書き換えられた記録
翌日の昼前、アルフォンス様がアルヴァ伯爵邸を訪れた。
先触れには、王宮から許可を得た資料を持参するとだけ書かれていた。
応接室へ現れた彼は、挨拶もそこそこに、革で包まれた二冊の帳面を卓上へ置いた。
「グレイヴ領の記録ですか」
「ああ」
一冊は、黒い革表紙の分厚い台帳。
もう一冊は、何枚もの紙を紐でまとめた薄い記録だった。
「こちらは北部監視所の飛行記録。竜が谷を出入りした日時を記録したものだ」
アルフォンス様が黒い台帳を指す。
「もう一つは、当時の巡回報告書だ。原本は領地に残してある。これは王都へ提出するために作らせた謄本になる」
父も同席していた。
昨日、あの記録の写しを自分も確認すると言ったからだ。
「持ち出して問題はないのですか」
私が尋ねると、アルフォンス様はうなずいた。
「竜の巣の正確な位置と、現在使用している監視路は伏せてある。それ以外は王宮警備隊への提出許可を得た」
アルフォンス様は椅子へ座らず、帳面を開いた。
右手が、わずかに震えている。
けれど、紙をめくる動作は迷わなかった。
「ミラとルゥが谷から姿を消したのは、王暦四百十二年、冬至の十二日前だ」
開かれた頁には、いくつもの線と数字が並んでいた。
竜の種類。
飛行した方角。
確認された時刻。
天候。
監視兵の署名。
その中に、黒い印が三つある。
「この印は何ですか」
「黒竜を示している」
アルフォンス様が一つ目を指す。
「成竜の雄。ノクスだ」
二つ目。
「成竜の雌。ミラ」
三つ目。
「幼竜。ルゥ」
三つの印は、何日にもわたって同じ頁に記録されていた。
朝、二頭が谷から飛び立つ。
昼過ぎ、三頭で戻る。
別の日には、幼竜だけが巣の周囲を短く飛んでいる。
名前ではなく印と数字だけ。
それでも、そこには三頭がともに暮らしていた日々が残っていた。
やがて、冬至の十二日前。
ミラとルゥの帰還を示す印だけが、記録から消えている。
「最後に二頭が確認されたのは、日の出から二刻後」
アルフォンス様が説明する。
「ミラがルゥを連れ、北西へ飛んだ。普段使っていた餌場とは違う方角だった」
「ノクスは一緒ではなかったのですか」
「その朝、ノクスは俺といた」
短い返事だった。
アルフォンス様の指が、頁の端で止まる。
「南の砦から、魔獣の群れが現れたと報告があった。俺とノクスは夜明け前に城を出た」
「では、ミラとルゥは二頭だけで谷を出たのですね」
「ああ」
「なぜ、普段とは違う方向へ?」
「分からない」
アルフォンス様は首を横に振った。
「ただ、その日の前後に、王都方面から来た荷車が目撃されている」
薄い方の報告書を開く。
そこには、監視兵だけでなく、山間の村人や猟師から聞き取った内容も記されていた。
――屋根を白い布で覆った荷車、四台。
――馬ではなく、魔石式の牽引具を使用。
――側面に紋章らしきものがあったが、雪で確認できず。
――北西の旧街道へ入った。
「聖竜院のものだったのですか」
「当時も調べた。聖竜院は否定した」
「ローレン公爵家は?」
「王都の商会が薬草を運んでいたのだろうと回答した」
父が報告書を手元へ引き寄せた。
「荷車の積み荷は確認できなかったのか」
「旧街道へ入ってから、吹雪になった」
アルフォンス様が答える。
「足跡も車輪の跡も消えた」
「その後、荷車が王都へ戻った記録は?」
「ない」
ない。
その一言が、重く落ちた。
荷車が別の街道を通った可能性もある。
山中で引き返した可能性もある。
目撃された荷車が、竜の失踪と無関係だった可能性もある。
けれど、同じ日に。
普段とは違う方角へ飛んだミラとルゥが、帰らなかった。
「ノクスが異変に気づいたのは、いつですか」
尋ねると、アルフォンス様の右手が大きく震えた。
彼はその手を握りしめたが、震えは止まらなかった。
「夕刻だ」
声は低く、平らだった。
「砦から戻る途中、急にノクスが方向を変えた」
