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夏休みを迎える少し前、一学期の終わりだ。夏休みは暑すぎて勉強に身が入らないからできた物。そんな考えを思い浮かべても、もう十分に勉強に身が入らないような暑さになっている。
小学校の教室の中は、エアコンが付けられているために、室外とは異なり、それなりに快適ではあるが、設定温度が校内の規則で決められているために、極端に涼しいという訳ではなかった。故に寒すぎるという苦情をいう生徒はいない。まあ、そんな事は体温の高い子供たちの言葉ではないが、それでも不快感がないだけマシであった。
教室にいる三七人の生徒たちの親の時代には、公立の小学校で冷房がつけられていることなどはなかった。温度調整で使われる物と言ったら、冬に石油ストーブが置かれる事くらいである。その当時は二〇一九年の現在と異なり、地球の平均気温が今ほど高くはなく、日本も亜熱帯のような環境ではなかっただけに、冷房が必要ないと言った方が正解であろう。
六年三組、三七人の生徒たちは、もうじき訪れる夏休みを楽しみにしているはずである。そんな学校に来なくて良い開放的な夏休みでも、一部の生徒に取っては、嫌な事が一つあった。
それは宿題である。皆、与えられた物をやらなくてはいけないという事は理解している。しかし学校のように時間割などはなく、誰かの目に曝されずに、自由な時間の多い夏休みに、数多ある宿題を、自らが計画的に取り組まなければならないという事は、子供の能力としては大変であった。ただでさえ勉強を楽しいと思えない子供にとっては、嫌なものにしかならないのであろう。
計画性のある生徒は良いが、それのできない生徒に取っては、夏休みの最後になって、溜まりに溜まった宿題を一気にやらなくてはならない場合もあった。仕舞いには親を担ぎ出す生徒までいる始末である。あと数日で楽しい夏休みと共に、そんな宿題が配られる。
そんな中、六年三組の教室では、学級委員会の行われていた。
「それでは、六年三組の夏休みの自由研究は、各班ごとに行うことに決定しました」
学級委員長の伊丹俊は黒板を背に、みんなに宣言するように言った。その横に立っているのはもう一人の学級委員長である瀬納希である。
二人が議長となって夏休みの宿題について、先ほどまで議論が続けられていた。
それを指し示すかのように、黒板には議題である夏休みの自由研究という文字が大きく書かれ、その横には、個人でやるか、班ごとにやるかという生徒が投票した票数が、正の字で書かれている。
【どちらにせよ面倒だな】
松本清隆はそんな事を思いながら、何となく窓の外に視線を動かした。その時に隣りの、誰も座っていない机が視線に入った。
今教室にいない一人の生徒は、本来この机に座っているはずの原田亜美である。折角原田と隣りの席になったのに…松本はその視線の先にある青い空に視線を移した。
「松本君、外を見ていないでください」
教壇の上にいると全ての生徒の行動が目に入るのか、思わず瀬納がよそ見をしている松本を注意をした。松本は言葉を発せずに、明らかに不快な顔をして正面に向き直った。
原田はクラスでも人気のある女生徒であった。この小学校では五年、六年とクラス変えがないので、原田は五年生の頃から、クラスの男たちが目に止めるような子であった。可愛くて頭も良い。
五年の時に行われた林間学校で、夜の男部屋の中では、消灯時間を過ぎた後に、好きな人を言い合ったりしていた。その時に一番多く名前が上がったのが原田である。異性に人気があると同性には嫌われることも多いと言うが、原田は同性から人気があった。
人に気を使えるという点も大きかったのかもしれない。少しだけ運動が苦手という点はあるが、そこまで音痴という程ではなかった。
そんな原田は、いつの間にか学校に来なくなった。
