聞くことと証明すること
誰かが、竜骨を王都へ運び込んだ日付を、意図的に一年前へ書き換えている。
その事実が明らかになった後も、部屋の中では誰もすぐに言葉を発しなかった。
卓上に並べられた三つの記録。
グレイヴ領の飛行記録。
ローレン公爵家の認証写本。
王宮の番号交付簿。
それぞれ別の場所で、別の人間が作った記録だ。
けれど、三つを並べることで、一つの矛盾が浮かび上がった。
BK・四七二という番号が生まれたのは、王暦四百十二年。
それにもかかわらず、公爵家の台帳には、その番号の竜骨が王暦四百十一年に入手されたと記されている。
まだ存在していない番号が、一年前の書類に書かれていた。
単なる書き間違いでは説明できない。
「誰が書き換えたのでしょう」
私が呟くと、父がすぐに答えた。
「まだ、その問いを口にする段階ではない」
「ですが、故意であることは――」
「記録が故意に変えられた可能性が高い。それだけだ」
父は王宮から届いた紙を丁寧に折り直した。
「誰が、何の目的で、どの時点で書き換えたかは分からない。聖竜院の原本を見なければ、公爵家が関わったかどうかさえ判断できない」
「はい」
頭では分かっている。
それでも、胸の中ではいくつもの疑いが形を持ち始めていた。
ローレン公爵は、竜骨の記録を開示することへ慎重だった。
聖竜院は、自然死した竜だと主張しながら、発見場所も判定者の名前も明らかにしなかった。
そして、ミラたちが失踪した前後には、王都からの命令によって監視所が閉鎖されている。
すべてが偶然とは思えない。
けれど、思えないというだけでは、誰かを罪に問うことはできない。
「明日の合同調査には、私も参加します」
私が言うと、父の眉間に皺が寄った。
「必要はない」
「私が最初に声を聞いたのです」
「だからこそだ」
父の返事は早かった。
「お前がそこにいれば、調査の結果が何であっても、死者の声へ合わせて解釈したと疑われる」
「ですが、竜骨の記録について確認したいことがあります」
「王宮警備隊へ書面で伝えればよい」
「書面だけでは――」
「リーゼロッテ嬢」
アルフォンス様の声が、私たちの間へ入った。
私は彼を見る。
「伯爵の言うことにも一理ある」
「アルフォンス様まで、私を調査から外すのですか」
思っていたよりも強い声が出た。
アルフォンス様は表情を変えなかった。
「外すとは言っていない」
「では」
「明日、確認されるのは台帳と印章、紙、筆跡だ。君の力が必要な調査ではない」
また、同じことを言われた。
生きている者が調べられることを、先に調べる。
それは私自身も納得したはずだった。
それなのに、何もせずに待つことが落ち着かなかった。
「私が聞いた声が、調査の始まりです」
「ああ」
「ならば、最後まで責任を持つべきではありませんか」
「責任を持つことと、すべての場所へ自分で行くことは違う」
アルフォンス様は静かに答えた。
「君が明日同行すれば、聖竜院は必ず、調査が君の証言に引きずられていると主張する」
「それでも、記録を見れば――」
「記録が正しいかどうかを判断するのは、君一人でなくていい」
言葉が詰まった。
私一人でなくていい。
そんなことは分かっているはずだった。
けれど、死者の声を聞いた後は、いつも私一人だった。
聞いた声を覚えているのも。
それが正しいのか悩むのも。
伝えた相手から嘘つきと呼ばれるのも。
声が薄れていくことへ罪悪感を覚えるのも。
すべて私一人の役目だと思っていた。
「君が聞いた声を軽んじているわけではない」
アルフォンス様が言う。
「むしろ、軽々しく使いたくない」
私は彼の顔を見た。
「使う?」
「夜会の竜骨へ、もう一度触れればよいと考えていた」
父の顔が強張る。
「何を言っている」
「そうすれば、別の記憶が見えるかもしれないと思った」
アルフォンス様は父ではなく、私を見ていた。
「捕らえた者の顔。運んだ荷車。加工された場所。何か一つでも分かれば、記録を追うより早い」
「アルフォンス様」
父の声が低くなる。
しかし、アルフォンス様は続けた。
「だが、今はそう考えていない」
「なぜですか」
「君の力が、使うたびに残された思いを薄くするからだ」
