聖なる遺物
その夜、私はほとんど眠れなかった。
目を閉じるたび、石造りの暗い部屋が見えた。
翼を締めつける金具。
床を引きずる鎖。
鼻の奥に残る、苦い薬品の臭い。
そして、人間の腕の中でもがく小さな黒竜。
――私の子を返して。
声が聞こえたのは、竜骨へ触れていた間だけだ。
今はもう聞こえない。
それなのに、女竜の悲しみだけが胸の奥へ残り続けていた。
夜明け前、私は水差しへ手を伸ばした。
左手には、治療師が巻いた布が残っている。
怪我をしているわけではない。
それでも指先は冷えたままで、自分の手ではないように感じられた。
水を一口飲む。
味がしなかった。
能力を強く使った後には、時折こうなる。
甘いものも苦いものも、ただ温度だけしか分からなくなる。
母が生きていた頃は、そんな私へ蜂蜜を溶かした温かい乳を作ってくれた。
味が戻ったかどうか、無理に尋ねることはなかった。
ただ隣へ座り、私が飲み終えるまで本を読んでいた。
母が亡くなってからは、自分で水を飲み、自分で手を温めるようになった。
それで困ったことはない。
そう思っていた。
◇
朝になると、王宮警備隊から使者が来た。
昨夜の事故について、王宮内の調査室で事情を聞きたいという。
私は黒い手袋を着け、王宮へ向かった。
昨夜と同じ建物なのに、昼間の王宮はまるで別の場所に見えた。
華やかな音楽も、きらびやかな衣装もない。
磨かれた廊下を、役人や騎士たちが早足で行き交っている。
昨夜、婚約を解消された場所も、朝になれば何事もなかったように片づけられているのだろう。
私の十一年間など、王宮にとっては絨毯にこぼれた葡萄酒よりも軽い出来事なのかもしれない。
案内された調査室には、すでにアルフォンス様がいた。
窓際に立ち、外を見ている。
昨日と同じ灰色の礼装ではなく、今日は辺境伯家の紋章が入った黒い上着を着ていた。
「おはようございます」
声をかけると、彼が振り返る。
「声は戻ったか」
「はい。少し掠れていますが」
「手は」
「問題ありません」
答えると、アルフォンス様の視線が布の残る左手へ落ちた。
「問題がない手には見えない」
「痛みはありません」
「冷えているのか」
私は答えなかった。
沈黙したことで、肯定したのと同じになってしまった。
アルフォンス様はそれ以上尋ねず、卓上に置かれていた湯の入った器を私の方へ押した。
「使え」
「これは?」
「手を温めるためのものだと、治療師が置いていった」
「アルフォンス様のためではないのですか」
「俺の手は冷えていない」
そう言った彼の右手は、わずかに震えていた。
けれど、それを指摘することはできなかった。
私も何も聞かれたくないことがある。
彼にもあるのだろう。
「ありがとうございます」
私は手袋を着けたまま、器へ両手を添えた。
じんわりとした熱が、掌から腕へ伝わる。
味のしない水よりも、誰かが置いてくれた温かさの方が、よほど体へ染みた。
ほどなくして扉が開いた。
王宮警備隊長と、記録官らしい男性が入ってくる。
その後ろに、昨夜の白い祭服の神官が続いた。
「改めてご挨拶を」
神官は胸へ手を当て、丁寧に頭を下げた。
「聖竜院祭務官、クロード・ベルネと申します」
昨夜と同じ穏やかな微笑。
けれど、私を見つめる目には、少しの親しみもなかった。
「このたびは、当院がお預けした聖具によってアルヴァ伯爵令嬢を危険にさらしましたこと、深くお詫び申し上げます」
「給仕の少女にも、同じ言葉を伝えてください」
私が答えると、クロード祭務官の笑みがわずかに硬くなった。
「もちろんでございます」
本当に伝えるかどうかは分からない。
けれど、記録官が今のやり取りを書き留めている。
言葉にしておく意味はある。
警備隊長が卓上へ、昨夜発見された留め具を置いた。
「まず、聖具落下の原因について報告する。固定具から安全針が抜けていたことは確認された」
「何者かが故意に抜いたということですか」
「そこまでは断定できない」
警備隊長は首を横に振る。
「設置作業中に差し込みが不十分だった可能性もある。昨夜の祝宴中、聖具の付近を通った者は多い。現在、使用人と警備兵へ聞き取りを行っている」
「給仕の少女は」
「別室で話を聞いた。本人は留め具に触れていないと証言している」
「その証言は記録されますか」
「当然だ」
私は胸をなで下ろした。
身分の低い少女の言葉だからと、最初から消されることはないらしい。
もっとも、記録されることと信じてもらえることは別だ。