最近でもなく、今日だけでもないのである。六年生になった頃から休みがちになっていった。いじめのようなものが原因ではない。人気がある原田をいじめるようなことをしたら、クラスのみんなから責められる可能性がある。ある意味そんな事をできる勇気のある生徒は、このクラスの中には存在しないだろう。
先生か、親が原因なのだろうか…それは生徒たちにはわからない。でも担任の倉又泰造がそのような先生でないことは、クラスの子供たちも、保護者もわかっているはずである。少し熱血という感じも受けるが、生徒に甘い面もあるので、年配の先生からの受けは少し良くなかった。それでも良い先生という点に、変わることはない。
「なあキヨ、うちの九班で自由研究をやると言っても、原田はどうするんだ」
下駄箱から靴を取っている時に、そんな話を松本に持ちかけてきたのは、吉岡真吾であった。
松本と吉岡、それに原田、広田静、八神留美偉という男二人、女が三人。これが六年三組の九班であった。他の班は四人だが、人数の関係で一人多かった。
それにしても八神のルビイという名前を松本は何となく不自然に思っていたが、他の生徒は、あまり気にしている様子はなかった。女の中では、カワイイ名前だと羨ましがる生徒もいるが、男の松本に、そんな感覚はわからなかった。
吉岡が言うには、原田は六年生になってから休んでいる日が多いので、自由研究をするにしても、どのように参加をさせればいいのかという事が問題だと考えていたようである。しかも五月以降の出席はほぼ零である。何回か出てこようと母親が車で送ってきた事があったが、すぐに体調が悪いと、保健室に行ってしまい、いつの間にか母親が連れて帰るという始末であった。
「そうだよな、学校に来てないんだもんな。そうしたら原田を抜いてやるしかないのかな」
松本は、もしも原田が一緒に自由研究をやるのであれば、夏休みの嫌な宿題も楽しみの一つになると考えていた。もしかしたら流れで原田の家に行くという可能性もでるかもしれない。そんな事すら妄想してしまう。しかし現状を考えるとそれは想像できないものであった。
「とりあえず明日、女子たちと話してみるか」
「そうだな」
吉岡の提案に松本は従おうと思った。男二人で決められることではもちろんない。班でやるという以上、原田を除く四人で話し合わなければならない。
そんな話は、吉岡が言ったように、翌日、登校したばかりの教室ではじまった。
「ねぇ、自由研究のテーマはどうしようか」
一人だけ隣りに席がない一番後ろの、教室の左下にポツンと座る八神が、前にいる三人に話かけてきた。
三組の生徒数は三七人。男が一八人で、女が一九人だから、どうしても隣りのいない席が一つできてしまう。名前の順に座る関係で一学期の席替えがない今は、八神がそこに座っているのである。
「自由研究のテーマって、いつも悩むよね」
広田がすぐ後方に座る八神の方へ身体を九〇度回転させて答えた。
「それよりも原田はどうするんだよ」
四人の中では一番前方に、しかも原田がきていないので八神と同じように、隣りに生徒の存在しない松本が、一八〇度振り返って問題提起した。
「そうだね、やっぱり一緒にやらないと駄目なんだろうな」
昨日は下校時に、松本にどうすると言っていた吉岡は、自分なりに自宅で結論を出してきたのか、原田を入れるということを前提に、話をはじめた。
「でも学校に来ていないんだから、どうしたらいんだろう」
先ほどから質問を投げかけてばかりの八神が言う。
「一度亜美ちゃんの家に行ってみようか」
広田が机に対して横向きのまま、三人を代わる代わる見ながら笑顔で答えた。原田と仲が良かった広田だが、最近は学校に出てきていないので話ができない寂しさもあったのだろう。会いたいという衝動が、完全に表情に出ていた。
「家に行くのはいいけど、本当に家にいるのか」
広田が松本の言葉に、思わず下を向いた。だがすぐに
