父は何も言わなかった
「私は大丈夫です」
そう答えると、父はますます苦しそうな顔をした。
けれど、何も言わなかった。
私へ近づき、布の巻かれた左手を取ることも。
婚約を解消されたことについて、セドリック様を責めることも。
竜骨から聞こえた声を信じると言うこともなかった。
ただ、私とアルフォンス様の間に置かれた抄本へ視線を落とした。
「これは何だ」
「昨夜、落下した竜骨細工の記録です」
私が答えると、父の眉が動いた。
「お前が触れたという骨か」
「はい」
「また、声を聞いたのか」
また。
その一言に、幼い頃の記憶がよみがえった。
父は私が能力を使うたび、決まってそう尋ねた。
誰の声だった、ではない。
何を聞いた、でもない。
また聞いたのか。
まるで、起きてはならないことが繰り返されたかのように。
「黒竜の声でした」
「内容は」
「子どもを返してほしいと」
父の指先が、外套の端を強く握った。
「それを、ここにいる者たちへ話したのか」
「はい」
「聖竜院の前でも?」
「はい」
父は目を閉じた。
怒っているのか。
困っているのか。
それとも、恐れているのか。
私には分からなかった。
私は死者の思いを感じ取ることはできるが、生きている者の心は読めない。
父の心も、例外ではない。
「アルヴァ伯爵」
王宮警備隊長が口を開いた。
「令嬢には昨夜の事故について証言していただいている。体調は万全ではないようだが、強制したわけではない」
「承知しております」
父は丁寧に頭を下げた。
「娘がご迷惑をおかけしました」
胸の奥で、何かが小さく音を立てた。
迷惑をかけたのは私なのだろうか。
竜骨細工の留め具を抜いたわけではない。
給仕の少女を助け、聞いたことを話しただけだ。
それでも父は、私の代わりに謝った。
「迷惑とは思っていない」
アルフォンス様が言った。
「彼女がいなければ、給仕の娘は怪我をしていた」
「結果として無事だったことには、感謝しております」
父はアルフォンス様を見た。
「ですが、娘は公爵家との婚約を解消された直後です。今は正常な判断ができる状態ではありません」
「お父様」
思わず声が出た。
父は私を見なかった。
「昨夜の証言についても、いったん撤回させていただきたい」
「撤回はいたしません」
今度は、はっきりと言った。
父の顔がこちらを向く。
「リーゼロッテ」
「私が見たものを真実だと断定したわけではありません。声だけで誰かを罪に問うつもりもありません」
「なら、なおさら黙っていなさい」
「なぜですか」
「証明できないからだ」
父の返事は早かった。
「証明できない話を口にすれば、誰かがお前の言葉を利用する。ある者は聖竜院を攻撃するために。別の者はお前を異端者として裁くために」
異端者。
その言葉を口にした瞬間、父の声がわずかに震えた。
「私は、誰かを攻撃したいわけではありません」
「お前の意思は関係ない」
珍しく、父が声を強めた。
「言葉は一度口にすれば、聞いた者のものになる。お前がどれほど慎重に説明しても、『死者の声を聞いた令嬢が聖竜院を告発した』という噂だけが残る」
部屋の空気が重くなる。
警備隊長も記録官も口を挟まない。
父の言っていることは、間違っていなかった。
昨日の祝宴ですでに、私が婚約破棄の腹いせに騒ぎを起こしたという声があった。
聖竜院のクロード祭務官も、私の悲しみと証言を結びつけようとした。
私が何を意図したかとは関係なく、言葉は変えられていく。
「それでも、聞こえたことをなかったことにはできません」
「できなくとも、口に出す必要はない」
「助けを求めていたのです」
「もう死んでいる」
父の言葉が、鋭く落ちた。
私は息を止めた。
父自身も、自分が何を言ったのか気づいたのだろう。
顔から血の気が引いた。
「……そういう意味ではない」
父は低く言い直した。
「死者を軽んじているのではない。だが、死者のために生きているお前が傷つく必要はないと言っている」
「誰も聞かなければ、その竜は名前も失ったままです」
「お前が背負うことではない」
「では、誰が背負うのですか」
父は答えなかった。
いつもそうだった。
私が能力について尋ねると、父は黙った。
母も同じ力を持っていたのか。
なぜ私は手袋を外してはいけないのか。
死者の声を聞くことは、本当に悪いことなのか。
何を尋ねても、父は「忘れなさい」と言うだけだった。
「この話は屋敷でしよう」
父が言った。
「今は帰るぞ」
「調査がまだ終わっておりません」
「お前がここにいる必要はない」
「証言者として――」
「必要なことはすべて話したのだろう」
父は警備隊長へ向き直った。
「娘の証言を書面にまとめ、確認が必要な場合はアルヴァ伯爵家へお送りください。本日はこれで失礼いたします」
私の返事を待たずに決めてしまう。
十九歳になった今でも、父にとって私は、危険から遠ざければ守れる子どもなのだろう。
「アルヴァ伯爵」
アルフォンス様が呼び止めた。
父の足が止まる。
「彼女は、自分の意思でここにいる」
「グレイヴ辺境伯閣下には、娘を助けていただいたことを感謝しております」
父の言葉遣いは丁寧だった。
けれど、その声には明確な拒絶があった。
「ですが、これは我が家の問題です」
「昨夜の竜骨に、グレイヴ領の竜が使われている可能性がある」