「続いて、問題となった竜骨細工について確認する」
警備隊長の合図で、部屋の奥に掛けられていた布が取り払われた。
翼を広げた竜の形。
昨夜より小さく見えた。
祝宴の光と音がない場所では、それは神聖な美術品というより、白く削られた骨の集まりにしか見えない。
胸の奥が冷える。
私は無意識に左手を握りしめた。
「触れるな」
隣からアルフォンス様の声がした。
「分かっています」
少し強く答えてしまった。
彼は何も言い返さなかった。
ただ、私と竜骨の間に立つのではなく、半歩だけ横へ移動した。
私の視界を遮らず、手を伸ばせば止められる距離。
選択を奪わずに見張られているようで、少し居心地が悪かった。
けれど今の私には、そのくらいがちょうどよいのかもしれない。
「ベルネ祭務官」
警備隊長が尋ねる。
「これは、どのような経緯で聖具となったものだ」
「北部山岳地帯で発見された、自然死した黒竜の遺骨を用いております」
クロード祭務官は、用意していた書類を卓上へ置いた。
「竜は神々より遣わされた尊き存在。その肉体は死後も大地へ恵みをもたらします。聖竜院では、自然へ還る前に遺骨を保護し、祈りを捧げた後、聖具や治療具として用いることがございます」
その説明自体は、王国で広く信じられているものだった。
王都の竜骨灯。
治療院で使われる竜骨魔石。
冬の厳しい地域へ送られる暖房具。
いずれも、自然死した竜の遺骨へ祈りを捧げ、人間の暮らしに役立てていると教えられている。
私も昨日までは、疑ったことがなかった。
「その黒竜の名は」
アルフォンス様が尋ねた。
「名は確認されておりません」
「生息地は」
「発見場所については、聖竜院の保護規定により非公開となっております」
「発見時期は」
「こちらへ記載しております」
クロード祭務官が書類の一部を指した。
記録番号。
回収時期。
加工場所。
聖具として王宮へ貸し出された日付。
必要な項目は並んでいる。
けれど、肝心の竜がどこで、どのような状態で発見されたのかは書かれていない。
「これは原本ではないな」
アルフォンス様が言う。
「必要部分を抜粋した抄本でございます」
「原本を出せ」
「聖竜院の内部記録には、聖具と無関係な機密事項も含まれます。すべてを外部へ提出することはできません」
「事故調査でも?」
「事故原因と、竜の死因は別の問題でしょう」
クロード祭務官の声は穏やかなままだった。
「昨夜、アルヴァ伯爵令嬢が何をご覧になったかは存じません。しかし、個人の感覚だけで聖竜院の記録を疑われるのは、いささか心外でございます」
全員の視線が私へ集まる。
「リーゼロッテ嬢」
警備隊長が慎重に尋ねた。
「昨夜、竜骨へ触れた際に感じたことを、改めて話してもらえるか」
私はうなずいた。
「強い寒さと、拘束されている感覚がありました。首と翼へ金属の器具がつけられていたと思います」
「輸送時の固定具ではございませんか」
クロード祭務官がすぐに答える。
「大型の竜骨を安全に運ぶため、金具や鎖を使用することはございます」
「生きている状態でした」
「なぜ、そう分かるのです?」
「呼吸ができず、苦しんでいました。翼を動かそうとしていました」
「死後の記憶と、ご自身の想像が混ざった可能性はございませんか」
その可能性は、否定できない。
死者の記憶は短く、断片的だ。
受け取った痛みを、私が別の意味へ解釈した可能性もある。
「あります」
私が答えると、クロード祭務官の目にわずかな光が浮かんだ。
「では――」
「可能性があるというだけです」
私は続けた。
「見たものを真実だと断定するつもりはありません。ですが、間違いだと断定することもできません」
「曖昧な話ですな」
「死者の声とは、そういうものです」
答えが欲しい人にとっては、役に立たない力だろう。
犯人の名を聞けるわけではない。
隠された場所を尋ねることもできない。
私に届くのは、死者が最期に抱えていた思いだけ。
「だからこそ、記録と照らし合わせる必要があります」
クロード祭務官の指が、卓上の書類へ触れる。
「記録には自然死とございます」
「その根拠を確認させてください」
「聖竜院の専門家が判定しております」
「その専門家の名前と、判定記録はありますか」
クロード祭務官の笑みが薄くなる。
「随分と我々を疑っておられるようだ」
「いいえ」
私は首を横に振った。
「疑っているから確認するのではありません。信じるために確認したいのです」
部屋が静かになった。
自分でも、少し綺麗すぎる言葉だと思った。