「どうなんだろう。でも体調が悪いなら家にいるんじゃない」
「仲が良かったのに知らないの」
確証が持てすに、自信なさそうに言う広田に、隣りから正面に見たままの吉岡が問いかけた。
「連絡しても既読にならないんだよね」
この四人の中で唯一、自由に使えるスマートフォンを持っているのは広田だけであった。八神も持っているが受け専門の電話で、ある意味親が持たせている護身…というよりも監視用みたいなものである。
「既読にならないって、もうこの世にいないとか…」
松本がからかい半分で、わざと不吉な声で言った。それにすぐに反応するように
「莫迦な事を言わないでよ」
と広田は言うと同時に、松本を睨んだ。続くように八神も鋭い視線を投げつけた。松本はその視線が痛いのか、申し訳なさそうな表情へと変わった。
「キヨ、それは冗談にもならないぞ」
そう言って、一度松本を制してから吉岡は話を続けた。
「ただ自由研究のテーマを決めるにしても、やっぱり原田の意見も聞かないと駄目だろう。
そうでなくてもテーマを決めて、これをやるという事くらいは伝えないとな」
思案顔の吉岡は、まるで刑事ドラマの主人公が考えるような、顎に手を当てる仕草をして見せた。視線がどこを向いているかわからないところが、取っ付きにくいという雰囲気を醸し出していた。松本は職員室に呼ばれて、先生に説教をされている時の感覚に近いと思った。
「じゃあ、亜美ちゃんの家に帰りに行ってみようよ」
八神の提案に、自由研究を班でやると決まった時にもしかしたら家にいけるかもしれないと期待していたことが叶うと思うと、松本の気持ちは少しワクワクした。それは表情へも現れていた。
「そうだね、行ってみよう」
同調した広田の言葉がきっかけとなった。
その日の帰りに、四人は原田の家へと向かった。
原田の家は学校から徒歩で一〇分、二階建ての一軒家であった。南側の道に面したところに駐車場があり、少し古い感じの軽自動車が一台止まっていた。
「前は新しい車だったのに、買い換えたのかな」
広田の感想から、過去に数回訪れたことがあることが伺えた。仲が良かったというから当然なのであろう。松本はそう思った。
その駐車場の奥で、ちょうど原田の母親が、庭の掃除をしていた。ほどなくして、四人の存在に気がついて、みんながいる門の方へと歩いてきた。
「こんにちは、亜美ちゃんはいらっしゃいますか」
母親と視線が合ったのか、広田がすぐに話しかけた。もちろん母親も仲の良かった広田を認識しているようであった。
「こんにちはシズちゃん、亜美ねぇ」
挨拶をした後、考えるように振り返って、母親は自宅の二階を見上げた。そこは原田の部屋なのだろう。何か考えるような母親の顔を見ていると、四人は少し不安を煽られた気分になってきた。松本は自分が教室で言った冗談のような事が、本当におきていない事を願った。
「家に居ることは居るのだけど、ちょっと今日はみんなには会えないかな」
母親は申し訳なさそうに、思案顔をみんなへと向けた。
「家にいるのに会えないのですか」
遠慮せずに松本が返す。
「そうね、体調が良くないから今日は無理かな」
「じゃあ明日はどうですか」
再び遠慮せずに松本が乗り出すように話しかけた。困った表情を見せる母親を気遣うように、吉岡が松本を一歩下げるような目配せをして言った。
「僕たち三組では、夏休みの宿題の自由研究を、班ごとで行うことになったんです。九班は僕達四人と原田さんの五人です。
最近学校に来ていないとはいえ、原田さんを抜いて自由研究を行うことはできないと思い、今日こさせてもらいました」
「そうだったのね。でもやっぱり今日は無理かな。それに…」
吉岡の言葉にある程度の納得をする母親だが、自宅へと招き入れてくれる様子は見えない。それどころか他の問題があるような発言が表情にも表れていた。
「亜美ちゃんの具合は、そんなに悪いのですか」