私は何も答えなかった。
第四話で説明したことを、彼は覚えていた。
「一度目は、言葉と映像と感情が比較的鮮明に残る」
アルフォンス様が確認するように言う。
「二度目は、短い言葉と感情。三度目は、感情や温度だけになる」
「はい」
「ならば、次に触れる機会を、俺の焦りで失わせるべきではない」
その言葉に、胸の奥がわずかに揺れた。
これまで、私の力を知った者の多くは、早く触れるよう求めた。
遺品に残った声が消えると説明しても、それなら消える前にすぐ聞けと言った。
聞いた後に私が熱を出しても。
声が出なくなっても。
役に立つ言葉が得られなければ、もう一度触れろと言われたこともある。
「必要な時まで、残しておく」
アルフォンス様は言った。
「先に記録を調べる。生きている証人を探す。輸送路を確認する。それでも分からない時に、君自身が必要だと判断したなら触れればいい」
「私が、判断してよいのですか」
尋ねると、彼の眉がわずかに動いた。
「君の力だろう」
あまりにも当然のような返事だった。
「誰の遺品へ、いつ触れるか。最終的に決めるのは君だ」
「ですが、声を必要としている方がいれば――」
「必要とされれば、断れないのか」
「断る理由がなければ」
「体が壊れることは理由にならない?」
すぐには答えられなかった。
アルフォンス様は、包帯が外れた私の左手を見る。
黒い手袋に覆われているため、今も指先が冷えていることは分からないはずだ。
それでも、見抜かれた気がした。
「もう、ほとんど戻っています」
「質問には答えていない」
「私にしか聞こえませんから」
「だから、君が何度でも傷ついてよいことにはならない」
言葉は強かった。
けれど、声は静かだった。
私は視線を卓上へ落とす。
「死者は、もう自分の声で訴えられません」
「ああ」
「私が聞かなければ、誰にも届かないまま消えてしまいます」
「ああ」
「ならば、聞くべきです」
「必ず?」
「できる限りは」
「誰の頼みでも?」
私は返事を止めた。
誰の頼みでも。
そこまで考えたことはなかった。
助けを求められれば、聞く。
声があると分かれば、拾う。
それが自分の役目だと思っていた。
「死者の願いが、生きている者を傷つけるものでも?」
アルフォンス様が尋ねる。
「それは……」
「亡くなった父親が、息子へ復讐を求めたら?」
「死者の願いを、そのまま実行するわけではありません」
「ならば、声を聞くことと、従うことは違う」
「はい」
「声を聞くことと、証明することも違う」
その言葉に、私は顔を上げた。
「君は、そう言っていた」
アルフォンス様は卓上の記録へ視線を移す。
「死者の声は真実ではなく、証言だと」
「はい」
「ならば、死者の証言を大切にすることと、君が一人ですべてを背負うことも違うはずだ」
すぐに反論できなかった。
父も黙っている。
窓の外では、昨日から続いていた雨が屋根を細かく叩いていた。
「私は」
ようやく声を出す。
「死者の声が正しいと、信じているわけではありません」
「分かっている」
「死者は嘘をつきません」
言葉を選びながら続ける。
「少なくとも、私に届く思いの中で、自分をよく見せるために話を作ることはありません。けれど、誤解はします。恐怖の中で見たものを、別のものだと思い込むこともあります」
「ミラが、白い祭服を見て聖竜院だと思い込んだ可能性もある」
「はい」
「幼竜が連れ去られたのではなく、助けられていた可能性も」
「あります」
口にすると、胸が痛んだ。
記憶の中で、ルゥは暴れていた。
母を求めていた。
あれを救助だとは思えない。
けれど、ミラの立場から見れば、人間が何をしようとしていたかは分からない。
「私が、記憶を正しく受け取れなかった可能性もあります」
「それも含めて、記録と照らし合わせる必要がある」
「はい」
「では、聞いた声に合う証拠だけを探すのは間違いだな」
アルフォンス様の言葉に、私は黙った。
その通りだった。
記録の改ざんが見つかったことで、私は心のどこかで、ミラが聖竜院に殺されたと決め始めていた。
白い祭服。
拘束具。
書き換えられた日付。
都合のよいものだけをつなげれば、一つの物語ができる。
