05 初陣
「へいへい。じゃ、記念すべき初ミッション、いっとくか」
ベルフが、だるそうに指を振ると、宙のウィンドウに、無機質な文字が並んだ。
【ミッション(難易度:F)】
【内容:朝日荘周辺に湧いた“下級モンスター”を、三体、討伐せよ】
【報酬:魔石×少々】
【失敗ペナルティ:軽微】
「Fだから、出てくんのは、生まれたての雑魚ばっかだ。……ま、普通のチームなら、鼻ほじりながらでも終わる、ぬるいやつだな」
「……普通の、チームなら」
「そ。……お前んとこは、戦力が、その剣道娘ひとり。管理人サマは、筋力3のモヤシ。……ま、死なねえ程度に、頑張れや」
ベルフは、他人事のように、けらけらと笑った。
“下級”で、“ぬるい”。ベルフは、そう言う。けれど――今朝、俺に飛びかかってきた、あの牙だらけの黒い獣を思い出すと、とても、鼻歌まじりに片付けられる相手だとは、思えなかった。
しかも、それが、三体。
失敗のペナルティは「軽微」。だが、今の俺たちに、失敗している余裕なんて、あるはずがない。七日後の上納までに、魔石を稼がなければ、拠点ごと、全員が死ぬのだ。この一歩を、しくじるわけには、いかなかった。
◇
「……ちょっと、待ってて」
咲は、いったん自分の部屋――一〇一号室に戻ると、何かを抱えて出てきた。
細長い布包み。ほどくと、現れたのは、使い込まれた、一振りの木刀だった。握りは、長年手にされてきたのか、飴色に、艶を帯びている。先のほうは、幾度も打ち込みを重ねたせいか、わずかに白くささくれていた。
「それ……」
「昔の、相棒。……剣道、辞めたあとも、なんとなく、捨てられなくてさ」
咲は、木刀を、両手で、ゆっくりと構えた。すう、と、背筋が伸びる。その瞬間、さっきまで、俺の腕を掴んで震えていた咲の気配が、別人のように、張りつめたものに変わった。
ひゅん、と、一度だけ、素振り。空気を裂く、鋭い音。全国大会まで駆け上がった者の、体に染みついた“型”だった。
「……ほんとは、竹刀でしか、戦ったことないんだけどね」
咲は、自分に言い聞かせるように、小さく、呟いた。その横顔は、気丈に見えて、けれど、握った拳が、かすかに、白んでいた。
――怖いんだ。こいつも、当然。
俺は、自分の、丸腰の手のひらを見下ろした。筋力3の、戦闘評価F。武器を持ったところで、ろくに振れもしない。戦うのは、咲だ。それは、もう、わかっている。
だったら、せめて。俺にできることは、何だ。……戦えない俺が、咲の、何を、守れる。
答えは、出なかった。それでも、俺は、腹を括った。突っ立っているだけでも、せめて、咲の“目”にならなければ。死角から来るものを、一秒でも早く、報せる。それくらいしか、思いつかなかったけれど。
◇
朝日荘の外へ出ると、無人の街は、相変わらず、不気味なほど、静まりかえっていた。
誰もいない、昼下がりの住宅街。開けっぱなしのコンビニ。止まったままのエスカレーター。乗り捨てられた自転車。生活の気配だけが、そのまま残されて、人の姿だけが、ごっそりと、抜け落ちている。
その“欠落”が、かえって、肌に、ぞわぞわと、まとわりついた。
二人で、息を殺して、路地を進む。自分たちの足音と、心臓の音だけが、やけに、大きく聞こえた。
「……和馬」
「……ああ。いる、な」
路地の、突き当たり。民家のブロック塀の、影。
そこに、黒い靄が、わだかまっていた。
ずるり、と。靄の中から、頭をもたげたのは――今朝、俺に襲いかかってきたのと、同じ姿の獣だった。四つ足で、犬ほどの大きさ。濁った、ぎょろりとした目。だらりと垂れた、涎。口が、耳元まで裂けて、ずらりと並んだ牙を、覗かせている。
“下級”。“雑魚”。
――そんな言葉が、一瞬で、頭から吹き飛んだ。
生理的な、おぞましさ。本能が、全力で、「逃げろ」と、警鐘を鳴らしていた。
「……っ、来る……!」
獣が、低く身を沈め――地を蹴って、咲めがけて、飛びかかった。
◇
「せいっ……!」
咲が、踏み込みざま、木刀を、袈裟懸けに振り下ろす。
――ごっ、と。
鈍い音。木刀は、確かに、獣の肩口を、捉えた。捉えた、はずだった。
なのに、獣は、ぎゃん、と一声あげただけで――倒れ、なかった。
「っ、嘘……!」
咲の顔が、こわばる。剣道の、会心の一撃。人間相手なら、一本どころか、骨まで響いていたはずの、力の限りの打ち込み。それを食らって、なお、獣は、怯むどころか、さらに、獰猛に、牙を剥いた。
硬い。皮が、筋肉が、生き物として、根本的に、頑丈すぎる。
反撃の、前足が、横薙ぎに振るわれる。咲は、とっさに、木刀でそれを受けた。
「くっ……!」
受け、きれない。体格と、膂力が、違いすぎる。咲の、ほっそりとした体が、衝撃で、後ろへ、大きく、よろめいた。
「咲っ! 右……!」
獣が、よろけた咲の、死角へと、回り込む。俺は、ただ、叫ぶことしか、できなかった。
咲が、俺の声に反応して、半身を、ひねる。牙が、ごっ、と、頬のすぐ横を、かすめた。前髪が、数本、ぱらりと、宙に散る。
――あと、数センチ。