広田が心配するように口を開く。表情も同じような感情がでている。みんなも同じように心配な表情になった。
「何か会うのに、問題でもあるのですか」
母親の次の言葉を引き出すように、吉岡も問いかけた。
「そうね。色々と問題があるのだけれども」
「じゃあ、その問題を解決すればいいんですね」
考えながら、濁すように話す母親に対して、何も考えないで松本はすぐに発言をした。
どうもキヨは自分の考えばかりだな。吉岡はそんな事を思うが、決して悪い方向にはなっていないとも思っていた。
「亜美に会うには問題が色々とあってね」
「お見舞いを持ってこないといけないとかですか」
「冗談言っている場合じゃないでしょう」
笑いながら言った松本をたしなめるように広田が言う。一瞬松本は母親の前という事もあり、罰が悪そうな表情を見せた。
「まずは、みんなの洋服の匂いかな」
母親は鼻を利かせるようにしてから言った。
「匂いが問題なんですか」
八神が驚いたように言う。今はクラスの大半の生徒が柔軟剤などの匂いをつけている。そのせいで教室の中は色々な匂いが入り混じっていた。暑い今の時期は、揮発するその匂いに汗などの匂いが混ざっている感じで、ちょっと嫌に成る時もある。だが香りをつけている人たちは、慣れからなのか、それを感じることはない。唯一この場で匂いを付けていないのは松本だけである。だから匂いに反応しているのは松本だけであった。
「そう匂いは問題になるの。あとシズちゃんは整髪料もね。その匂いもちょっと駄目かな」
首を傾げるように母親は言う。
「匂いって、何が駄目なのですか」
「ちょっと身体に合わないっていうのかな」
八神の問いに、完全な答えではないが答える母親は、未だに思案顔のままであった。
「そういう事があるから亜美ちゃんは学校にも来られないのですか」
「それだけじゃないのだけれども…」
広田の問いに、母親は更に複雑な表情を見せた。
「じゃあ、明日は柔軟剤をつけない服を来てくればいいんじゃないか」
「そうだね。おばさん、明日は香りのついていない服を着て来ますね」
広田が笑顔で松本の意見に続いた。困惑した表情で、その言葉に対して母親は首を縦に振ることしかできなかった。
「それにしても服の香りが駄目なんてどうしてなんだろう」
原田の自宅を後にした帰り道で、八神は自らの頭の中で整理できない思いを口にした。確かになぜそんな事を言うのだろうか、母親の真意が四人にはわからなかった。今の日本では利用される事が多くなっている香り付き柔軟材というだけである。
「そうだよね、私もわからないよ。それにしても私の香りなんかもうほとんどしないのに、おばさんはどうして香りに気がついたんだろう」
広田が八神の意見に同調し、自分の服を鼻に近づけた。
「お前たち、そんなに臭いがしているのに、気づかないのかよ」
松本は他の三人の服から発せられる匂いに対して、少しだけ嫌悪の表情を向けた。
「キヨは僕たちの匂いがわかるの」
驚くように言って吉岡は自らの袖を、鼻に近づけた。松本が感じるような匂いを感じないのか、吉岡は首を傾げた。
「逆に気がつかないみんなが怖いよ」
松本は呆れるように、少しだけ声を大きくして言った。
みんなが帰る方向の一番手前にあるのが、もうすぐ見えてくる八神の住んでいるマンションである。八神が振り返り、自分の自宅を背にして後方にいるみんなに口を開いた。
「シヅちゃん、今日うちに寄っていかなない」
「今日は水泳がないからいいよ」
広田は笑顔で答えた。
「じゃあ決まりだね。男子たちはどうする」
八神は二人にも声をかけた。
「自由研究の事もあるから、ちょっと寄っていこうか」
吉岡が原田の家に行く理由になった、自由研究の事をみんなに思い出させた。
「そうだな」
松本も吉岡の意見に乗った。
