婚約解消の条件
翌朝、目を覚ました時には、窓の外で細い雨が降っていた。
左手の冷えは、ほとんど引いている。
けれど、朝食に出された果実の味は、まだ分からなかった。
赤い実を一つ口へ運ぶ。
柔らかい。
冷たい。
それだけだった。
「お口に合いませんでしたか」
給仕をしていた侍女のアンナが、不安そうに尋ねた。
「いいえ。おいしくいただいています」
反射的にそう答えてから、私は手を止めた。
おいしいかどうかは分からない。
また、相手を心配させないためだけの言葉を口にしてしまった。
「少し、味が分からないだけです」
言い直すと、アンナが目を丸くした。
「昨日のお怪我のせいですか」
「能力を使った後には、時々こうなるのです。数日で戻ります」
「では、無理に召し上がらなくても――」
「食べられないわけではありません」
私は果実をもう一つ取った。
味が分からなくても、体には必要だ。
その程度のことまで誰かへ任せる必要はない。
そう思った時、食堂の扉が開いた。
「お嬢様」
執事が銀の盆を持って立っている。
「ローレン公爵家より、正式な書状が届いております」
果実を持つ指が止まった。
盆の上には、紺色の封蝋が施された厚い封書がある。
ローレン公爵家の双頭の鷲。
十一年間、何度も目にしてきた紋章だった。
「お父様は」
「すでに書斎でお待ちです」
「分かりました」
私は果実を皿へ戻し、席を立った。
アンナが心配そうに私を見る。
「朝食を片づけてもよろしいでしょうか」
本当は、ほとんど食べていない。
けれど、今は喉を通りそうになかった。
「お願いします」
そう答え、食堂を後にした。
◇
父の書斎へ入ると、昨夜まで机の上に積まれていた領地の報告書が片づけられていた。
代わりに、ローレン公爵家から届いた書状が広げられている。
父は机の向こうに座り、同じ一行を何度も読み返しているようだった。
「失礼いたします」
「ああ」
父は顔を上げた。
「座りなさい」
言われた通り、机の前の椅子へ腰を下ろす。
父の目の下には、うっすらと影があった。
昨夜、眠れなかったのだろう。
私も同じだったが、そのことを互いに口にすることはなかった。
「ローレン公爵家から、婚約解消に関する条件が届いた」
「はい」
「内容は、アルヴァ家にとって悪いものではない」
父が書状をこちらへ向ける。
整った文字が、何枚もの紙へ並んでいた。
婚約時にアルヴァ家から納めた支度金は、全額返還。
これまで公爵家へ贈った宝飾品や調度品についても、確認できるものは返却。
さらに、婚約解消によって私の名誉が損なわれたことへの補償として、金貨と王都近郊の屋敷を譲渡する。
公爵家は、婚約解消の理由について公には「双方の将来を考慮した合意」と発表する。
リーゼロッテ・アルヴァに重大な非があったとは認めない。
「随分と手厚いのですね」
「公爵家にとっても、これ以上騒ぎを大きくしたくないのだろう」
父は書状の最後を指した。
そこには、小さな文字で付帯条件が書かれていた。
婚約解消について、両家は今後互いを公の場で非難しない。
夜会での発言および竜骨細工の事故を、婚約解消と関連づけて語らない。
聖竜院の聖具に関する未確認の情報を、社交界や報道機関へ流さない。
「口止めですね」
「そう言い切るものではない」
父が低い声で答える。
「互いの名誉を守るための取り決めだ」
「私が黙れば、ローレン公爵家の名誉も守られます」
「アルヴァ家の名誉もだ」
「私は自分の名誉を守るために、聞いた声をなかったことにするつもりはありません」
父の表情が曇る。
「お前にそうしろと言っているのではない」
「では、この条件を受け入れないのですか」
「内容を変えられないか、交渉する」
父は書状を閉じた。
「婚約解消と竜骨の件は分けるべきだ。お前が王宮へ証言したことまで撤回する必要はない。ただし、調査中の内容を外へ話さないこと自体は、通常の守秘義務でもある」
父は感情ではなく、条件の一つ一つを分けて考えようとしている。
昨日は私を連れ帰ろうとするだけだった。
それでも、私の言葉をすべて消そうとしているわけではないらしい。
「お父様は、この補償を受け取るおつもりですか」
「正当なものならば」
「私は必要ありません」
「お前が必要とするかどうかだけの話ではない」