けれど、それは真実ではないかもしれない。
「ミラの骨ではないと証明された場合は」
アルフォンス様が言う。
「俺は、その結果を受け入れなければならない」
右手がわずかに震える。
「ノクスやルゥと似た竜を見た、別の黒竜だった可能性もある」
「はい」
「ミラが自然死したと分かる可能性もある」
「あります」
「ノクスが、俺の判断とは無関係な場所で死んだ可能性も」
「あります」
「反対に、俺の判断が原因だったと分かる可能性もある」
私はその問いに、すぐ答えなかった。
「あります」
やがて、はっきり答える。
アルフォンス様は目を閉じた。
父が不安そうに私を見る。
けれど、アルフォンス様は怒らなかった。
「それでいい」
彼は目を開いた。
「俺の望む答えを選ばないでくれ」
その声には、わずかな苦しさがあった。
「ノクスが俺を恨んでいなかったという声が聞こえても、都合よく解釈しないでほしい。恨んでいたと聞こえても、遠慮して隠さないでほしい」
「死者の声から、質問への答えを得ることはできません」
「ああ」
「ノクスに、あなたを恨んでいるか尋ねることもできません」
「分かっている」
「聞こえるのは、ノクスが最期に強く思っていたことだけです。その中にあなたのことが含まれない可能性もあります」
「ああ」
アルフォンス様は、すべてを受け入れるようにうなずいた。
「それでも構わない」
その一言に、私は初めて、この人は本当に答えを選ぼうとしていないのだと思った。
自分を許す言葉だけを求めているわけではない。
ノクスに愛されていた証明が欲しいわけでもない。
恐れていても、知らなければならないと考えている。
「では、私からも一つお願いがあります」
「何だ」
「私が触れないと決めた時は、従ってください」
「ああ」
「調査が不足していると判断した場合もです」
「ああ」
「触れた後に、すぐ別の遺品へ触れるよう求めないでください」
「約束する」
「もし、あなたの望まない声が聞こえたとしても」
そこで一度、息を吸う。
「私を責めないでください」
口にしてから、自分がその言葉を恐れていたことに気づいた。
聞いた声を伝えた時、怒りを向けられることは珍しくなかった。
そんなはずはない。
聞き間違えたのだ。
もう一度聞け。
死者がそんなことを思うはずがない。
真実を受け取ったはずの私が、望む答えを出さなかったという理由で責められる。
そのたびに、次はもっと正しく聞かなければと思った。
私が悪かったのだと。
アルフォンス様は、すぐには答えなかった。
安易に約束しないための沈黙に見えた。
「怒ることはあるかもしれない」
やがて彼は言った。
予想外の答えだった。
「聞きたくなかったと思うことも、受け入れられないと思うこともある」
「はい」
「だが、それを君の責任にはしない」
銀色の目が、まっすぐ私を見る。
「俺が知りたいと望んだ結果は、俺が受け取る」
胸の奥が、かすかに熱くなった。
「約束していただけますか」
「約束する」
短い言葉だった。
けれど、今まで受け取ったどんな美しい言葉よりも信じられる気がした。
「私も約束します」
私は言った。
「聞こえたものを、都合よく変えません」
「分からなかった時も?」
「分からなかったと、お伝えします」
「何も聞こえなかった時も?」
「何も聞こえなかったと」
「俺が、それでは納得できないと言っても?」
「触れ直すかどうかは、私が決めます」
アルフォンス様が、ほんのわずかに目を細めた。
笑ったのかもしれない。
けれど、すぐにいつもの表情へ戻ってしまった。
「それでいい」
父が長い息を吐いた。
「私の前で、随分と危険な約束を結ぶものだな」
「お父様」
「止めても聞かないのだろう」
父は疲れたように額へ手を当てた。
「少なくとも、今後遺品へ触れる場合は、事前に治療師を用意しなさい」
「それは――」
「譲るつもりはない」
きっぱりと言われ、私は口を閉じた。
「分かりました」
「本当に分かっているのか」
「努力します」
「それは分かっていない者の返事だ」
父の声には呆れが混じっていた。
けれど、第六話で私を王宮から連れ帰った時とは違う。
能力を使うなとは言わなかった。
条件を整えようとしている。