「ミラの危険を感じ取ったのですか」
「伴侶同士が、竜騎士契約のように明確な感情を共有するわけではない」
アルフォンス様は一度、息を止めた。
「だが、ノクスは分かっていた」
何があったのか。
どこへ行けばよいのか。
人間には聞こえない何かを、ノクスは感じ取ったのだろう。
「ノクスは北西へ飛ぼうとした。俺も追跡の準備をした」
「一緒に行かなかったのですか」
口にした直後、アルフォンス様の表情が固まった。
責めるつもりはなかった。
けれど、問いは責める言葉と同じ形をしていた。
「申し訳ありません」
「いや」
アルフォンス様は首を横に振る。
「当然の質問だ」
彼は震える右手を、卓上へ置いた。
隠そうとはしなかった。
「ノクスを先に行かせた」
その声だけが、わずかに掠れていた。
「俺は部隊を整え、後から追うつもりだった。吹雪の山へ一人で入るより、その方が確実だと思った」
間違った判断ではない。
領主であり、竜騎士団長だった彼が、部下を連れずに雪山へ入れば、別の被害が出ていたかもしれない。
「ですが、追いつけなかった」
私が言うと、アルフォンス様はうなずいた。
「追いつけなかった」
同じ言葉を繰り返す。
そこに言い訳を加えることはなかった。
「夜半、ノクスとの契約を通じて、痛みが流れ込んできた」
右手の震えがさらに強くなる。
「胸を貫かれたような痛みだった。次に、炎と鉄の臭い。それから、小さな竜の鳴き声がした」
「ルゥですか」
「分からない」
アルフォンス様は即座に否定した。
「そう思っただけだ。俺が聞いたのは声ではなく、ノクスが感じたものだ。ルゥだったという証拠はない」
彼も、自分の感覚を事実として扱ってはいなかった。
私が死者の声を証言と呼ぶように、アルフォンス様も契約を通して受け取ったものを、答えとは考えていない。
「その後、契約が途切れた」
静かな声だった。
「ノクスは戻らなかった。ミラも、ルゥも」
私は、何と返せばよいのか分からなかった。
あなたの責任ではない。
そう言うのは簡単だ。
けれど、私は六年前のその場にいなかった。
アルフォンス様が何を選び、何を失ったのか、すべてを知っているわけではない。
死者の声が真実そのものではないように、生きている私の慰めも、正しいとは限らない。
「それから、ずっと探していたのですか」
「ああ」
アルフォンス様は黒い台帳の後ろ半分を開いた。
同じような報告書が、何十枚も綴じられていた。
雪解け後の捜索。
近隣領への照会。
目撃情報の聞き取り。
密猟者の摘発記録。
黒い鱗が見つかったという報告。
そのすべてに確認済みの印がある。
「六年間、一度も?」
「見つからなかった」
「それでも、捜索をやめなかったのですね」
「やめれば、見捨てたことになると思っていた」
その言葉は、誰かへ説明するものではなかった。
自分の中で、何度も繰り返してきた言葉なのだろう。
「アルフォンス様」
私は黒い台帳を見た。
「これだけの記録を残した方を、何もせずに見捨てたとは思いません」
彼が顔を上げる。
「ただ、私はあの日のことをすべて知りません。ですから、あなたに責任がないとも申し上げられません」
父がわずかに眉を動かした。
慰めとしては、冷たい言葉だったかもしれない。
「それでも、記録を調べることはできます」
私は続けた。
「何が起きたのかを確かめることと、自分を責め続けることは、同じではありません」
アルフォンス様は、しばらく私を見ていた。
「厳しいな」
「申し訳ありません」
「いや」
彼は小さく首を横に振った。
「その方がいい」
ほんのわずかに、張り詰めていた空気が緩んだ。
父が咳払いをする。
「公爵家の台帳と照合しよう」
昨日、王宮で見た台帳の写しは、正式な手続きを経て父のもとへ届けられていた。
持ち出しは禁止されていたため、王宮法務官が作成した認証写本だ。
