01 築50年、訳ありアパートの管理人
開いてくださってありがとうございます。
本作は、異世界へ放り込まれた人々の生き残りを描く転移サバイバルです。
登場人物の何人かは、私がこれまで書いてきたハーレム系作品のキャラクターたちです。
ただ今回は恋愛を主役にせず、彼らを連れて“純粋な異世界冒険譚”に挑みたいと思っています。
過去作を知らなくても独立した物語として楽しめますので、どうぞ気軽に読み進めてください。
それでは、最弱の管理人の物語をお楽しみください。
朝の七時。俺――佐藤和馬の一日は、だいたい、どこかの不具合から始まる。
今朝は、二階廊下の、いちばん端の電球だった。チカチカと頼りなく明滅して、俺が下を通った瞬間に、ぷつん、と力尽きたように消える。まるで、「おい、仕事だぞ」と、俺に知らせてくるみたいに。
「……はいはい。ただいま参ります」
倉庫から脚立と替えの電球を引っ張り出して、俺は、きしむ外階段を上っていく。この「朝日荘」は、築五十年のオンボロアパートだ。外階段は錆びて軋み、雨の日はどこかの天井がかすかに湿り、夏場は蝉の声より先に、黒い来客が台所を横切る。
去年までは、俺もごく普通の会社員だった。毎朝満員電車に揺られて、スーツを着て、上司に頭を下げて。……まあ、いろいろあって、辞めた。心をすり減らして、抜け殻みたいになっていた俺に、親が遺したこのアパートの管理人という仕事は、ちょうどよかったのかもしれない。
家賃収入はすずめの涙で、入ってきた分は、たいてい修繕費に消えていく。贅沢とは、縁のない暮らしだ。それでも――不思議と、この日々が、嫌いじゃなかった。誰かに急かされることもなく、ぼろい建物と、少し風変わりな住人たちと、のんびり付き合っていく。そういう時間が、今の俺には、合っていた。
脚立に上って、電球を回し込む。ぱっ、と、廊下に頼りない灯りがともった、そのとき。
「あっ。和馬、また油売ってる」
下から、聞き慣れた、遠慮のない声が飛んできた。
◇
本間咲。この朝日荘の一〇一号室に住む、俺の幼馴染だ。
見下ろすと、寝起きなのか、よれたTシャツにショートパンツというラフな格好で、ゴミ袋を提げて立っていた。髪は適当に結わえただけ。小学校からの腐れ縁で、俺の前では、女っ気なんてものを、とっくの昔にかなぐり捨てている。
「油売ってるんじゃなくて、仕事してるんだよ。電球、切れてたから」
「へいへい。ご苦労さまです、管理人さん」
からかうように笑って、咲はゴミ捨て場のほうへ歩いていく。その背中を、俺はなんとなく、目で追った。
――会社を辞めて、俺が腑抜けていた、あの時期。
親の葬式のあと、何をする気も起きずに、一日中ぼうっと天井を眺めていた俺の部屋に、こいつは、何の遠慮もなく上がり込んできた。「いつまでくさってんの」と、俺の背中を、容赦なく引っぱたいて。飯を作って、無理やり食わせて、「管理人、やってみれば? あんた、人の世話焼くの、昔から得意でしょ」と、半ば押し付けるように、今の俺の居場所を、こしらえてくれた。
口は悪いし、がさつだし、しょっちゅう憎まれ口を叩くけれど。……こいつがいなかったら、今の俺は、たぶん、いなかった。
「そういやあんた、今日は集金でしょ。がんばんなよ、大家さん」
「大家じゃなくて管理人な。……ほんと、口が減らないな、お前は」
「減ったら、私じゃないでしょ」
けらけらと笑う咲に、俺は小さく息をついた。この軽口の応酬が、俺にとっての、朝の、いつもの風景だった。
◇
脚立を片付けて一階に戻ると、入れ違いに、おっとりとした声が近づいてきた。
「佐藤くーん、おはよう。はい、これ。作りすぎちゃったから」
持田麻衣さん。俺が元いた会社の、先輩だ。俺が辞めたあとも、なぜか何かと気にかけてくれて、気づけば、この朝日荘の二〇一号室に越してきて、こうしてちょくちょく差し入れを届けにくる。……わざわざ、俺のいるボロアパートにまで引っ越してくるあたり、世話焼きにも、ほどがあると思う。差し出されたタッパーの中には、つやつやの、綺麗な卵焼き。
「わ、いつもすみません。……って、麻衣さん。それ」
「え?」
「サンダル、左右ちがいます」
「……あっ」
見れば、右と左で、まるで柄のちがうサンダルを履いている。麻衣さんは、みるみる耳まで赤くなって、慌てたはずみに、持っていた紙袋を、ばさりと取り落とした。
仕事はできるし、面倒見もいいのに、こういう抜けたところが、妙に多い人だ。しっかり者の顔をして、どこか危なっかしい。放っておけない、とは、こういう人のことを言うのだろう。
「ちょ、ちょっと、今の、見なかったことにして……っ」
「はい。見てないです。……卵焼き、ありがとうございます。いただきます」
◇
その麻衣さんと入れ替わりに、今度は、玄関のほうから、朝から元気すぎる声が、弾けるように響いた。
「オッパー! あーそーぼっ!」
