02 ようこそ、デスゲームへ
目を覚ましたとき、最初に感じたのは、“静けさ”だった。
朝の七時。いつもなら、表通りを走る車の音や、近所の子供が登校する声、どこかの部屋のテレビの音が、薄い壁越しに聞こえてくる時間だ。それが、今朝にかぎって、何も聞こえない。
まるで、世界に、俺ひとりだけが取り残されたみたいな。
「……日曜、だったか?」
寝ぼけた頭でそう呟いて、俺はのそのそと布団を出た。カーテンを開けると、晴れた朝の光が差し込んでくる。天気は、いい。……それなのに、どうにも、胸の奥がざわついた。
窓の外を、見下ろす。
――人が、いなかった。
通勤の会社員も、散歩の老人も、走る車も、自転車も。いつもなら必ず誰かしらいる朝の通りに、動くものが、何ひとつない。信号だけが、誰にともなく、青から赤へと点滅を繰り返している。
「……は?」
◇
寝間着のまま、俺は外へ飛び出した。
朝日荘の、錆びた外階段を駆け下りる。かんかん、と、自分の足音だけが、やけに大きく響いた。
「……おーい。誰か、いないのか」
返事はない。
一〇一号室の扉を叩く。幼馴染の、咲の部屋だ。
「咲! おい、咲、起きてるか!」
何度叩いても、物音ひとつしない。鍵はかかっていて、中に人のいる気配がない。
「……おかしいだろ」
一〇三号室も、二階の部屋も、同じだった。昨日まで確かにいた住人たちが、まるで、最初からいなかったみたいに、消えている。妹の唯に電話をかけても、呼び出し音すら鳴らない。画面には「圏外」の文字。
背中に、じっとりと、嫌な汗が滲んできた。
「……なんだよ、これ。……なんなんだよ」
夢でも見ているのか。そう思って、自分の頬を、思い切りつねってみた。
――痛い。
夢じゃない。
◇
そのときだった。
ふと、肌が、ぞわりと粟立った。見てはいけないものを、見てしまう予感。それでも俺は、吸い寄せられるように、空を見上げて――。
そして、言葉を、失った。
澄みわたった青空の、あちこちに。
まるで、巨大なガラスにヒビが入るように、黒い亀裂が、幾筋も、走っていた。昨夜、寝ぼけ眼で見たあの一本が、今や、空いちめんに広がっている。
そして、その亀裂の、いちばん奥。
ぎょろり、と。
巨大な“眼”のようなものが、こちらを――地上の、ちっぽけな俺を、音もなく、見下ろしていた。
「……っ、ひ」
情けない声が、喉から漏れた。腰が抜けそうになって、俺はその場にへたり込む。頭の芯が、きんと冷えて、うまく物が考えられない。
逃げなきゃ、と思うのに、足が、動かなかった。
◇
《――接続を、確認。対象管理者への、ルール説明を、開始します》
頭の中に、直接。
声が、響いた。
男とも女ともつかない、機械のように平坦な声。鼓膜ではなく、脳みそを直接撫でられるような、ぞっとする感覚に、俺は思わず両耳を押さえた。
「う、あ……っ、なんだ、今の……!」
《ルールの、詳細説明は、担当個体に、委任します》
その言葉を合図に、俺の目の前の空間が、ぐにゃり、と歪んだ。
陽炎のように景色が揺らぎ、そこに、黒い靄が、じわじわと滲み出してくる。墨汁を水に落としたみたいに、靄は渦を巻き、やがて、ひとつの“かたち”を、結んでいった。
ずる、と。
その靄の中から、何かが、這い出してくる。
◇
――現れたのは、小さな、悪魔だった。
身の丈は、座り込んだ俺の、胸ほどまでしかない。背中には、コウモリのような黒い羽。頭には、短い二本の角。尻尾の先が、退屈そうに、ぴこぴこと揺れている。
おとぎ話の挿絵から抜け出してきたような、そいつは。けれど、その目つきだけは、何というか――ひどく、やる気がなかった。
「ふぁ……ぁあ」
悪魔は、大きな欠伸をひとつして、面倒くさそうに頭をかいた。
「……あー、どこ担当だっけ、俺。……えーっと」
そいつは、どこからともなく一枚の羊皮紙を取り出し、だるそうに眺める。
「……『朝日荘』。築五十年。……うっわ。ハズレ物件じゃん。なんで俺がこんなボロ担当……はぁ」
あからさまに、ため息。
俺は、へたり込んだまま、ただぽかんと、その小さな悪魔を見上げることしかできなかった。
現実感が、まるで、なかった。空には眼。街から人が消え、目の前には、やる気のない悪魔。そのどれもが、昨日までの日常から、あまりにも、かけ離れていて。
「……おい、お前。……なんなんだよ、一体。……ここ、どうなってんだ」
