732話 もう一人の医官
――あのおじいちゃん、高さんっていうのか。
医局には普段勤めている陳以外に、陳が休みの際の交代要員である老医官がいる。雨妹はそちらとは接点があまりないが、それでもたまに遊びに来た時にその老医官から「陳は今日いないぞ」と教えられることがあった。その程度の接触頻度だった老医官の名前を、今初めて知ったわけだ。
「その高先生は、怪我の手当てが得意なのですか?」
雨妹の疑問に、「そりゃあそうさ」と陳は自信たっぷりに答える。
「なにしろ昔は軍医をされていたからな」
「へぇ!」
これもまた当然ながら初耳な情報だ。
――軍医から後宮医官かぁ!
この高医師のことを、果たして立彬は知っているのだろうか? そしてこの転職は世間的にはアリなのかと、雨妹は不思議に思う。
軍医として勤めたのであれば、その看板でどこぞの家のお抱え医師として暮らしていけそうであるのに。それに比べて宦官になってまで医官になることは、言ってはなんだが給料面で得なわけでもなさそうだ。それこそ、陳のような医者としての使命感に突き動かされる人物でもなければ、医局の医官を引き受けそうにないように思えるのだが。
高は果たして、軍医からどういう経緯で医局の医官になったのだろうか? そこに高の歴史があるのかもしれないし、案外偉い人から頼まれて断れなかっただけかもしれない。
――けれど、私好みの話が隠れている気がする!
密かな恋物語が絡んでいたら素敵だなと、一人妄想する雨妹であるが、それはおいておくとして。
「高先生に頼むのは、軍医様にお願いするよりも可能そうな手段に思えますね」
雨妹がそう述べるのに、陳が頷く。
「そうだな。そちら方面の腕は私もまだ高殿には敵わんよ」
「はぁ~!」
陳にこうまで言わせる人だったとは驚きだ。
――あのおじいちゃんって会えば寝ているか、お酒を飲んでいるかなのに!
いや、たまたま雨妹が遭遇するのがそういう時ばかりだっただけかもしれないが、そんなわけで高は雨妹の中で「飲んだくれ医師」という印象だったのだ。けれど人を見かけで判断してはいけないということを、まさに体現している人物であろう。
「私から高殿にその辺りを窺って、意見を聞いておこう」
「お願いします!」
陳からの有難い申し出に、雨妹は頭を下げて頼む。
――なんとかなりそうで良かった!
診察の手段が確保できそうになったのは、野猫には朗報であろう。
陳とそんな話をしてから数日、雨妹は菊祭りの準備で忙しく働いていたが、その作業の暇を見て野猫の方の様子を見に行く。
――敏さんの説得工作、進展したかな?
雨妹は仕事帰りの三輪車で、皇后宮の裏門にやって来た。
「どうも、野猫とおしゃべりしたいんですが、外れの洗い場には入れますかね?」
「お前さんか。外れならばいいだろう」
裏門の門番が雨妹を場所限定とはいえあっさりと通してくれたのは、外れの洗い場は外れすぎて宮の中心部にはいくつかの建物内部を通らないと迷い込めない造りなのと、部屋改造作業で顔を覚えられたおかげであろう。信頼とは地味な仕事の積み重ねの先に出来るものなのだ。
こうして裏門から入れた雨妹は、三輪車を預けて野猫が普段仕事をしている洗い場へと向かおうとしたのだが。
「そうだ、絡まれたくなければ表門の方面には行くな」
雨妹の背中に、門番がそんなことを言ってきた。
「……というと?」
雨妹はぐりんと振り向いて尋ねる。このような忠告をされて、聞き流せと言う方が無理であろう。すると門番が渋い顔で告げるには。
「少々難しい客人を迎えているのだ。近付かぬが利口であるぞ?」
かなり誤魔化す言い方をされるが、皇后宮にとって歓迎されざる客人が来ていることは理解できた。というか、今の皇后にとって歓迎すべき味方とはどういう人たちなのか、そこのところも雨妹にはあまりわかっていないのだけれど。
――昔からの酒宴仲間とかは、味方なのかな?
なんにせよ、皇后宮がその客人のせいでピリピリしているということなのだろう。雨妹としては野次馬したい気持ちで満ち満ちているのだが、さすがに皇后宮で勝手に動くのは拙い。
「わかりました、野猫とおしゃべりする以外にはうろつきません!」
なのでそんなお利巧な返事をした雨妹は、改めて野猫を探しに行くのだけれど。
「……あれ?」
雨妹は洗い場までまだ遠い辺りで、妙な動きをする野猫を発見してしまった。