八神の住むマンションは、エントランスを入るとガラス扉があった。セキュリティ上の物なのであろう、扉の横にある九桁の数字と呼び出しのボタン、その横に鍵穴が開いている。外来の人間は、部屋の番号を押して、相手の了承を得てからでなくては扉が開かないようになっていた。
八神はポケットから鍵を取り出して、開いている鍵穴を塞ぎ、回した。すると扉が開く。
「どうぞ」
八神が招くようにして、みんなの先頭を歩く。広田、吉岡がそれに続くが、松本は珍しそうに、鍵を挿すパネルを見た。
「へぇ、こんなところから鍵が必要なんだ」
「松本、早く」
八神に即されて松本は、パネルから目を離し、扉を抜けた。そして先を行くみんなに追いつくために、少し小走りで合流した。
「何で急がないと駄目なんだ」
エレベーターホールで、上階へのボタンを押して昇降機を待っている八神に問いかけた。
「あそこがしまったら入れないの。内側からは自動で開くけど、向こう側は鍵を挿すか、部屋のボタンを押さないと、ここの住人以外は出入りできないの」
少し怒り気味、というよりも呆れたような口調で八神が答えた。
「そうなんだ、何だか不便だなぁ。でも内側にいる八神が開けてくれればいいじゃないか」
「それもそうだけれど、一緒に入ってくれればいいでしょう」
松本の言葉に八神は少しだけ頬を膨らませて返した。
そんな話をしている間に昇降機は一階へと到着した。その開いたエレベーターに四人は乗り込んだ。八神は、一四階のボタンを押した。そのままエレベーターは、途中の階に止まることなく、一四階へと向かう。松本は全部のボタンを押したくなる衝動を押さえた。それを察したかのように吉岡が口を開いた。
「キヨ、お前全部のボタンを押したいと思っただろう」
「何でわかるんだよ」
心を読まれて驚くように松本は返した。
「この間デパートに行った時に、誰も乗ってこなかったエレベーターでやったじゃんかよ」
「そうだったっけ」
覚えていないのか、とぼけるように松本は答えた。
「そんな子供みたいなことやってるの」
二人の会話に呆れ顔の広田が割り込んだ。
「お前だって子供じゃんかよ」
松本はむきになって言い返す。広田はそれ以上の相手をしなかった。
そうこうしているうちに、エレベーターは一四階へと到着した。
「こんな上の階に住んでいるんだ」
広田が思わず、降り立ったエレベーターホールから見える外の景色を見て、興奮するように言った。そこには少し羨ましいという感情が入っていた。
「そうだよ。私が小学校に上がる前に引っ越してきたんだ。だからもう高いところは慣れちゃった」
八神が広田と同じように外の景色を見た。広田は感心するように
「へぇ」
とだけ返した。
「こっちだよ」
八神が案内をして、玄関の扉を開ける。その際に先ほど一階で出した物と同じ鍵を、再び使用した。
「ただいま、ママ、友達を連れてきたからね」
大きな八神の声に反応して、居間から母親が玄関へと歩いてきた。突然の訪問にもそれほど慌てる様子は見てとれなかった。
「いらっしゃい。どうぞ上がって」
笑顔で八神の母親はみんなを家の中へと招き入れてくれた。先ほどの原田の家とは対応が違う。体調が悪い原田と、帰宅に便乗して家に上がろうとしている八神の家を比べること自体が違っていると思いながらも、松本はそんな印象を受けた。
玄関を入った居間に続く廊下の途中にある部屋が、八神の部屋であった。その証拠に八神は居間へと向かわずに、自分の部屋の扉を開け、三人を招き入れた。
六畳ほどの部屋だが、綺麗に整頓されているせいか、思ったよりも広く感じられる。ベッドがなければもっと広いのだろうが、それは仕方のない事である。
「女の部屋ってこんな感じなんだ」
松本がぬいぐるみなどの、男が持たないような物が置いてある部屋の中を見回した。
「いいでしょう」
そのぬいぐるみを持ち上げ、八神は得意気に抱いてみせた。
「本当かわいい、羨ましいなぁ」