やっと絞り出した声は、みっともなく、震えていた。
「あー? ……俺、ベルフ。あんたの担当。……まあ、下っ端の悪魔だ」
ベルフと名乗ったそいつは、尻尾でぽりぽりと背中をかきながら、心底どうでもよさそうに言った。
「で、これから、あんたに“ルール”を説明する。……正直、だるいんだけどな。仕事だから、しゃあねえ」
◇
「ルール、だと……?」
「そ。……まず、落ち着いて聞けよ。どうせ、いっぺんには飲み込めねえだろうけど」
ベルフは、宙に、半透明の板のようなものを浮かべた。そこには、見たこともない文字が、びっしりと並んでいる。
「今日からな、この世界は“ゲーム”になった。……昨日までの、のんびりした現実はおしまい。残念でした」
「ゲーム……? なに言ってんだ、お前」
「まあ、聞け。……まず、一般人――あんたら“プレイヤー”以外の連中は、ぜんぶ、別の場所に“退避”させられた。消えたんじゃない。ただ、ここにはもう、いない」
退避。消えたわけじゃ、ない。
その一言に、俺は、ほんの少しだけ、息をついた。少なくとも、みんなが死んだわけじゃ、ないのか。
「で、この世界に残ってるのは、“建物”を単位にした『チーム』だけだ。建物と、その管理者と、そこの住人。それでワンセット。……あんたの場合は、この朝日荘と、あんたと、ここの住人たち、ってわけ」
「……住人たち。じゃあ、咲や、唯は」
「あー、その話な」
ベルフは、面倒くさそうに、朝日荘の古びた外壁を、指でさした。
「あんたんとこの住人は、ぜーんぶ、この建物の『コア』ってやつに、封印されてる。……まあ、平たく言やあ――人質だな」
「っ……人質、だと!?」
かっと、頭に血が上った。へたり込んでいた俺は、思わず膝を立てて、ベルフに詰め寄る。
「どういうことだよ! みんなを、返せ!」
「どうどう。……落ち着けって。順番に説明してんだろ。だから、だるいんだよ、新人は」
――と。
ベルフが、そう言いかけた、そのときだった。
◇
ぞわり、と。
また、肌が粟立った。
視界の端。渦巻いていた黒い靄の一部が、ぶくり、と膨らんで、そこから、何か――ぬめった、黒い“獣”のようなものが、ぬうっと、頭をもたげた。
ぎょろりとした、濁った目。ずらりと並んだ、牙。そいつは、涎を垂らしながら、へたり込んだ俺めがけて、低く身を沈め――。
「っ、うわあああ!?」
飛びかかって、きた。
避けることも、身構えることもできない。俺は、ただ、両腕で頭をかばって、固く目を閉じることしか――。
ぱしん。
間の抜けた、軽い音がした。
おそるおそる目を開けると、ベルフが、面倒くさそうに片手を振り、その黒い獣を、まるで羽虫でも払うように、ぺしん、と宙に弾き飛ばしていた。獣は、きゅう、と情けない声をあげて、黒い靄の中へ、霧散していく。
「……あー、もう。空気読めよ、雑魚が」
ベルフが、心底うっとうしそうに、舌打ちをした。
「見ての通り、“モンスター”だ。こいつらが、これから、そこらじゅうに湧く。……今のは、生まれたての雑魚だから俺が払えたけど。本来は、あんたら自身で、どうにかしなきゃならん相手だ」
「モン、スター……」
「ああ。油断してると、食われて終わり。……ま、そういう世界になった、ってこった。――おい、お前らも、まだ説明中だ。引っ込んでろ」
ベルフが、面倒くさそうに、宙に向かって手を振ると、ざわついていた靄が、しぶしぶ、といった風に、鳴りをひそめた。
俺は、冷たい汗を、だらだらと流しながら、ようやく、思い知る。
――ああ。
ここは、もう。あんなものが、当たり前に襲ってくる世界に、なってしまったんだ。
◇
「で、話の続きだ。……いちばん大事なとこだから、よく聞けよ」
ベルフは、だるそうに、けれど、はっきりと、言った。
「この世界で死んだら――あんたは、“元の現実”でも、死ぬ」
心臓が、どくんと、嫌な音を立てた。
「……は?」
「ゲームの中の話だから平気、とか思うなよ。ここでの死は、本物だ。ちゃんと、現実に跳ね返る。……わかる?」
「……っ」
「それと、もうひとつ」
ベルフは、とん、と、朝日荘の壁を、小さな手で叩いた。
「この建物――『拠点』が壊されたら、おしまいだ」
そこで、ベルフは、いったん言葉を切った。
「中のコアごと、全部アウト。……封印されてる住人も、管理者のあんたも」
ひと呼吸、おいて。
