それは自らに知識があればという、自分に対する罪悪感であった。
「そう言えば、亜美ちゃんが四月に学校に来た時に、気持ちが悪いと言って保健室に行った事があったけれども、それもそうなのかな」
八神が思い出したように言った。そう言えば八神は保健委員である。その時に保健室まで付き添ったのは確かに八神であった。みんながその光景を言われて思い出した。
「確か、その後、すぐに帰ってしまったよね」
広田もその後に母親が迎えに来た事を思い出して言った。
「学校にも多くの科学物質が存在しているの。さっきみんなに着替えてもらったのも、その科学物質を避けるためなのよ」
「もしかして、柔軟剤なんかに使われている香りの成分って、科学物質なのか」
吉岡が察して言う。思わず広田と八神が自分たちの服の匂いを嗅いだ。
「そうなの、香りもそうだから、なるべく避けるようにみんなには着替えてもらったのよ」
「でも僕たちが着替えたのは上着だけだ。もしかしたら下着から揮発する香りも、原田に取ってはキツかったのかもな」
吉岡の発言に、松本は流石だなと思い、そんな事に着目する吉岡を見た。それと共にじゃあ俺は平気なのだなと、自分だけ柔軟剤を使っていない母親を思い出して罪悪感を取り除いた。それとは逆に、広田や八神は自分たちを責めるような表情を見せた。
「まだ亜美はそこまで症状が重くないから、ある程度は平気だけれども、酷い人になると外の空気が部屋の中に入らないように、空気圧を変える装置を家に付けなければならないの。来てくれる人に、一度お風呂に入ってもらうという人もいるくらいだから……」
母親はまたも暗い表情を見せた。娘に対しての気持ちが、そこには溢れているようであった。
それを見ているのが辛くなったのか、
「みんな今日はもう帰ろうか」
と広田が寂しそうに言った。それに同調するようにみんな首を縦に振った。
「おばさん、今日は亜美ちゃんに会わせてくれてありがとうございました」
「また会いに来ますね」
女二人が入れ替わるようにして母親に挨拶をした。
「ぜひ来てね。亜美も喜んでいたから」
母親はやっと笑顔を見せてくれた。しかしその笑顔の奥には、やはり辛そうな感情が溢れでているようであった。それは子供たちも感じられるものであった。
原田の家を出て、歩いている途中に、ふと吉岡が思いついたように、真剣な表情で言葉を出した。
「なあ、自由研究の事なんだけど」
みんなが歩みを止めて吉岡を見た。そして次の言葉を吉岡の表情につられて、真剣な眼差しで待った。
「パンケーキをやめにしないか」
誰もが口を開かなかった。まだ吉岡の言葉に続きがあるのではないかと、思っていからだ。
「決してパンケーキをやることが悪いとは思っていない。それはそれで十分夏休みの自由研究になると思う。
けれども僕たちは今日、違う問題に直面してしまった。
僕たちなりに、それを自由研究にしてもいいと思うんだけれども、みんなはどうだろう」
吉岡の頭の中では壮大な計画であった。だが三人はその計画が何であるかわからなかった。
「直面した問題って」
八神が不思議そうな表情で吉岡に視線を向けた。
吉岡も、問題提起しておきながら、どのようにその事を調べるべきなのか。それすら考えはまとまっていない。もちろん現段階だからかもしれない。だが、やってみる価値はある。吉岡は勝手に思い込んでいた。
「もしかして、直面した問題って、原田のことか」
松本が吉岡の考えていることに、直感的に答えた。それに対して吉岡が首を縦に振った。
「亜美ちゃんの事って、化学物質過敏症に対して研究をするってこと」
八神が吉岡を見ながら、新たに自由研究にしたいと言っているテーマの名を上げた。
「化学物質過敏症を取り上げて、亜美ちゃんが学校に来られるようにするの」
広田が展望を問う。みんなが吉岡を見た。それに臆することなく、吉岡は言葉を出した。
「こられるようにすることは、僕たちは医者じゃないからできないだろう。
けれども科学物質過敏症が、どのような病気かを調べることで、原田の体調が良くなるきっかけができ、もしかしたら他に科学物質過敏症を発症する人たちを防ぐことはできるかもしれない。
ちょっと自由研究のテーマとしては大きいかもしれないが、やってみる価値はあると、僕は思っているのだけれど…」
最後には少し自信が無くなっているのか、語尾が小さくなった。それに対する三人の反応を確認する。小学生の能力でどこまで調べることができるかはわからない。けれども出来る限りの資料は集めることができるかもしれない。そんな思いであった。
「面白いんじゃないか。どの班もこんな自由研究はやらないと思うし」
松本が楽しそうな表情を見せる。
「亜美ちゃんのためにも、またみんなの体調を考える上でも、保健委員の私に取ってありかもしれない」
八神も笑顔を見せる。
「知らない事を調べるって、確かにパンケーキの事を考えた時もそうだったけれども、自由研究という意味ではありだよね。
これからの日本という訳ではないけれども、自分たちが大人になるために、現状を調べることは大切かもしれないね」
広田も瞳に光りを宿したように、ハキハキとした口調で答えた。
「よし、そうとなったら化学物質過敏症について色々と調べてみよう」
「おー」
吉岡の問いかけに、三人は興奮気味に手を上げて応えた。
化学物質過敏症に関して調べるにあたり、どれくらいの時間を要するかわからないということから、八月に入ってから自由研究に取り込むことになった。
それは吉岡の提案であった。その間に出来る限り、他の宿題を終えて、自由研究に集中しようという事であった。
普段は八月の末になって、やらなかった宿題を急いでやる事が多い松本であるが、気になっている異性の原田が絡んでいることもあり、必死に宿題を終えていった。
「あら、あんたが宿題をそんなに頑張ってやるなんて珍しいわね」
松本の母親は信じられないという表情で言った。
「ちょっと今年は本気で自由研究をやらなきゃならないから、今のうちに他の宿題を終わらせなきゃならないんだ」
松本は漢字ドリルや数学のプリントを黙々とこなしながら言った。
「あんたがちゃんと宿題をやろうとするなんてね。
じゃあ今日は美味しいものでも作ってあげなきゃね」
母親はいつもの夏休みとは違う息子を見て、上機嫌になり、ウキウキしながら料理を楽しもうとしていた。
それから松本は、宿題の途中でどうしても気が向かなくなった時に、ゲームをしたり、外に遊びに行ったりはした。だが気分転換を終わらせると再び机に向かった。
今までしたことはなかったが、個々の物事に対して、時間を決めて計画を立てた。その時に目覚まし時計は役に立った。ジリジリと大きな音を立てるのは好きではなかったが、それを聞くと、宿題をやらなければならないという気になった。
松本以外も同じような状況を生んだ。
広田は母親と話をして、計画を立て、食事の前後、一日に六回の時間を取って、振り分けただけのプリントの枚数をこなしていった。
一気にやるよりも枚数などに制限があり、先が見えやすいために、精神的にも楽な感じを受け、今までの夏休みと比べると、かなりはかどった感じはあった。空いた時間には読書などをして、感想文に備えたりもしていた。
八神、吉岡は元々宿題を先にこなしてしまうタイプだったらしく、難なく宿題を消化していった。




