736話 野次馬をしにきたわけではない
「私は野猫とおしゃべりしようと思って来たの!」
なのにその野猫が途中にいたので一緒に引っ掛かっただけだと、雨妹は自分が皇后宮にいる理由を話す。
「そうなのか? 雨妹は気付いたらいる奴だと思っていた」
すると野猫がきょとんとした顔でこんなことを言うではないか。
「野猫、私をなんだと思っているの?」
雨妹はそんな背後霊か黒子みたいな生き方なんてしていないつもりである。
けれどなんにせよ、野猫の用事が済んだのならば、こちらの用事に付き合ってもらおう。というか、雨妹もこれだって元は野猫の用事なのだけれども。
「敏さん、ちょっと野猫を借りますね?」
雨妹がそのように窺うと、敏は「いいでしょう」と頷いてから野猫を見やる。
「手短に、言葉には気を付けるように。そして、友人は大事になさい。あなたはただでさえ浮いているのですから」
敏は野猫に注意を述べるが、皇后宮の宮女としての注意と、野猫のための注意とが混じっている。
「へぁ……?」
けれど肝心の野猫が不思議そうな顔をしているのは、一体どういうことなのか? その不思議は「言葉に気を付ける」についてなのか、「雨妹が友人である」についてなのか、はたまた「あなたは浮いている」についてなのか、どれだろう?
――自分のことなんだよ、野猫!
雨妹はそう言い聞かせたくなるのをぐっと堪える。たぶん今言ってもぽかん顔をされるだけだと思うからだ。
「そういうところなのですがねぇ」
敏も野猫のわからなさ具合が不安になった様子であるのに対して、雨妹は「まあまあ」と笑いかけた。
「敏さん、野猫は後宮に来たばかりですし、これからですよ!」
「わたくしもそう願っていますとも」
敏がため息を吐くので、これ以上不安を煽らないようにと、雨妹は野猫を急かす。
「ほら野猫行くよ、籠を持って!」
「あ、うん」
雨妹と敏がなんの話をしているのかわかっていない風の野猫は、促されるままに洗濯物が入った籠を持って移動を始めたのに、雨妹はその後ろに付いていく。
「それでは失礼します!」
雨妹がそう言って軽く頭を下げると、敏は無言で見送っていた。
こうして雨妹たちが向かう先は、そもそも当初向かうつもりだった外れの洗い場だ。そこは皇后宮の洗濯係であってもあまり立ち入らず、使いやすい洗い場から弾かれてしまった新人か、他人と群れたくない者が使っているらしい。その代表が野猫と卓敏であるのだけれども。
「野猫、皇后宮での人付き合いはちゃんと出来ている?」
洗い場まで歩きながら、雨妹は敏の心配を気にして尋ねた。
「人付き合い……話はするぞ?」
これに特に気負いもなさそうに答えた野猫だが、話をするということにも、挨拶を交わす程度から噂話で盛り上がる程度までの段階があるものである。野猫は果たしてそのどの段階のことを言っているのだろうか? 敏が野猫のことを「浮いている」と述べた点も気になるところだ。
――けどそれも、わからなくもないんだよねぇ。
野猫のある意味理解不能な行動力は、周囲の宮女たちを怖がらせるだろう。後宮の大多数の宮女たちは少なくとも、妙な狭い穴に潜って結果皇后の寝所に行き着くような経験はしないのだ。このような話を聞いても、冗談か夢の話だと笑い飛ばすに違いない。
――それに野猫から、他の宮女仲間の話を聞かないなぁ。
皇后と卓敏以外に交流している相手が、この娘には果たしているのだろうか? 後宮の先輩として雨妹は少々心配になってくる。
これまで雨妹が把握している野猫の振舞いは、はっきり言えば「不思議ちゃん」である。世間話の相手として選ぶには、かなりの度胸を必要とするだろう。それに今の野猫は頭の中が皇后と卓敏の存在だけで一杯になっているのが雨妹からでも見て取れるし、それでは結果として他の宮女との付き合いが二の次になってしまう。そんな野猫の様子が、敏は心配なのだ。