「全員まとめて、死ぬ。……わかった?」
――全員、まとめて、死ぬ。
その言葉が、じわじわと、脳みそに染み込んでくる。
咲が。唯が。麻衣さんが。いつも塩対応の怜子さんも、元気な葵も、あの一〇三号室の人も。……みんな、この、ぼろぼろのアパートと、運命を、共にしている。
そして、その命綱を、管理人の俺が、握らされている。
「……う、そ、だろ」
声が、掠れた。
◇
「じゃ、どうやって生き延びるか、だ」
ベルフは、気のない調子で、指を鳴らした。宙のウィンドウに、いくつかの項目が、浮かび上がる。
「さっきのモンスター。あいつらを倒すと、『魔石』ってのが手に入る。……これが、この世界の“金”だ。飯も、水も、これで買う」
「……飯も、水も?」
「ああ。言っとくけど、この世界、食いもんは湧かねえからな。稼がなきゃ、モンスターにやられる前に、普通に飢え死にだ」
ベルフは、そこで、にやりともせず、淡々と、続けた。
「で――その魔石で、『上納』ってのも、しなきゃならん」
「……上納?」
「そ。決められた期日ごとに、決められた分の魔石を、“上”に納める。いわば、この世界で生きていくための、“みかじめ料”みたいなもんだ」
ベルフは、だるそうに、指を一本、立てた。
「最初の上納は……七日後だな。それまでに、決められた分の魔石を、用意しろ」
「もし、払えなかったら」
俺が、おそるおそる尋ねると。
ベルフは、さっき壁を叩いた手で、もう一度、とん、と朝日荘を指した。
「言ったろ。拠点が、壊される。……つまり、全員、死ぬ。それだけだ」
七日後。
払えなければ、みんなもろとも、死ぬ。
突きつけられた“期限”に、俺は、ぞっと、背筋を凍らせた。
◇
「稼ぐ手段は、『ミッション』だ。いつでも受けられる。難易度はF、E、D、C、B、A、S。Fが一番ぬるくて、Sが一番ヤバい。難しいほど、報酬はでかいが、失敗のペナルティも、でかくなる」
ベルフは、流れ作業のように、説明を続ける。
「ミッションをこなして、魔石を稼いで、上納を払いつつ、拠点のレベルを上げてく。……で、拠点レベルが100になりゃ、最後のミッションを受けられる。それをクリアすれば――元の世界も、消えた連中も、ぜんぶ、取り戻せる」
「……っ。……ほんとか、それは」
「ああ。ただし、あんたら以外にも、参加者は山ほどいる。みんな、同じように、建物ごと放り込まれてな。ランキングで、競わされてる。……ま、せいぜい頑張んな。どうせ最下位だろうけど」
生き延びて。モンスターを倒して。魔石を稼いで。上納を払って。このボロアパートを、100まで育てれば――。
みんなを、取り戻せる。
途方もない道のりだった。けれど、ぐちゃぐちゃになった頭の中で、たったひとつ、その“希望”だけが、かろうじて、俺を、支えていた。
◇
「……なあ」
俺は、震える声で、ベルフに尋ねた。
「……みんなは、今すぐは、戻せないのか。その、封印ってのを、解く方法は」
我ながら、縋るような声だった。
「あー。……それな」
ベルフは、気のない調子で、けれど、こう続けた。
「本来は、ミッションをこなして、こつこつ解放してくんだけど……。まあ、初回だけは、特別サービスがある」
ベルフは、ぴん、と、短い指を一本、立てた。
「今だけ、一人。……あんたの好きなやつを、選んで、解放していい」
――一人だけ。
「ただし、誰が、どんな力を持ってるかは、解放するまで、わからん。……まあ、たいていは、現実のそいつの資質を、引き継ぐけどな。性格が“属性”に、できることが“スキル”に、なる感じだ」
たった一人だけ、選べる。
咲。唯。麻衣さん。怜子さん。葵。――そして、あの、一〇三号室の人。
みんなの顔が、次々と、頭の中に浮かんでは、消えていく。
誰か、一人を選ぶということは。……裏を返せば、残りの全員を、まだ、冷たいコアの中に、置き去りにするということで。
しかも、解放したその一人を、さっきのモンスターが、当たり前に襲ってくる、この死地に、まっさきに引きずり出すということで。
「……そん、な」
選べ、と言われて。
俺は、ただ、立ち尽くすことしか、できなかった。
「ほら、どうする、管理者さん」
ベルフが、だるそうに、俺を急かす。
「――最初の一人だ。……誰を、迎えに行く?」
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