父がそれを開き、アルフォンス様の飛行記録の横へ並べる。
「公爵家の記録では、竜骨の入手日は王暦四百十一年」
「ミラの失踪は四百十二年」
私が日付を確認する。
一年と少しの差。
それだけならば、別の竜だったと考えることもできる。
「番号の前後を見せてください」
アルフォンス様が言った。
「前後?」
「BK・四七二だけではなく、四七一と四七三だ」
父が頁をめくる。
すぐ前の記録。
BK・四七一。
黒竜の大腿骨。
入手日は王暦四百十二年、春。
次の記録。
BK・四七三。
黒竜の翼骨。
入手日は王暦四百十二年、冬至の三日後。
私は三つの日付を見比べた。
「おかしいです」
番号は、資料が受理された順に付けられる。
四七一が四百十二年の春。
四七三が同じ年の冬。
その間にある四七二だけが、一年前の四百十一年になっている。
「過去に入手した遺骨を、後から登録した可能性は」
私が尋ねると、父が記録の別の欄を指した。
「登録日ではなく、入手日と受理日が同じになっている」
確かに、両方の欄へ王暦四百十一年と記されている。
古い遺骨を後から登録したのなら、入手日と受理日は別になるはずだ。
「書き間違いではありませんか」
「それなら訂正印が必要だ」
父の声が硬くなる。
「公的な取引台帳の日付を直す場合、記録官と監督官、両方の訂正印を押す。だが、ここにはない」
アルフォンス様が写本を持ち上げ、窓から入る光へ向けた。
「この写しでは分からないな」
「原本を確認する必要があります」
私が言う。
しかし、原本はローレン公爵家の保管庫にある。
昨日見たのも、公爵家の記録官が作成した写しだった。
「原本を見せることは拒まれるでしょうか」
「今の段階ではな」
父が答えた。
「だが、番号の並びに矛盾がある。王宮警備隊から正式に照会すれば、拒否する理由は弱くなる」
死者の声ではない。
アルフォンス様の記憶だけでもない。
数字の並びそのものが、記録の不自然さを示している。
私はもう一度、三つの番号を見た。
四七一。
四七二。
四七三。
「公爵家で書き換えられたのでしょうか」
口にすると、父がすぐに首を横に振った。
「まだ決めつけるな」
「はい」
「聖竜院が作成した記録を、公爵家がそのまま転記した可能性もある。王宮側で写しを作る際に誤った可能性もある」
公爵家。
聖竜院。
王宮の記録官。
どこで書き換えられたのかは分からない。
そもそも、故意に書き換えられたとも、まだ断定できない。
けれど、間違いが存在することだけは確かだった。
「番号を付けたのは、どの部署でしょう」
アルフォンス様が尋ねる。
父が台帳の上部を確認する。
「聖竜院北部管理局とある」
「北部管理局の受理台帳を確認すれば、元の日付が分かるかもしれない」
「提出に応じれば、ですが」
私が言う。
「応じなければ、拒否した記録が残る」
アルフォンス様は第四話と同じことを言った。
答えを急いで奪うのではなく、相手の反応も含めて記録する。
「王宮警備隊へ照会を依頼します」
私は言った。
「私からも辺境伯として要求を出す」
アルフォンス様がうなずく。
「竜の生息を管理していた領主として、個体確認の権利がある」
父はしばらく黙って二冊の記録を見ていた。
やがて、認証写本を閉じる。
「アルヴァ家からも、事故の当事者として原本確認を求めよう」
私は父を見た。
「よろしいのですか」
「よいとは言っていない」
父は私と目を合わせなかった。
「このままお前一人で進めれば、止めても無駄だと分かっただけだ」
「それでも、ありがとうございます」
「礼を言う段階ではない」
父は厳しい声で答えた。
けれど、資料を返そうとはしなかった。
◇
王宮警備隊へ提出する照会書を作成している間、私はアルフォンス様とともに巡回報告書を確認した。
ミラとルゥが消えた前後だけ、北西の旧街道に関する記録が少ない。
吹雪のため、監視兵が配置から外されたと記されている。