父の声が少し硬くなる。
「婚約には、両家の金と時間が使われている。公爵家の都合で解消された以上、返還を求めるのは当然だ」
「ですが、屋敷や金貨までいただけば、私が黙るために支払われたように見えます」
「だから条件を交渉すると言っている」
「交渉の場へ、私も同席させてください」
父はすぐには答えなかった。
「これは当主同士の話し合いだ」
「婚約を解消されたのは私です」
「分かっている」
「昨日、私は自分のことを自分で決めると申し上げました」
父の指が机の上で止まった。
昨日の馬車の中で、父は味方だとは言わなかった。
けれど、私も父に従うと約束したわけではない。
「ローレン公爵へ、私から求めたいものがあります」
「金ではないのだろうな」
「はい」
父は長く息を吐いた。
「何を求めるつもりだ」
「昨夜の竜骨細工に関する入手記録です」
父の顔から表情が消えた。
「リーゼロッテ」
「あの竜骨は、ローレン公爵家が聖竜院から王宮へ貸し出す手続きを仲介したと聞きました」
昨夜の祝宴は、ローレン公爵家が主催者の一つとして名を連ねていた。
会場の装飾品も、公爵家の役人が選定したと王宮の記録官から聞いている。
「公爵家には、聖竜院から受け取った際の書類が残っているはずです」
「聖竜院がすでに抄本を提出したのだろう」
「発見場所も、自然死と判断した根拠も書かれていませんでした」
「だから、公爵家の書類を要求するというのか」
「はい」
父は額へ手を当てた。
「婚約解消の補償として、そのような資料を求めれば、公爵家との関係は完全に壊れる」
「婚約はすでに解消されました」
「両家の関係は婚約だけではない」
アルヴァ伯爵家が扱う穀物や薬草の一部は、ローレン公爵家の商会を通して王都へ流通している。
公爵家と対立すれば、領民の生活にも影響が出る。
私一人の気持ちで、簡単に切り捨ててよい関係ではない。
「すべてを公にするよう求めるつもりはありません」
私は言った。
「まず、私と王宮警備隊が確認できればよいのです。記録に問題がなければ、それで終わります」
「問題があれば?」
「調べます」
「その先で、ローレン家が関係していたとしてもか」
父の問いに、私は一瞬答えられなかった。
十一年間、私はローレン家の一員になるつもりで生きてきた。
公爵夫妻へ贈り物を選び、領地の催しへ参加し、使用人たちの名も覚えた。
あの家のすべてが、私を傷つけたわけではない。
セドリック様でさえ、十一年間ずっと残酷だったわけではない。
「関係していると決まったわけではありません」
「仮の話だ」
父は逃がしてくれなかった。
「ローレン家が、あの竜の死に関わっていたと分かっても、お前は調べるのか」
私は黒い手袋へ視線を落とした。
手袋の下には、まだわずかな冷えが残っている。
――寒い。
――帰りたい。
――私の子を返して。
「はい」
口にすると、父は目を閉じた。
「そうか」
それだけだった。
失望したのかもしれない。
恐れているのかもしれない。
それでも私は、自分の返事を変えなかった。
◇
話し合いは、その日の午後に行われることになった。
場所はローレン公爵邸ではなく、両家のどちらにも属さない王宮の小会議室。
父がそう求めた。
私が想像していた以上に、父も公爵家を警戒しているらしい。
会議室には、私と父。
ローレン公爵とセドリック様。
そして、契約内容を記録する王宮の法務官が同席した。
ローレン公爵は五十代半ばの男性で、セドリック様とよく似た金色の髪を持っている。
ただし、その目は息子よりも鋭い。
「まず、このたびの件については遺憾に思っている」
公爵は形式的な挨拶を終えると、落ち着いた声で言った。
「息子の判断にも理解できる部分はある。しかし、大勢の前で告げる必要はなかった」
隣に座るセドリック様の肩がわずかに動く。
「リーゼロッテ嬢の名誉を損なったことについて、ローレン家当主として謝罪しよう」
頭を下げることはなかった。
けれど、息子の行為を完全に正当化もしなかった。
「お言葉を受け取ります」
私は答えた。
「慰謝料と返還品については、書状の内容で不足はないと考えている」
「屋敷の譲渡は辞退いたします」
「なぜだ」
「必要がないためです」
「必要は、これから生じる」