それだけ反応が遅れていたら、今ので、咲の喉は、食い破られていた。
◇
そこから始まったのは、終わりの見えない、削り合いだった。
獣が、低く沈み込み、再び、地を蹴る。咲は、その突進を、半歩、横へ跳んで、いなした。すれ違いざま、木刀を、脇腹へ叩き込む。ごっ、と鈍い音。けれど、やはり、硬い。皮の下の筋肉が、刃を、ぶ厚く、受け止めてしまう。手応えの薄さに、咲の表情が、焦りで、歪んだ。
体勢を立て直す間も、与えられない。獣は、すぐさま身を翻し、今度は、低い姿勢から、足を狙って、牙を剥いた。
「咲、下っ!」
俺の声に、咲が、とっさに、木刀の切っ先を、下げる。噛みつこうとした牙が、刃に阻まれ、がちり、と鳴った。その膂力で、咲の腕が、ぎしりと、押し込まれる。歯を食いしばって、押し返し、距離を取る。
攻めても、硬くて通らない。守れば、膂力で、押し込まれる。――じりじりと、分の悪さが、積み重なっていく。咲の息は、もう、とっくに、あがっていた。全国大会まで駆け上がった、その体力が、一合ごとに、確実に、削られていく。
「はっ……はっ……」
そして、ついに。獣の、横薙ぎの爪を、かわしきれなかった。
咲の、白い二の腕に、一筋、赤い線が、走る。浅い。浅いけれど――ぽたり、と、アスファルトに、赤い滴が、落ちた。その一滴が、俺の心臓を、鷲掴みにした。
「咲……!」
たまらず、駆け寄ろうとした俺を。
「……来ないで、和馬!」
咲の、鋭い声が、制した。獣から、目を、離さないまま。
「あんたが、来たって……! やられるだけ、でしょっ……!」
その通りだった。筋力3の俺が、丸腰で飛び込んだところで。足手まといになって、二人まとめて、噛み殺されるだけ。――わかっている。痛いほど、わかっている。わかっているのに。
目の前で、幼馴染が、血を流して、たった一人で、死と、斬り結んでいる。それを、ただ、突っ立って、見ていることしか、できない。声を、張り上げて、死角を報せる。俺にできるのは、それだけ。それ、だけ。
この、焼けつくような無力感を。これまでの人生で、俺は、知らなかった。
(……くそ。……くそっ。なんで、俺は、こんなに……!)
手のひらに、爪が食い込むのも、構わず、両の手に、力を込める。それでも、何も、変えられない。ただ、咲の、荒くなっていく呼吸だけが、俺の耳に、痛く、突き刺さっていた。
◇
「……ふ、ざけ、んな……!」
追い詰められ、壁を背にして。それでも、咲の目から、光は、消えていなかった。むしろ、ぎらぎらと、負けん気が、燃え上がっていく。
「こんなとこで……死んで、たまるかっての……!」
獣が、とどめとばかりに、大きく、口を開けて、咲の、喉元へ、飛びかかる。
その、刹那。
咲は、あえて、一歩、踏み込んだ。獣の、懐へ。牙の、内側へ。
「はぁあああっ――!」
全身全霊の、突き。
木刀の切っ先が、獣の、あの、濁った右目へと、深々と、突き立った。
ぎぃやあああ、と。
今度こそ、獣は、断末魔の悲鳴をあげ――びくり、びくり、と痙攣して、やがて、黒い靄となって、ほどけ、霧散していった。
その跡に、ころん、と。小さな、青い石が、ひとつ、転がる。
魔石。……初めての、“金”だった。
◇
ぺたり、と。
張りつめた糸が切れたように、咲が、その場に、座り込んだ。
「……はぁっ……はぁっ……」
肩で、大きく、息をしている。前髪は、汗で、額に、べったりと貼りついていた。頬を伝った汗が、顎の先で、玉になって、ぽたりと落ちる。
「……咲っ!」
今度こそ、俺は、駆け寄った。
「大丈夫か、咲……! 腕、見せろ……!」
「……へ、へへ。……どう、よ。……一体、倒してやった、わよ……」
強がって、笑って見せる咲の、その手は、まだ、小刻みに、震えていた。木刀を握ったまま、離せないでいる。
――たった、一体。
ベルフが『ぬるい』と言った、“下級”の、たった、一体に。全国大会まで行った咲が、血を流し、死にかけ、全力を、使い果たした。
これが、この世界の、“F”なのだ。いちばん、ぬるい、はずの。
背筋が、ぞっと、冷たくなった。
◇
「……喜んでる、とこ、悪いけど、よ」
頭上で、ベルフの、気のない声が、降ってきた。
「ミッションは、“三体”、だぜ? ……ほら。お出ましだ」
――ざわり、と。
路地の、奥。積み上がった、何かの影。そのさらに、向こうから。
ずる、ずる、と、黒い靄が、ふたつ。涎を垂らした濁った目が、ぎょろり、ぎょろりと、こちらを、捉えた。
残りの、二体。
「……うそ、でしょ」
座り込んだまま、咲が、掠れた声を、漏らす。立ち上がろうにも、その足には、もう、ほとんど、力が、残っていない。
一体で、あれだ。満身創痍の咲で、残り二体を、相手にできるはずが、ない。
俺は、震える咲の前に、ふらりと、立った。筋力3の、丸腰の体で。それでも、一歩も、引けなかった。
――何か。何か、できることは。
迫りくる、二対の、濁った目を見据えながら。俺は、必死に、頭を、巡らせた。
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