共感をしたのは広田一人であった。男二人にとってはそんな物に興味は湧かないものである。プラモデルだったら欲しいけれども……と、松本は自分に置き換えて考えた。それを思うと、自分には興味がなくても、それを欲しがる八神の気持ちは、少しだけ理解ができる気がした。
「それよりも自由研究のテーマを決めよう」
鞄を置いて床に座りこんで吉岡が言う。確かに原田の家に向かったのも、ここに来たことも、吉岡からしてみれば自由研究のテーマを決めることがきっかけであった。
「そうだね。でも自由研究って、実際に何をやったらいいのかわからないんだよね」
「そうそう、私も去年は適当にやったりしたもんね」
女二人が話をはじめた。松本も適当という言葉に、自分もそうであったと同調するように頷いた。
「気になったことや、身近なことをテーマにすればいいのだろうけれども、今回は班ごとだからね。余程の物でなければみんなで調べるという事ができなくなってしまうだろう」
まさに吉岡がいう事が正しかった。一人で勝手にやってしまっては、班単位という意味がなくなるし、誰かのやった研究に便乗するだけになってしまう。労力の均等な分配ができないのであれば、不公平にしかならない。
「ヨシ君だったら、何をやろうと思った」
松本が吉岡に振った。吉岡は特に考えずに、自らがふと思った事を口に出した。
「そうだな、簡単なアプリの作り方とかをやっても面白いと思ったけれどな」
女二人が、えっという顔をして吉岡を見た。
「でもそれってただの勉強になっちゃうんじゃない」
「確かに、第一私はパソコン持ってないし」
「私も」
女たちが話をはじめると、一気呵成になる。方向性が一緒だと余計にそんな気がすると、松本は少し嫌そうな表情を浮かべた。
「でも自由研究もある意味勉強だからなぁ……。
じゃあ、二人は何か考え付くものは」
反対されたことに腹を立てているわけではないが、吉岡は純粋に、話を進めるために二人に尋ねた。実際に何かテーマを考えなければ自由研究自体がはじまらない。人の意見に駄目出しをしたのならば、他の意見を言うべきである。
大人の世界でも、そのような行動ができていない人が多いと吉岡は思った。対案を出さずに、ただ思った事を口に出しているだけの人たちである。吉岡は田舎に行った時に、祖父が国会中継を見ながらごちゃごちゃ言っていた事を思い出した。駄目という訳でないが、案がなければ先に進むことはない。だからこそ二人に対案を求めた。
「何だろう」
二人は吉岡に言われて何も考えていなかった頭を回転させて、考えはじめた。松本は我関せずという感じで、吉岡の横であぐらをかいていた。
「キヨは何かあるかい」
黙って思案している二人を置き去りにして、吉岡は何も発言していない松本に言葉を振った。
「どうだろう。シートン動物記のように、何か動物をテーマにするとかはどうかな」
ふと頭に過ぎった事を、安直に口に出した。しかしながらそれでいいのだと思った。考えても出てこないことは多い。だったら片っ端から、思った事を述べていくほうがテーマを見つけるのは早いかもしれない。吉岡も松本と同じように考えていた。
「動物だったら犬がいいな」
「私は猫」
女二人が動物という言葉に反応した。それを見て吉岡が軽く首を折り、呆れた表情を見せた。
「あのさぁ、身近な動物をやっても仕方がないんじゃない。かわいいとかそういう事を自由研究にしても仕方がないんだし」
女二人は少し反省するように、ちょっと首を縦に振るが、すぐに笑顔に戻った。
「じゃあ、食べ物とかで何かできないかな」
広田が先ほどの出来事がなかったかのように、頭を切り替えて発言をした。
「具体的には」
いつの間にか議事進行役が吉岡になっている。学級委員長に推薦された経験もある吉岡だから、その役が適任と言えば適任なのだろが、本人はそんな事を望んでいないのだろうと松本は思った。