公爵は私をまっすぐ見た。
「婚約を解消された令嬢が、以前と同じように社交界で扱われるとは限らない。新しい縁談にも影響する。王都に個人名義の屋敷と収入があれば、今後の生活に困ることはない」
実際的な言葉だった。
恩を売るような調子でもない。
公爵は本当に、金銭で解決できる問題だと考えているのだろう。
「お気遣いはありがたく存じます。ですが、代わりにお願いしたいものがあります」
「聞こう」
「昨夜の祝宴で使用された竜骨細工について、公爵家が保管する入手記録を開示してください」
セドリック様が息を呑んだ。
公爵だけは、表情を変えなかった。
「婚約解消の条件とは無関係な資料だ」
「ローレン公爵家が用意した聖具によって、私は危険にさらされました」
「落下事故の原因については、王宮警備隊が調査している」
「事故の原因だけではありません」
「死者の声か」
公爵の口からその言葉が出た瞬間、セドリック様がこちらを見た。
父は膝の上で手を固く握っている。
「息子から聞いた」
公爵は続けた。
「君が竜骨から、子どもを返せという声を聞いたそうだな」
「はい」
「それを理由に、聖竜院が竜を殺したと疑っている」
「断定はしておりません」
「だが、疑ってはいる」
「確認したいと考えています」
公爵は椅子の背へ体を預けた。
「リーゼロッテ嬢。世の中には、確かめない方がよいこともある」
「私のために、でしょうか」
「国のためだ」
思っていなかった答えだった。
「竜骨は、王都の灯り、暖房、治療、結界に用いられている。自然死した竜の遺骨を回収し、人々のために役立てているという信頼によって、制度は成り立っている」
「その説明が事実であれば、記録を見せても問題はないはずです」
「一つの記録を開示すれば、すべてを開示しろという者が現れる」
「開示できない事情があるのですか」
「ある」
公爵はあっさり認めた。
「竜の生息地を公にすれば、密猟者が集まる。輸送路を公にすれば、竜骨魔石を狙う盗賊が増える。加工技術には軍事機密も含まれる」
どれも、理解できる理由だった。
すべてを隠すための言い訳だと切り捨てることはできない。
「ですから、公開を求めているのではありません」
私は言った。
「王宮警備隊と、竜の生息地を管理するグレイヴ辺境伯に確認させてください」
公爵の目が、わずかに細くなる。
「グレイヴ辺境伯と、すでに話を進めているのか」
「昨夜の竜が、辺境に暮らしていた黒竜である可能性があります」
「可能性にすぎない」
「その通りです」
私は否定しなかった。
「だから記録が必要なのです」
公爵はしばらく黙って私を見ていた。
その視線には、セドリック様のような嫌悪はない。
代わりに、値踏みするような冷静さがあった。
「金銭も屋敷も必要ない。その代わり、竜骨の記録が欲しいと」
「すべての金銭を辞退するつもりはありません。アルヴァ家から納めたものは、返還していただきます」
父が少しだけ顔を上げた。
「それは両家の財産だからです。ですが、私個人への慰謝料については、その資料の確認を条件といたします」
「随分と安い要求だ」
公爵が言った。
「屋敷一つと引き換えに、内部資料へ目を通せるならば」
「では、応じていただけますか」
「条件を付けよう」
公爵は法務官へ目を向けた。
「資料は原本ではなく、公爵家の記録官が作成した写し。確認できる者は、アルヴァ伯爵令嬢、アルヴァ伯爵、王宮警備隊長に限る。外部への持ち出しは禁止。内容を公表する場合には、事前に王宮の許可を得る」
「グレイヴ辺境伯も加えてください」
「なぜだ」
「竜の個体を確認できる可能性があるからです」
「辺境伯は当事者だ。判断が感情に左右される」
「私も当事者です」
「だからこそ、王宮警備隊が立ち会う」
公爵は譲らない。
私も、すぐには引けなかった。
「では、グレイヴ領が保有する記録との照合を認めてください」
公爵の指が、机を一度だけ叩いた。
「持ち出しは禁止と言った」
「公爵家の記録を持ち出すのではありません。必要な日付と番号を、王宮警備隊からグレイヴ辺境伯へ照会していただきます」
沈黙が落ちた。
隣で父が私を見ている。
止めると思っていた。
けれど、父は何も言わなかった。
「よいだろう」
公爵が答えた。