神崎葵。まだ二十歳の、やたらと華やかな女の子だ。栗色のツインテールを低めの位置で揺らして、俺めがけて、飛びつかんばかりに駆けてくる。
「オッパ」というのは、彼女が日韓ハーフだからで、俺のことを、兄のように慕ってくれているらしい。……らしい、というのは、正直、この子については、わからないことだらけだからだ。
「葵ちゃん、朝っぱらからテンション高いな……。っていうか君、いつのまにか二〇二号室に住みついてるし。学生だろ、実家は心配しないのか」
「えー、いいじゃん。朝日荘、落ち着くんだもん」
けろりと言ってのける。言葉の響きに嘘はなさそうだが、それにしては、この子の身なりは、やけに洗練されている。安物には見えない服。手入れの行き届いた髪。……そして、たまに、人目を避けるみたいに、やけに大きなマスクをしていたりする。
まあ、詮索するのも、野暮か。俺は、小さく苦笑した。
◇
葵をなだめすかして一階の廊下を歩いていると、ちょうど一人の女性が、音もなく、外廊下をこちらへ歩いてきた。
艶やかな黒髪のロングに、一分の隙もないパンツスーツ。すらりと背が高く、立ち姿は、まるでファッション誌から抜け出してきたモデルのようだ。この、お世辞にも立派とは言えない朝日荘には、明らかに不釣り合いな、凛とした大人の女性――沢渡怜子さん。
「……おはようございます」
俺が会釈をすると、怜子さんはこちらを一瞥し、わずかに顎を引いただけで、つん、とそのまま通り過ぎていった。相変わらずの、塩対応。半年経っても、名前以上の会話をした記憶が、ほとんどない。
怜子さんは、どうやら、芸能関係のマネージャーらしい。そして――これは、俺の勝手な推測なのだが。
この朝日荘、どうも、彼女が“そういう目的”で、管理に関わっている節がある。でなければ、説明がつかないのだ。こんなオンボロアパートに、不釣り合いな住人が、あまりにも、多すぎることの。
◇
その、最たる例が。
一〇三号室の扉が、きい、と、遠慮がちに開いた。
出てきたのは、大きな帽子を目深にかぶり、黒いマスクで、顔の大半を覆い隠した女性だった。それでも隠しきれない、透き通るような白い肌。細く、すらりとしたスタイル。ゴミ袋をひとつ出すだけの、何でもない所作が、なぜか、妙に様になっている。
「……あ。おはよう、ございます」
その人は、消え入りそうな小さな声で、ぺこりと会釈をすると、逃げるように、さっと部屋へ戻っていった。扉が、そっと閉まる。
(……いや、どう見ても)
俺は、心の中で、首をかしげた。
(……どこかで、見たことが、あるよな)
テレビで。駅前の、大型ビジョンで。雑誌の表紙で。嫌というほど見かける、あの顔。何万人ものファンに愛される、国民的アイドルグループの、センター。――その人に、あまりにも、似ている気がするのだ。
(……まさか、な)
俺は、頭を振った。
(なんであんな人が、こんなボロアパートに、住んでるんだよ)
考えても詮無いことだと、俺は、そこで思考を打ち切った。住人の素性を、むやみに詮索しない。それが、この訳ありアパートで、管理人をやっていくための、流儀だった。
◇
その日の夜。
管理人室で、古びた帳簿に数字を書き込んでいると、ノックもなしに、がちゃりと扉が開いた。
「お兄ちゃん、ごはん作ったよー。……って、また難しい顔してる」
妹の、唯だ。近所の大学に通うのに合わせて、兄の目が届くこの朝日荘の一室を借り、一人暮らしをしている。放っておくとろくなものを食べない兄を見かねて、こうして、しょっちゅう管理人室まで、夕飯を作りにきてくれる。
「悪いな。いつも」
「ほんとだよ。お兄ちゃん、私がいないと、すぐ干物みたいな生活するんだから」
ぷりぷりと口を尖らせながら、それでも唯は、慣れた手つきで、狭い食卓に湯気の立つ皿を並べていく。味噌汁の、いい匂いがした。
昔から、そうだった。しっかり者で、少し世話焼きで、いつも、兄である俺のことばかり、心配している。立場が、まるで逆だ。
「ほら、冷めないうちに食べて。今日のはね、自信作なんだから」
「……ああ。いただきます」
訳ありの住人ばかりが集まる、ぼろぼろのアパート。家賃は安く、建物は古く、管理人の俺は、相変わらず、ぱっとしない冴えない男だ。
それでも――こうして、気のおけない連中に囲まれて過ごす毎日は、思いのほか、あたたかくて。悪くない、と、心から、そう思えた。
この、なんてことのない、ありふれた日常が。
まさか、次の日の朝、何もかも、根こそぎ奪われてしまうなんて。
――このときの俺は、まだ、知る由もなかった。
◇
その夜更け。
ふと目を覚ました俺が、寝ぼけ眼で窓の外を見上げると。
満天の星空に――ぴき、と。
まるで、硝子が割れるように。
黒い亀裂が、一本、音もなく、走っていた。
続きが気になったら、ブックマークや感想をいただけると励みになります。
次回、過酷なデスゲームが始まります。