ほんの少しずつでも、父も変わろうとしているのかもしれない。
◇
その日の夕刻、王宮警備隊から二通目の知らせが届いた。
聖竜院北部管理局は、合同調査への協力を承諾した。
ただし、台帳の原本は北部管理局ではなく、六年前に中央祭務局へ移されたという。
現在、王都の大聖堂内にある記録庫を確認している。
一方、ローレン公爵家は原本の提出へ応じた。
けれど、問題となる頁には、切り取られた跡が見つかった。
BK・四七二の原記録だけが失われ、その場所へ現在の頁が後から綴じ直されているという。
「証拠を隠したのでしょうか」
報告書を読み終え、私は呟いた。
「その可能性はある」
アルフォンス様が答える。
「だが、いつ切り取られたのかは分からない」
「公爵家が保管している間とは限らない」
父が続ける。
「聖竜院から渡された時点で差し替えられていた可能性もある」
また、答えには届かない。
一つの矛盾を見つけるたび、その先に新しい不明点が現れる。
「明日、紙と綴じ糸の年代を鑑定するそうです」
私は報告書の最後を読む。
「筆跡についても、当時の記録官と照合する、と」
「時間がかかるな」
アルフォンス様が言う。
声には焦りがなかった。
少なくとも、表面上は。
「待てますか」
思わず尋ねると、彼は私を見る。
「六年待った」
「そうでした」
「だが」
アルフォンス様の右手が、膝の上でわずかに震えた。
「待つことと、止まっていることは違うのだろうな」
第四話で彼自身が言った言葉を思い出す。
期待していたのではない。
止まっていただけだと。
「今は進んでいます」
私は言った。
「少なくとも、昨日まで知らなかった記録の矛盾が見つかりました」
「ああ」
「明日には、紙の年代が分かるかもしれません」
「ああ」
「すべてが無駄だったと分かる可能性もありますが」
「それも、進んだ結果だ」
アルフォンス様は答えた。
私たちの間に、短い沈黙が落ちる。
不思議と、居心地の悪い沈黙ではなかった。
言葉がないからといって、何かを埋める必要はない。
この人の沈黙は、セドリック様のものとは違う。
セドリック様は、見たくないものから目を逸らす時に黙った。
父は、恐れを言葉にできない時に黙る。
アルフォンス様は、まだ自分の中で形になっていないものを、無理に言葉へ変えない。
同じ沈黙でも、中にあるものは違う。
「リーゼロッテ嬢」
しばらくして、アルフォンス様が私を呼んだ。
「はい」
「一つ、頼みがある」
彼の声は、いつもより低かった。
私は姿勢を正す。
「夜会の竜骨へ、もう一度触れることではない」
「では、何でしょう」
アルフォンス様はすぐに答えなかった。
右手を左手で押さえる。
震えを止めようとしているのではない。
そこにあることを確かめているように見えた。
「グレイヴ領に、ノクスの遺骸がある」
部屋の空気が変わった。
「見つかっていたのですか」
「ああ」
「いつ?」
「失踪から三か月後だ」
初めて聞く話だった。
「では、なぜ今まで――」
「見つかったのは、遺骸だけだ」
アルフォンス様は私の問いを遮った。
「何が起きたのかは分からなかった。ミラも、ルゥもいなかった」
「ノクスの遺品には、まだ思いが残っている可能性があります」
「ああ」
「ですが、六年も経っています」
「それでも、眠っていない」
アルフォンス様の声が、わずかに揺れた。
「何度、墓へ納めても、竜脈が拒む。骨の周囲だけ雪が解けず、夜になると契約の痛みが戻る」
竜の葬送に失敗すると、魂が土地へ還らず、遺骨に思いが残り続けることがある。
母から、そう教わったことがある。
けれど、私は正式な竜葬を行ったことがない。
母が亡くなった時、私はまだ幼かった。
手順を記した書物も、父によってしまわれたままだ。
「私に、何をお求めですか」
答えは分かっていた。
それでも、彼自身の言葉で聞かなければならないと思った。
アルフォンス様は私を見た。
辺境伯としてでも。
元竜騎士団長としてでもない。
相棒を失った、一人の人間の目だった。
「グレイヴへ来てほしい」
右手の震えを隠さないまま、彼は言った。
「そして」
一度、息を吸う。
「俺の竜を、弔ってくれ」