「可能性だけでしょう」
「調べなければ分からない」
「調べるのは王宮と聖竜院の役目です。娘の役目ではない」
父は私の左手を見た。
布の下にある手を。
「この子は、調査のための道具ではありません」
思わず、父の顔を見た。
その言葉だけは、予想していなかった。
アルフォンス様も一瞬黙った。
「道具として扱うつもりはない」
「誰もが最初はそう言います」
父の声が冷たくなる。
「一度声を聞けると知れば、次も聞けと言う。その次も。その者が倒れても、真実のため、正義のため、亡くなった者のためだと言って手を伸ばさせる」
誰のことを話しているのだろう。
私のことだけではないように聞こえた。
「お父様」
呼びかけても、父はこちらを見ない。
「帰るぞ」
話は終わりだというように、父は扉へ向かった。
私は抄本の写しを見た。
BK・四七二・胸骨三。
ミラかもしれない竜骨。
声を聞いた私がここを離れてよいのか、迷った。
「行け」
アルフォンス様が言った。
「ですが」
「今、君ができることはない。王宮の貸し出し記録は俺が確認する」
「一人で調べるおつもりですか」
「記録を見るだけなら、死者の声は必要ない」
少し厳しい言い方だった。
「昨夜、約束しただろう。生きている者が調べられることを先に調べると」
私は言葉を失った。
確かにそう話した。
それなのに私は、ここへ残ることが責任だと思い込んでいた。
「分かりました」
私は抄本から手を離した。
「何か分かりましたら、教えてください」
「ああ」
「必ずです」
「約束する」
アルフォンス様の言葉を聞き、ようやく扉へ向かう。
父は廊下で待っていた。
私が隣へ並ぶと、何も言わず歩き始める。
私も黙って後へ続いた。
◇
屋敷へ戻る馬車の中には、車輪の音だけが響いていた。
父は向かいの席に座り、窓の外を見ている。
外套の留め具は、まだ外れたままだった。
いつも身なりへ厳しい父らしくない。
「お父様」
「何だ」
「婚約解消のことは、どなたからお聞きになったのですか」
「ローレン公爵家から、夜明け前に使者が来た」
「そうですか」
「なぜ、すぐに知らせなかった」
「夜会で突然告げられましたので」
「その後だ」
「竜骨の事故がありました」
「それでも、使者を出すことはできただろう」
責める声ではなかった。
それがかえって、父がどれほど焦っていたのかを感じさせた。
「ご心配をおかけしました」
いつものように謝る。
父は目を閉じた。
「違う」
「何がですか」
「お前に謝らせたいのではない」
父は膝の上で手を組んだ。
その指が強く絡み合っている。
「私が、間に合わなかった」
小さな声だった。
「夜会にも。事故にも」
「お父様のせいではありません」
「父親でありながら、娘が大勢の前で侮辱されたことさえ、他家の使者から知らされた」
父は窓の外を見たまま言う。
「お前が竜骨へ触れ、倒れた時にも、そばにいなかった」
「倒れてはいません」
「そういう問題ではない」
父の声がまた少し強くなる。
けれど、すぐに力を失った。
「……すまなかった」
謝罪の言葉は聞けた。
それでも、胸の中にある空白は埋まらなかった。
私は父に謝ってほしかったのだろうか。
違う。
セドリック様は間違っている。
お前の力は気味悪くなどない。
調べたいなら、私が支える。
たった一度でよいから、そう言ってほしかった。
「お前は、今後あの辺境伯と会うつもりか」
「調査のために必要であれば」
「会うなとは言わない」
父は一度言葉を切った。
「だが、聖竜院へこれ以上近づくな」
「理由を教えてください」
「危険だからだ」
「何が危険なのですか」
「すべてだ」
答えになっていない。
「お父様は、聖竜院について何かご存じなのですか」
「知らない」
「では、なぜそこまで恐れるのですか」
父の顔が強張った。
ほんの一瞬、目の中に浮かんだものを私は見た。
悲しみ。
いや、恐怖だ。
自分へ迫るものではなく、大切な誰かを奪われることへの恐怖。
「同じことを繰り返したくない」
父が呟いた。
「同じこと?」
聞き返すと、父は口を閉ざした。
また沈黙。
母のことが関係している。
そう思った。
けれど、父は話さない。
私は尋ねることをやめた。
どれほど聞いても、今の父は答えないだろう。
「お父様」
「何だ」
「私の力を、信じていますか」
父はすぐに答えなかった。
馬車が石畳の継ぎ目を越え、わずかに揺れる。
「信じるかどうかの問題ではない」
やがて父は言った。
「お前が声を聞くことは知っている」
「そうではなくて」
私は言葉を探した。
「私が聞いたものを確かめたいと思うことは、間違っていますか」
「間違っているとは言っていない」
「では、味方をしてくださいますか」
父の目が私へ向いた。
初めて、正面から視線が重なる。
答えてほしかった。
たった一言。
味方だと。
しかし、父の唇は動かなかった。
長い沈黙の後、視線を落とす。
「今は休みなさい」
それが父の答えだった。
胸の奥が、静かに冷えていく。
「分かりました」
私は微笑んだ。
もう一度だけ、いつもの言葉を口にする。
「大丈夫です」
父は何も言わなかった。
けれど、屋敷へ着くまでの間。
膝の上に置かれた父の両手は、ずっと震えていた。