本当は疑っている。
白い祭服。
鎖。
胸を焼く痛み。
持ち去られる幼竜。
けれど、疑いを罪と同じにはできない。
私が聞いた声だけで、目の前の神官たちを竜殺しと決めつければ、セドリック様が私を気味悪いと決めつけたことと、何が違うのだろう。
「私の力は証拠にはなりません」
私は記録官へも聞こえるよう、はっきり言った。
「死者は間違えることがあります。私が受け取り方を誤ることもあります。ですから、私の言葉だけで誰かを裁いてはいけません」
アルフォンス様が私を見る。
「ですが、調べる理由にはなります」
私は竜骨細工へ視線を向けた。
「助けを求める声があった。その声が誤解なのか、事実なのか。確かめる前に、なかったことにはできません」
「その声は、本当に竜のものなのでしょうか」
クロード祭務官が尋ねた。
「婚約を解消された直後でしたな。心が不安定になり、存在しない声を聞いた可能性もあるのでは?」
言葉は丁寧だった。
けれど、その狙いは明らかだった。
私が傷ついた令嬢であることと、聞いた声が誤りであることを結びつけようとしている。
昨夜の招待客たちと同じだ。
婚約を破棄された女なら、平静ではない。
平静でないなら、語ることも信用できない。
「私が傷ついていないとは申しません」
私は答えた。
婚約解消について何も感じていないふりをする必要はない。
「十一年の婚約が終わりました。悲しくないはずはありません」
口にすると、胸が少し痛んだ。
昨夜は認められなかった痛みだった。
「ですが、私が悲しいことと、竜骨から何も聞こえなかったことは同じではありません」
「しかし証明はできない」
「はい」
私は認めた。
「今は、できません」
クロード祭務官は勝ち誇るでもなく、静かにうなずいた。
「でしたら、自然死した竜の遺骨を、根拠なく虐げられたものとして扱うのはお控えください。これは多くの人々が祈りを捧げてきた聖なる遺物なのです」
祈りを捧げられてきた。
それは、きっと嘘ではないのだろう。
この竜骨を美しいと思った人。
竜への感謝を込めて頭を下げた人。
その光の下で家族と祝い、幸福を願った人。
その人々の祈りまで、偽物とは言えない。
けれど。
祈られているから、苦しまなかったことになるのだろうか。
聖なるものと呼ばれれば、名前を失ってよいのだろうか。
「一つ、尋ねてもよろしいでしょうか」
私はクロード祭務官を見た。
「何でしょう」
「この竜は、聖なる遺物となることを望んでいたのですか」
祭務官の眉が、わずかに動いた。
「死者の意思を確認することはできません」
「私は、子どもを返してほしいという声を聞きました」
「それが事実である保証はない」
「はい。ですから、確かめたいのです」
私は卓上の抄本を指した。
「この記録に、子どもについて何か書かれていますか」
クロード祭務官は答えなかった。
代わりに書類を閉じ、自分の前へ引き寄せる。
「これ以上は、聖竜院へ持ち帰り、上層部の判断を仰ぎます」
「抄本は調査資料として預かる」
警備隊長が言った。
「それは認められません」
「王宮内で起きた事故だ。提出した資料は記録へ添付する」
二人の間に、短い沈黙が流れた。
クロード祭務官は笑みを崩さなかった。
しかし、書類を押さえる指へ力が入っている。
「では、写しを作成した後、速やかに返却願います」
「承知した」
警備隊長が記録官へ合図を送る。
その時、部屋の扉が控えめに叩かれた。
一人の警備兵が入り、隊長へ何かを耳打ちする。
「どうした」
「昨夜の給仕の少女が、追加で話したいことがあると」
私は思わず身を乗り出した。
「ここへ呼んでください」
クロード祭務官が口を挟む。
「子どもの曖昧な記憶を、何度も聞き出すのは酷ではありませんか」
「本人が話したがっている」
警備隊長は扉へ向かってうなずいた。
しばらくして、昨日の少女が年長の侍女とともに入ってきた。
少女の顔はまだ青い。
それでも昨日より、しっかりと前を向いていた。
「ノラと申します」
少女は震える声で名乗った。
初めて知った名前だった。
「ノラ。昨夜見たことを、そのまま話せばよい」
警備隊長が促す。
少女は一度私を見た。
私はうなずいた。
何を言ってもいい。
正しい答えを求めているわけではない。
少女は両手を握りしめた。
「祝宴が始まる少し前、竜の飾りの前に、白い服の人がいました」
クロード祭務官の目が細くなる。
「聖竜院の者が設置確認をしていたのでしょう」
「顔は見ましたか」
警備隊長が尋ねる。