「ただし、婚約解消の条件とは別に、守秘義務を負ってもらう」
「事実を隠すためではなく、調査中の情報を守るためのものであれば」
「言葉の定義にこだわるのだな」
「言葉によって、なかったことにされるものがありますから」
公爵の表情が一瞬だけ動いた。
笑ったのか、警戒したのかは分からない。
「セドリック」
公爵が息子を呼ぶ。
セドリック様は、わずかに遅れて返事をした。
「はい」
「お前から何かあるか」
彼は私を見る。
昨夜と同じ青い目。
けれど今日は、その目を逸らさなかった。
「……補償について、リーゼロッテが望む形に異論はありません」
「それだけか」
公爵の声が少し低くなる。
セドリック様は唇を結んだ。
「昨日のことは、謝る」
その声は、かすかに震えていた。
「大勢の前で言うべきではなかった」
謝っているのは、婚約を解消したことではない。
方法についてだけだ。
それでも、彼にとっては簡単な言葉ではなかったのだろう。
「承知いたしました」
私は答えた。
「それから……」
セドリック様は一度言葉を止めた。
「君が竜骨の記録を求めることまで、父上に話すつもりはなかった」
「昨夜のことを説明すれば、いずれ分かったことです」
「そうではなくて」
彼は何かを言おうとした。
けれど、公爵の視線に気づき、口を閉ざした。
結局、それ以上の言葉はなかった。
◇
契約書の修正には、しばらく時間がかかった。
返還される財産。
辞退する慰謝料。
記録閲覧の条件。
守秘義務の範囲。
一つずつ法務官が読み上げ、両家が確認する。
最後に、父と公爵が署名した。
婚約解消は、これで正式に成立した。
十一年の関係は、数枚の紙と四つの署名に変わった。
不思議と、涙は出なかった。
ただ、自分の名前の隣に書かれていた「ローレン公爵家嫡男婚約者」という肩書が、どこにもなくなったのだと思った。
「資料はすでに用意させている」
公爵が立ち上がる。
「閲覧室へ案内しよう」
「本日、確認できるのですか」
「早い方がよいのだろう」
親切ではない。
早く確認させ、問題がないと納得させたいのだ。
それでも、記録を見られるなら構わなかった。
王宮の法務官と警備兵に付き添われ、私たちは別の部屋へ移動した。
細長い閲覧室の机に、一冊の台帳が置かれている。
原本ではなく、公爵家の保管記録を写したものだという。
私は椅子へ座り、黒い手袋を着けたまま表紙を開いた。
死者の遺品ではない。
それでも、今は素手で何かへ触れること自体を避けたかった。
記録番号を探す。
BK・四七二・胸骨三。
ほどなくして、該当する欄が見つかった。
「ありました」
父と法務官が、私の左右から紙面を確認する。
記載されているのは、昨夜見た抄本よりも少し詳しい内容だった。
種別――黒竜。
部位――胸骨、肋骨、翼骨の一部。
状態――自然死後に回収。
提供元――聖竜院北部管理局。
加工承認――聖竜院中央祭務局。
引き渡し先――ローレン公爵家魔力資源管理室。
そして、入手日。
私はその数字を見つめた。
何度読んでも、変わらない。
「六年前ではない」
思わず呟いた。
「何のことだ」
父が尋ねる。
「ミラとルゥが失踪したのは、六年前だとアルフォンス様から聞きました」
私は台帳の日付を指す。
そこに記されていたのは、今から七年前。
ミラが辺境から姿を消す、一年以上前の日付だった。
「この記録が正しいなら」
私は声を落とした。
「この竜骨は、ミラのものではありません」
胸の中に、わずかな安堵が生まれた。
けれど、すぐに違和感が続く。
竜骨から見えた、左角の欠けた黒竜ノクス。
幼いルゥ。
あれがミラの記憶でないなら、別の竜が同じ二頭を見ていたことになる。
そんなことがあるのだろうか。
「日付が間違っている可能性は」
父が法務官へ尋ねる。
「これは公爵家が保有していた取引記録の写しです」
法務官が答える。
「原本との照合は、ローレン家の記録官が行ったとあります」
「元の聖竜院の記録が間違っていれば、写しも同じです」
私が言うと、部屋の入口から声がした。
「何か問題でもあったか」
ローレン公爵が立っていた。
私たちが記録を確認する間、別室で待っていたはずだった。
「この竜骨の入手日は、七年前と記録されています」
「そう書かれているな」
「私が見た黒竜は、六年前に失踪しました」
