03 最初の一人
「ほら、どうする、管理者さん。――最初の一人だ。……誰を、迎えに行く?」
ベルフの、だるそうな声が、やけに遠くに聞こえた。
一人だけ。たった一人だけ、この地獄みたいな世界に、連れ出していい。
俺は、唇を噛んで、必死に頭を回そうとした。けれど、考えれば考えるほど、思考は、ぐちゃぐちゃに、もつれていく。
◇
真っ先に、頭に浮かんだのは――妹の、唯の顔だった。
お兄ちゃん、と笑う、あの屈託のない顔。今ごろ、冷たいコアの中で、どんな思いで、封じられているんだろう。考えるだけで、胸が、ぎゅっと、締めつけられる。
すぐにでも、助け出してやりたい。
――でも。
(……待て)
俺は、こみ上げるものを、懸命に、飲み込んだ。
解放するということは、裏を返せば、この死と隣り合わせの世界に、すぐさま、引きずり出すということだ。モンスターがいて、死が本物で、ひとつ間違えれば、現実ごと、命を落とす。
そんな場所に、いちばん最初に、大事な妹を、放り出す?
(……できるかよ、そんなこと)
守りたいからこそ、まだ、動けない。唯だけじゃない。麻衣さんも、怜子さんも、葵も、あの一〇三号室の人も――みんな、そうだ。わけもわからないまま、この地獄に叩き起こすには、俺は、何もかもを、知らなすぎた。
この世界のことも。戦い方も。自分に、何ができるのかも。
◇
だけど、一人も解放しなければ、俺は、ただの無力な管理人のまま、何もできずに、七日後の“上納”とやらで、全員まとめて、終わる。
誰かが、いる。
こんな無茶に、付き合ってくれる、誰かが。
背中を、預けられる誰か。俺がへこたれたときに、遠慮なく、引っぱたいてくれる誰か。……わけのわからない地獄のど真ん中で、「面白いじゃない」と、隣で笑ってくれる、誰か。
――そうだ。
考えるまでも、なかったのかもしれない。
こういうとき、俺が、いちばん最初に手を伸ばしたいと思う相手は。昔から、ずっと、変わらず、決まっていた。
「……ベルフ」
俺は、顔を上げた。
「咲を。……幼馴染の、本間咲を、頼む」
腑抜けていた俺を、引っぱたいて立たせてくれた、あいつを。
こんな理不尽に、無理やり付き合わせることになるのは、本当は、申し訳ない。でも――あいつなら。咲なら、きっと、こう言う。「なんで最初に私を選ばないのよ、ばか」と。そう、憎まれ口を叩きながら、俺の隣に、立ってくれる。
◇
「あいよ。……『本間咲』、解放っと」
ベルフが、気のない調子で、短い指を、ひょい、と振った。
その瞬間。
朝日荘の、ひび割れた外壁の奥――建物の、ちょうど心臓にあたるあたりが、ぼうっと、あたたかな光を帯びた。コア、というやつだろうか。その光に呼応するように、一〇一号室の扉が、ひとりでに、かたん、と開く。
光の粒が、扉の内側から、ふわりと、こぼれ出してきて。
その中から、一人の人影が、転がるように、現れた。
「――っ、ぁ……。え、ここ……?」
咲だった。
寝起きのままの、よれたTシャツ姿。髪は乱れ、顔は、血の気が引いて、真っ青だ。何が起きたのかわからない、という顔で、きょろきょろと、あたりを見回している。
その視線が、へたり込んでいる俺を、捉えた。
「……和馬?」
◇
「和馬……!」
次の瞬間、咲は、転がるように、俺のところへ駆け寄ってきた。
「あんた、無事だったの!? ……ってか、なにこれ。街、どうなってんのよ。人、どこ行ったの。っていうか――」
そこで、咲の視線が、俺の隣で欠伸をしている、小さな悪魔を捉えて。
「……なに、その、コウモリみたいなの」
「失礼だな、姉ちゃん。悪魔だよ、悪魔。……ベルフさんだ」
ベルフが、だるそうに、ひらひらと手を振る。咲は、ひっ、と小さく息を呑んで、俺の腕を、ぎゅっと掴んだ。その手が、小刻みに、震えている。
――ああ。
こいつも、怖いんだ。
いつも威勢のいい、気丈な幼馴染。それでも、こんなわけのわからない状況で、平気なわけが、ない。震える手の冷たさが、それを、何よりも、正直に語っていた。
「……咲」
俺は、その手の上に、そっと、自分の手を重ねた。
「順番に、説明する。……たぶん、すぐには、信じられないと思う。俺だって、まだ、信じられてない。……でも、たぶん、これは、ぜんぶ、本当だ」
そして俺は、ベルフから聞かされたことを、ひとつずつ、咲に伝えていった。
世界が、ゲームになったこと。みんなが、このアパートのコアに、封じられていること。この世界で死ねば、現実でも死ぬこと。拠点が壊されれば、全員、死ぬこと。……そして、生き延びて、このボロアパートを育てきれば、みんなを、取り戻せること。
◇
咲は、話の途中で、何度も「は?」と顔をしかめ、何度も「嘘でしょ」と呟いた。
けれど、人の消えた街と、目の前の悪魔を前にしては、信じないわけには、いかなかった。話が終わるころには、その顔から、笑みは、すっかり、消えていた。
「……つまり」
咲は、ゆっくりと、言葉を選ぶように、口を開いた。
「生き延びて。この、ぼろっちいアパートを、どうにか育てて。……そうすれば、唯ちゃんも、みんなも、助けられる。そういう、ことなのね」
「……ああ。気が、遠くなる話だけどな」
俺は、力なく、頷いた。正直、ひとつも、勝算なんて、見えていない。戦う術も、知らない。こんな状況で、何から手をつければいいのかも、わからない。
――けれど。
「……はっ」
俺の、情けない顔を見て。
咲は、ふっと、口の端を、吊り上げた。
青ざめて、手を震わせて。それでも、その目には、昔から、何ひとつ変わらない、あの、負けん気の強い光が、灯っていた。
「……面白いじゃない」
ああ、やっぱり。
こいつは、こう言ってくれる。俺が、思っていた、通りに。
「泣き言はあとでいくらでも聞いてあげるから。……今は、やるしかないんでしょ。唯ちゃんを――みんなを、迎えに行くんでしょ、和馬」
「……ああ」
俺は、きつく、唇を、噛みしめた。
震える手を、握り返す。すると咲も、負けじと、強く、握り返してきた。その手の震えは、まだ止まっていない。それでも、確かに、あたたかかった。
一人じゃ、ない。
ただ、それだけのことが、こんなにも、心強いなんて。
◇
「……ふぁあ。やっと腹くくったか」
俺たちのやりとりを、心底どうでもよさそうに眺めていたベルフが、大きく伸びをした。
「じゃ、感動の再会も済んだとこで。……そろそろ、“現実”ってやつを、見せてやるよ」
ベルフが、だるそうに、指を鳴らす。
すると、俺と咲の目の前の空間に、半透明のウィンドウが、すう、と、浮かび上がった。
そこに表示された“数字”を見て。
俺は――これから自分が、どれほど絶望的な場所に立っているのかを、思い知ることに、なる。
お読みいただきありがとうございました。
続きが気になったら、ブックマークや評価で応援いただけると励みになります。