「いいえ。わたしが声をかけたら、すぐに向こうへ行ってしまって……」
「何をしていた?」
「竜の翼の上へ、手を伸ばしていました」
部屋の空気が変わった。
「留め具に触れていたのか」
「分かりません。でも、金属の音がしました」
「なぜ昨夜は話さなかった」
「わたしが壊したと思われるのが怖くて……」
少女の目に涙が浮かぶ。
「それに、白い服の方のことを悪く言ったら、罰が当たると思って」
聖竜院の白い祭服。
人々にとっては、疑うことさえ恐ろしいものなのだ。
クロード祭務官が優しい声で言う。
「白い服を着ている者は、聖竜院の者だけではありません。光の加減でそう見えた可能性もありますよ」
「はい……」
少女の声が小さくなる。
また、自分が間違っていると思い始めている。
「ノラ」
私は彼女を呼んだ。
「あなたが見たものが、すべて正確かどうかは今は分かりません」
少女の顔が曇る。
「ですが、話してはいけないことではありません」
私は続けた。
「見たものを話すことと、誰かを犯人だと決めつけることは違います。あなたの言葉も、一つの証言として記録されます」
「わたしの言葉でも?」
「もちろんです」
貴族でも、神官でも、死者でもない。
ただの給仕の少女。
それでも、彼女が見たことには意味がある。
「ありがとう、ございます」
ノラは泣きながら頭を下げた。
その姿を見て、私はようやく気づいた。
死者の声だけが、奪われているわけではない。
生きている者も、恐怖や身分によって声を失う。
そして、声を聞くことが必要なのは、死者に対してだけではない。
警備隊長はノラの証言を記録させた後、今日の調査を終えると告げた。
竜骨細工は引き続き、王宮警備隊の管理下へ置かれる。
聖竜院には、原本の提出を正式に求める。
それ以上の結論は出なかった。
クロード祭務官の言う通り、書類上では自然死。
私が受け取ったものは、証明できない記憶。
ノラが見た白い服の人物も、顔は分からない。
何一つ、決定的な証拠ではない。
調査室を出る前、私はもう一度竜骨を見た。
白い翼。
祈りを集める聖なる遺物。
けれど、その奥に残る声を私は知っている。
――寒い。
――帰りたい。
――私の子を返して。
クロード祭務官が扉の前で足を止めた。
「アルヴァ伯爵令嬢」
「何でしょう」
「あなたのお力は、使い方を誤れば多くの人を不幸にします」
「存じております」
「ならば、沈黙することも慈悲だと覚えておかれるとよい」
私は彼を見返した。
「沈黙が誰を守るものなのか、確かめてからにいたします」
祭務官は何も答えず、部屋を出ていった。
その背中を見送った後、アルフォンス様が抄本の写しへ目を落とす。
「自然死した黒竜。発見場所は非公開。名は不明」
「はい」
「ミラかどうかは、まだ分からない」
「分かりません」
「だが、調べる価値はある」
「はい」
私たちは同じ結論へたどり着いていた。
信じるだけでは足りない。
疑うだけでも足りない。
死者の声と、生きている者の記録。
その両方を集めなければならない。
アルフォンス様が抄本の端を指した。
「この番号だ」
BK・四七二・胸骨三。
「聖竜院の台帳が手に入らなくても、貸し出し記録は王宮側に残っているはずだ」
「王宮へ運び込まれた日付と、提供した部署が分かりますね」
「ああ。そこから遡る」
小さな糸だった。
けれど、何もなかった昨日までとは違う。
私がうなずいた時、廊下の向こうが騒がしくなった。
誰かが急いでこちらへ向かってくる。
やがて扉が開き、警備兵が顔を出した。
「アルヴァ伯爵令嬢。お父上がお見えです」
心臓が小さく跳ねた。
父は、昨夜のことを知ったのだ。
婚約解消も。
竜骨へ触れたことも。
聖竜院を疑っていることも。
私は無意識に背筋を伸ばした。
廊下の先に、父の姿が見えた。
いつも乱れることのない髪は崩れ、外套の留め具さえ外れかけている。
よほど急いできたのだろう。
父は私を見た。
次に、布の巻かれた左手を見た。
そして、私の隣に立つアルフォンス様と、奥に置かれた竜骨を見た。
その顔から、血の気が引いていく。
「リーゼロッテ」
父は私の名を呼んだ。
それだけだった。
大丈夫かとも。
怖かっただろうとも。
婚約のことは任せろとも言わなかった。
ただ、立ち尽くしていた。
私はいつものように微笑んだ。
「お父様。ご心配には及びません」
そして、いつもの言葉を口にした。
「私は大丈夫です」
本当は、一度だけでいい。
大丈夫でなくてもよいと、言ってほしかった。