「ならば、別の竜だったということだろう」
公爵の答えは自然だった。
それが最も簡単な結論だ。
「記録の日付に間違いはありませんか」
「公爵家が竜骨を受け取った日付を、わざわざ偽る理由がない」
「聖竜院から渡された時点で、すでに日付が記載されていたのですか」
「当時の担当者へ確認させよう」
公爵は不快そうではあったが、拒絶はしなかった。
「ただし、記録と君の感覚が食い違ったからといって、直ちに記録が誤りだと考えるのは危険だ」
「承知しております」
私は台帳へ目を戻した。
死者の声が間違っているのかもしれない。
私が受け取った映像を、ミラの記憶だと思い込んだだけかもしれない。
アルフォンス様が、似た黒竜をノクスと取り違えた可能性もある。
反対に、記録の方が書き換えられている可能性もある。
今は、どちらとも決められない。
「この番号と日付を、グレイヴ辺境伯へ照会してください」
私は法務官へ頼んだ。
「契約に基づき、王宮警備隊から照会を行います」
「お願いいたします」
私はもう一度、記録を見た。
七年前。
自然死。
名は不明。
すべてが整っている。
整いすぎているようにも見えた。
ローレン公爵は、机を挟んだ向こう側から私を見ていた。
その表情は変わらない。
けれど、私が入手日を指摘した瞬間。
彼の右手が、上着の内側へ一度だけ動いた。
そこには、公爵家の印章を入れる内ポケットがある。
確かめるように触れた後、すぐに手を離していた。
単なる癖かもしれない。
不安を感じたのかもしれない。
私は生きている者の心を読めない。
だから、その仕草だけで何かを決めつけてはいけない。
けれど、公爵はこの記録について、私たちよりも多くを知っている。
そんな気がした。
「リーゼロッテ嬢」
公爵が言った。
「望んだものは渡した。これで婚約解消の条件に異論はないな」
「はい」
私は台帳を閉じた。
「ですが、調査を終えるとは申し上げておりません」
公爵の目が、初めて冷たく細められた。
「君は、自分が何へ踏み込もうとしているのか理解しているのか」
「まだ分かりません」
私は正直に答えた。
「ですから、確かめます」
公爵はしばらく黙っていた。
やがて、低い声で言った。
「セドリックは、君のそういうところを恐れたのだろうな」
胸の奥がわずかに痛んだ。
けれど、視線は逸らさなかった。
「そうかもしれません」
「それでも進むのか」
「はい」
返事をすると、公爵はそれ以上何も言わなかった。
閲覧室を出た後、父が私の隣を歩いた。
「公爵を刺激する必要はなかった」
「申し訳ありません」
「謝れと言っているのではない」
父は足を止めなかった。
「……あの記録の写しを、私も確認する」
私は父の横顔を見た。
「お父様も調べてくださるのですか」
「お前一人にさせれば、また無茶をする」
味方だとは言わなかった。
私が正しいとも言わなかった。
それでも、昨日とは違う言葉だった。
「ありがとうございます」
父は返事をしなかった。
ただ、私より少しだけ歩調を緩めた。
王宮の出口へ着いた時、一人の騎士が私たちを待っていた。
グレイヴ辺境伯家の紋章を着けている。
「アルヴァ伯爵令嬢でいらっしゃいますか」
「はい」
「グレイヴ辺境伯閣下より、こちらを」
差し出された封書を受け取る。
黒い蝋には、一枚の翼の紋章。
父と法務官の前で封を開く。
中には、短い文章しか書かれていなかった。
――グレイヴ領の記録を確認した。
――黒竜ミラと幼竜ルゥが谷から姿を消したのは、王暦四百十二年、冬至の十二日前。
私は、先ほど見た台帳の日付を思い出した。
王暦四百十一年。
やはり、一年以上ずれている。
手紙には、さらに一行続いていた。
――ノクスは、その日までミラとともにいた。
記録通りならば、王都の竜骨はミラではない。
けれど、私が見た記憶の中には、確かにノクスとルゥがいた。
どちらかが間違っている。
死者の声か。
公的な記録か。
あるいは。
誰かが、竜骨を手に入れた日付を書き換えたのか。
私は手紙を握ったまま、雨に濡れた王都の空を見上げた。
青白い竜骨灯は、昼間でも街の各所で淡く輝いている。
その光の下で。
いくつの記録が正しいものとして残され、いくつの声が間違いとして消されてきたのだろう。