吉岡が学級委員長をやる気がなかったので、伊丹が立候補して選出は終わった。二人とも頭が良いのだが、伊丹の方が目立ちたがりのところがあった。しかも中学受験を考えている伊丹としては、学級委員長の経験が有利になるかもしれないという、政治活動のような判断も有していたと思われた。
「具体的って言われると…まだ何も思い浮かばないけど、やりやすいかなって」
「パンケーキとかでも良いかな」
八神が、ふと自らが食べたい物を思い浮かべて言った。
「それいいかも」
広田も同調する。女二人が食べ物の話題にきゃっきゃと盛り上がった。
「でも、それってどうする。何の研究をするの」
松本がポツリと言葉を吐いた。
「確かにキヨの言う通り、何をするかだな」
パンケーキについて何か研究ができないものかと吉岡は考えようとしたが、松本の発言を聞いて思考を止めた。
「パンケーキの美味しい作り方とか、どんなトッピングがいいとか」
「ねぇ、色々できるよね」
女二人はじゃれあうように、顔を見合わせて笑顔で頷いて盛り上がる。
「それじゃただの料理研究じゃないか」
松本が言った言葉に素早く八神が反応する。
「松本が今、研究って言ったじゃん。自由研究なんだからそれでも良くない」
「確かに研究だけどな」
吉岡が妙に納得した様子で頷いた。女たちもそれに続く。
「嫌だよパンケーキなんて、女じゃないんだから」
松本が少しだけ悪態をついた。
「女とか関係ないでしょう」
広田の言葉が、二人の間に境界線を引いたように張り詰めた雰囲気を作った。
その直後に、部屋の扉が叩かれ、部屋の中へと八神の母親がお盆を持って入って来た。
「ホットケーキを焼いたから、みんなで食べて」
持っているお盆の上には、四つの皿、そして皿の上にホットケーキが乗っていた。メープルシロップは別で、小さなポットに入っていた。それにオレンジジュースが四つある。
「お母さんありがとう」
「ありがとうございます」
「ごちそうになります」
三人につられるようにして松本も
「いただきます」
と元気良く発した。みんなの反応に、母親は笑顔を返した。
「どうぞ、ゆっくりしていってね」
それだけを言うと、お盆を床の上に置いて、母親は嬉しそうに部屋を出て行った。先ほどできた松本と広田の境界線は、いつの間にか無くなっていた。
「ホットケーキが出てきて思ったんだけど、パンケーキと似ているけど、実際には何が違うんだろう」
「確かに、そこからはじめたら色々調べることもできるし、面白そう。研究して食べ過ぎちゃうかも」
再び女二人で盛り上がりはじめた。女とは軽薄なのか、それとも心変わりが早いのか…、そう思うが吉岡は頭に浮かんだ言葉を挟まずに、放っておいたほうが良いと受け流した。
さっさと皿を取り、ベチャベチャと話をしながら女たちはホットケーキを食べ始めた。
吉岡は続くようにして、お盆から取った皿を松本へと渡し、その後に自分の分を手に取り、フォークでホットケーキを切り始めた。
「確かにパンケーキとホットケーキの違いはわからないな。そんな身近なことを取り上げることもありかもしれない」
メープルシロップをかけて、一口食べた後に、吉岡は小さく言葉を発した。
「でしょう、面白そうでしょう」
「そうそう、誰もやらないだろうからいいかもよ」
「そうだろうな、パンケーキなんてな…誰も自由研究の材料にはしないよな」
女二人の言葉の後に、ポツリと呟いた松本に、きつい女の視線が刺さるようであった。
「それにしても八神の家って、独特の匂いがするな」
痛い視線を交わすためではないが、松本がふと疑問に思った言葉を出した。それを聞いて八神が反応する。
「うちの匂いって」
「何だろう。何ていっていいかわからないけど、少し甘い匂いがあるよ」
「確かに感じるな」
吉岡が同調するように、匂いを嗅ぐ仕草を見せた。
「でも変な匂いじゃないよ。家って個々に違う匂いがあるっていうじゃない」
擁護するように広田が割って入る。
「確かに、誰かの家にいくと、その家ごとに匂いがあるよな。うちの祖父の家も違う匂いがしていたもんな」
