729話 皇太后はそこにいる
――皇后陛下は、皇太后陛下への窓口としか見られていなかったのか。
妃嬪たちは皇后にではなく、皇后の向こうにいる皇太后へ贈り物なりなんなりをしていたわけだ。だから当然、窓口に好みがあっても知ったことではないということか。むしろそうやってこれまでずっと皇太后への窓口でしかなく、さほど存在を重要視しなかった皇后を、今更上に見て敬う必要が出てきたとしても、その通りにするのはなんだか癪だ、という気持ちも周囲にはあるのかもしれない。
だからといって妃嬪たちも今となれば、そんな皇后に表立って嫌味を言うことはできない。皇后に対抗できる四夫人の庇護下に入ろうにも、伊貴妃、燕淑妃、黄徳妃の三人は独特な人物であり、取り入ることは容易ではないだろう。ならば担ぎやすそうな叶賢妃の発言力を大きくさせれば、自分たちにも利があるというわけだ。
なんとも雨妹が思う後宮らしい人間模様であるが、皇后は叶賢妃を跳ね返す力があるのだろうか? この疑問について、秀玲が語る。
「隙さえなければ、叶賢妃から付け入られることはないでしょう。かつては皇太后陛下の御威光のお力に追い込まれていたとはいえ、皇后陛下の存在は大きいものなのです」
秀玲のこの意見に、「それはそうだ」と雨妹も同意する。皇后は皇帝の正妃であり、皇帝に次ぐ立場であるのだから、圧倒的に偉いのだ。そのことを後宮や宮城でも思い出してもらって、皇帝一強の現状に不満を抱いている者らに納得感を持ってもらうことは、父の方針として今でも変わりないはずである。皇帝の後押しがあることこそ、後宮では最も強い力となるだろう。
――なら敏さんには元気になってもらわないとね!
皇后の隙扱いされないためにも野猫に説得を頑張ってもらうことにしよう。
けれどそれはともかくとして、雨妹は今になってつくづく思うことがある。
「私、最近の方が皇太后陛下のお名前をよく聞く気がします」
そう、やたらに皇太后の名がそこかしこで上がる現象についてである。むしろ皇太后が健在であった頃、これ程に雨妹の周囲で話題に上ったことがあっただろうか? いなくなった後の方が身近な話題になるとは、謎でしかない。
この雨妹の違和感に、しかし立彬の態度はあっさりとしたものだった。
「そんなものだろう。人は当たり前にあるモノについて話題にしないものだ」
この意見もまたわからなくもない。特に下っ端宮女にとっては、長く後宮の頂点にいた皇太后とは背景同然であったのだから。それにしても、後宮の支配者という印象から抱いていた人物像が知れば知るほどわからなくなるのは、こちらも皇后と同様である。
「なんというか、こんな人だったのかという気持ちになるというか、ちぐはぐな印象がするというか……」
――はっきり言えば、子どもっぽいよね?
皇太后にとって、皇后は大事な政略の駒であっただろうに、その扱いが余りに粗雑であり過ぎる。もっと皇后を盛り立てて、後宮や宮城での派閥をこの先も盤石にしようと思わなかったのだろうか? その在り様はまるで、癇癪持ちでその場凌ぎに生きる幼子のようだ。
雨妹がなんと言うべきか言葉を探すようにするのに、秀玲が「ふふ」と笑みを漏らす。
「それこそが皇太后陛下のお姿だということです。その純粋な激情こそが、先代皇帝陛下のお目に留まったのですから」
「純粋な激情、ですか」
秀玲がきれいな言葉に置き換えたけれど、それはつまり「子ども心を忘れない」ということなのだろうか?
皇太后は自分が一番可愛いくて、同時に非常に嫉妬深い人であり、家でも派閥でもなく、己だけが大事な人だったのかもしれない。自分のために皇后を後宮に据えながらも、自身に向かうべきあらゆる好意が、欠片でも皇后に奪われてしまうのが我慢できなかった。実は皇太后には謀略などの考えはなかったのか?
――でも愛憎ドロドロ話って、根っこは単純なものだったりするものね。
むしろ愛憎と謀略とは反発するものであるとも言える。愛憎は思いが高まれば高まる程に行動が過激になるし、謀は頭の中が冷静でなければしくじるものだ。
「後宮って、奥が深いですねぇ」
「お前はどの目線で話をしているのだ?」
雨妹が深く頷くのに、立彬からは呆れられてしまったが、人間とはいついかなる時も学びを得るものなのだ。