「天候が悪かったのなら、不自然ではありませんね」
「ああ」
アルフォンス様は答えた。
けれど、次の頁で手を止める。
「この署名」
「何かご存じなのですか」
「当時の北西監視所長のものだ」
署名の横には、短い追記があった。
――王都より命令あり。北西街道の監視を三日間停止。
「監視を停止?」
「吹雪のための避難ではない」
アルフォンス様の声が低くなる。
「王都からの命令で、監視所そのものを閉じている」
「命令書は残っていますか」
アルフォンス様は報告書の巻末を確認する。
添付書類の一覧。
そこには、確かに命令書の番号が記されていた。
けれど。
「ない」
アルフォンス様が呟いた。
「何がですか」
「命令書が保管庫にない。少なくとも、俺が王都へ来る前に確認した時には見つからなかった」
紛失したのかもしれない。
管理上の不備かもしれない。
六年前の書類だ。
それだけで、陰謀と決めつけることはできない。
けれど、監視が止まった三日間。
ミラとルゥは姿を消した。
白い荷車が旧街道へ入り。
その後、王都には黒竜の骨が運ばれた。
そして、竜骨の入手日は、一年以上前へずらされている。
「アルフォンス様」
呼びかけると、彼は命令書の番号を見つめたまま答えた。
「分かっている」
「まだ、すべてがつながったとは限りません」
「ああ」
「命令書が見つからない理由も、記録の日付が違う理由も、別々に存在するかもしれません」
「ああ」
返事は同じだった。
それでも、右手の震えは収まらない。
「六年前、あなたはこの命令について知っていたのですか」
私が尋ねると、アルフォンス様は顔を上げた。
銀色の目に、今までとは違う硬さが浮かぶ。
「知っていた」
短い返事だった。
「俺たちがノクスを追うことができなかった理由の一つだ」
「では、誰が命令を出したのですか」
長い沈黙が落ちた。
アルフォンス様はすぐには答えなかった。
「記録上は、王都だ」
「記録上は?」
「印章は本物だった」
彼の右手が、紙の端を強く押さえる。
「だが、誰が命令を作ったのかは分からない」
私は命令書の番号を紙へ書き写した。
この番号も調べなければならない。
竜骨の番号。
監視停止命令の番号。
二つの記録が、六年前の同じ日に近づいていく。
その日の中心にいたのは。
ミラ。
ルゥ。
そしてノクス。
「リーゼロッテ嬢」
アルフォンス様が私を呼んだ。
「俺は、ミラたちを守れなかった」
慰めを求める声ではなかった。
判決を待つ声でもない。
ただ、自分が六年間抱えてきた事実を、初めて誰かの前へ置いたような声だった。
私はすぐには答えなかった。
「私には、あなたが守れたはずだと断定することも、守れなかったのは仕方がないと断定することもできません」
「ああ」
「ですが」
私は二冊の記録へ手を置いた。
手袋は外さない。
これは死者の遺品ではなく、生きている者が残した記録だ。
「あなたが六年間、一人で結論を出す必要はありません」
アルフォンス様の目が、わずかに揺れた。
「何が起きたのかを、先に確かめましょう」
しばらくして、彼は小さくうなずいた。
「ああ」
その一言は、これまでより少しだけ弱かった。
けれど、弱いまま口にされた返事を、私は初めて聞いた気がした。
夕方、王宮警備隊から返答が届いた。
公爵家の原本と、聖竜院北部管理局の台帳を確認するため、翌朝から合同調査を行うという。
さらに、王宮の番号交付簿を先に調べた結果が添えられていた。
BK・四七二。
その番号が交付された日付は。
王暦四百十二年、冬至の八日前。
ミラとルゥが谷から消えた、四日後だった。
公爵家の台帳に記された王暦四百十一年には、まだ存在していない番号。
私は紙を持つ手へ力を込めた。
これで明らかになった。
記録は、ただ間違っていたのではない。
誰かが。
竜骨を王都へ運び込んだ日付を、意図的に一年前へ書き換えている。