「ヨシ君もそう思うことがあったんだな。
うちも前に友達が来たときにいわれた事があるよ。でも俺は感じなかったんだよな」
「もしかするとずっと慣れてきた匂いだからその家に住む人はわからなくなっているのかもな」
オレンジジュースを飲んだ吉岡が想像した言葉を発言をした。
いつの間にか自由研究のテーマとは異なり、匂いの話しになってしまった。そんな事をしているうちに、女たちのパンケーキとオレンジジュースは消えていた。
まだ松本と吉岡のパンケーキは半分近く残っているのだが…。腹が減っていたのかな…。明日が終業式で今日は給食も出ていないのでそれもあり得るかも…。松本はそう考えたが口には出さなかった。
それにしても女の食欲の旺盛さに松本は驚いた。パンケーキだったから食べるのが早かったのかもしれない。甘いものに目がないんだな、女は…そんな事を関連付けて考えてしまった。
「原田のお母さんやキヨが、俺たちの匂いに気がついたのって、普段感じない匂いだからかな」
ポツリと言って吉岡は残りのパンケーキを片付けた。松本はそれを見て、自らのパンケーキとオレンジジュースを平らげる。
「匂いの話しはもういいとして、九班の自由研究はパンケーキにしようか」
脱線していた話を八神が本題に戻した。この話題が終われば男二人を追い出して、女同士で遊ぼうという魂胆を思い浮かべたからだ。
「確かにそれもありかもな、どうだい」
自然に議長役におさまった吉岡が、採決を取り始めた。女二人はすぐに挙手した。それを見て、対案もないし、ここは同じ意見にしておこうと、松本も仕方なく手を上げた。
「よし、じゃあ九班の自由研究はパンケーキだ。
すぐに終わらせて、夏休みを楽しめるようにしよう」
吉岡が最終決定をした。
「亜美ちゃんはどうする」
八神の家に来る前、今日の話の発端はそこであった。広田の言葉でみんながそれを思い出した。
「明日、終業式の後に、もう一回行ってみようよ」
八神が言う。
「でも、また匂いがって言われるぞ」
松本が今日の出来事を思い出して反論した。確かにそれは問題であった。
「お母さんに言って、明日の服だけ香り無しで洗ってもらおうよ。その服を着ていけば問題はないでしょう」
「そうだな。じゃあこれから帰って頼んでみるか」
八神の言葉に吉岡が反応する
「俺は最初からつけてないから関係ないもんね」
松本はある種自慢げに言ったが誰も反応はしなかった。
「じゃあ、明日」
男二人は八神の家を後にした。やはり広田は残って遊んでいく様子である。男が帰る前に携帯電話で自宅へと連絡をしていたから、もう決定した事のようであった。
「それにしても、原田ってなんの病気なんだろうな」
歩きながら松本が呟いた。吉岡は横目で松本を見て答えた。
「さあ、わからないけど、これだけ長期で休んでいるからな。結構重い病気かもな」
原田を異性として気にしている松本としては、心配であった。それが表情へと出てきた。だが吉岡はそんな事を気にせずに歩いて行く。
「重い病気って…」
松本は一歩前に出た吉岡に並んで言った。
「さあ、でも学校に来ない理由が、一部で噂になっていた、いじめとかじゃないんじゃないかな。
原田にちょっかいを出していた奴らは気にしていたけど、それは無いと思う」
「鮫島たちだな」
恋敵の名前を松本は挙げた。確かに気がある異性にちょっかいを出す人は、小学校くらいでは良くある話しである。それによって少しでも相手の気を引こうという手段なのだろう。しかし度が過ぎると嫌がられるし、他の人達から見ても問題視される。小学生版ストーカーという感じになりかねない。
「そう。でも本当にちょっかいという程度だったから、不登校になるような事ではないと思うんだ」
松本は同じ小学校六年でありながらも、妙に冷静に物事を見る吉岡を、訝しいと思う反面、大人びていると尊敬してしまうところもあった。




