その声は何と言っている
「誰が聞いているか分からない」
アルフォンス・グレイヴ辺境伯は、そう言って広間の奥へ視線を向けた。
白い祭服の神官たちは、すでに姿を消している。
けれど、竜骨細工を囲む王宮警備隊の向こうでは、まだ大勢の招待客がこちらを見ていた。
婚約を解消された令嬢。
死者の声を聞く女。
聖竜院の竜骨へ触れ、倒れかけた異端者。
今夜だけで、私はいくつの呼び名を与えられたのだろう。
「別室を用意させる」
アルフォンス様が近くの騎士へ告げる。
「治療師も呼べ。ただし、聖竜院の者ではない者を」
騎士は一瞬だけ目を見開いたが、すぐに頭を下げた。
「承知しました」
「私は大丈夫です」
そう答えた声は、まだ少し掠れていた。
「大丈夫な人間は、椅子につかまらなければ立てないのか」
アルフォンス様は淡々と言う。
責める調子ではなかった。
だからこそ、言い返しにくい。
「少し休めば戻ります」
「なら、少し休め」
短い言葉だった。
命令のようにも聞こえる。
けれど、私の腕をつかんで無理に歩かせることはしなかった。
アルフォンス様はただ隣に立ち、私が自分から動くのを待っていた。
先ほどまで私の袖を握っていた給仕の少女は、年長の侍女に付き添われて広間を出ていく。
扉をくぐる直前、少女は振り返った。
私と目が合う。
彼女は深く頭を下げた。
私も小さくうなずき返す。
助けられてよかった。
その安堵を確かめた途端、張り詰めていた糸が少し緩んだ。
足元が揺れる。
「リーゼロッテ」
セドリック様の声がした。
振り返ると、彼は先ほどと同じ場所に立っていた。
けれど、婚約解消を宣言した時の自信は失われていた。
「君は帰った方がいい。アルヴァ伯爵家へ馬車を回させる」
「お気遣いは不要です」
「不要なわけがないだろう。君の父上にも説明が必要だ」
父。
その言葉に、胸の奥が重くなった。
婚約解消について、父はまだ知らない。
今夜、セドリック様から大切な話があると聞き、私は一人で祝宴へ来ていた。
婚約者同士で話し合うべきことだと思っていたからだ。
「父には、私から説明します」
「君から?」
「婚約を解消されたのは私ですから」
「こうなった以上、両家の問題だ」
「先ほどは、私自身の問題として公の場でお話しになりました」
セドリック様が言葉を失う。
言い過ぎただろうか。
そう思った瞬間、いつもの癖で謝りそうになった。
けれど、私は口を閉じた。
間違ったことは言っていない。
「ローレン卿」
アルフォンス様が私たちの間へ声を挟んだ。
「彼女には、事故について証言してもらう必要がある」
「グレイヴ卿には関係のないことです」
「竜骨に関することなら、俺にも関係がある」
二人の視線がぶつかる。
セドリック様は王都でも名高い公爵家の嫡男。
対するアルフォンス様は、国境を守る辺境伯だ。
家格だけで言えば大きな差はない。
しかし、二人の間に流れる空気はまるで違った。
セドリック様は、この場を元の秩序へ戻そうとしている。
婚約解消は婚約解消として処理し、竜骨の事故は事故として片づける。
アルフォンス様は、元の秩序そのものを疑っている。
「彼女は体調を崩している」
セドリック様が言う。
「だからこそ、治療師に診せる」
「あなたが付き添う必要はない」
「ならば、彼女自身に決めてもらえ」
二人の視線が私へ向いた。
一瞬、答えに詰まる。
いつもなら、より多くの人が納得する方を選んでいた。
誰かを不快にさせない答え。
迷惑をかけない答え。
けれど、今夜それを選び続けた結果が、先ほどの婚約解消だったのかもしれない。
「グレイヴ辺境伯様と、お話しさせてください」
セドリック様の表情がこわばった。
「なぜだ」
「ミラという名前について、確認したいことがあります」
「また死者の話か」
「はい」
今度は迷わなかった。
「今の私には、婚約解消について考えるよりも大切なことです」
セドリック様の唇がわずかに動く。
しかし、言葉は出なかった。
私は彼へ一礼し、アルフォンス様とともに大広間を後にした。
背中へ多くの視線が刺さる。
その中にセドリック様のものがあるかどうかは、振り返らなかった。
◇
案内されたのは、大広間から二つ廊下を隔てた小さな応接室だった。
窓はなく、壁際には装飾の少ない燭台が二つある。
今夜の祝宴に使われている竜骨灯ではなく、普通の蝋燭だった。
それだけで、少し息がしやすくなった。
年配の女性治療師が私の脈を取り、左手の状態を調べる。
「火傷も骨折もありません。ただ、体温がずいぶん下がっていますね」
「いつものことです」
「いつも?」
治療師が眉を寄せた。
「強い思いに触れた後は、手や体が冷えることがあります」
「今まで何度も?」
「はい」
「それを、家族は知っているのですか」
答えるまでに、少し間が空いた。
「父は知っています」
「それで、毎回あなた一人で耐えてきたのですか」
「休めば戻りますから」
治療師は何か言いたげに私を見たが、結局は溜息をついただけだった。
「温かい飲み物を持ってこさせます。今夜は二度と手袋を外してはいけません」
「ですが、竜骨をもう一度確認する必要が――」
「いけません」
今度は強い口調だった。
「死者の声を聞くことは私には分かりません。ですが、あなたが生きている人間であることは分かります」
返す言葉がなかった。
治療師は私の左手を厚い布で包み、部屋を出ていった。
室内には、私とアルフォンス様だけが残る。
扉の外には護衛が立っているが、会話までは聞こえないだろう。
アルフォンス様は向かいの椅子へ座らず、しばらく窓のない壁を見つめていた。
右手が、かすかに震えている。
彼は左手で右の手首を押さえ、その震えを止めようとした。
「先ほどのミラという名前について、教えていただけますか」
私が尋ねると、彼はすぐには答えなかった。
「先に聞きたい」
やがて、低い声が返ってくる。
「君は竜骨に触れて、何を見た」
「すべてを正確に説明できるとは限りません」
「構わない」
「死者の記憶には、本人の思い込みが含まれます。恐怖の中で見たものを、私が誤って受け取ることもあります」
「それも含めて話してほしい」
アルフォンス様は私の目をまっすぐ見た。
「都合のいい答えだけを選ぶつもりはない」
その言葉に、少しだけ驚いた。
死者の声を聞いたと話すと、多くの人は二つの反応をする。
気味が悪いと遠ざけるか、自分の望む答えを求めて近づくか。
亡くなった者は自分を愛していたか。
恨んでいなかったか。
隠した財産はないか。
犯人は誰か。
聞こえた言葉が望んでいたものと違えば、私を嘘つきと呼ぶ。
アルフォンス様は、答えを求めている。
けれど、答えを決めてはいなかった。
「分かりました」
私は、第二話で紙へ書き留めた内容を順番に話した。
「最初に感じたのは、強い寒さです。暗い石造りの場所に拘束されていました。首と翼に鎖か、金属製の器具がつけられていたと思います」
アルフォンス様の表情は変わらない。
けれど、押さえていた右手に力が入った。
「白い祭服を着た人々がいました。薬品のような臭いもしました」
「聖竜院の者か」
「そう見えました。ただし、竜がそう認識していたとは限りません。白い服を着た別の組織である可能性もあります」
「紋章は」
「一瞬だけ見えました。聖竜院のものに似ていました」
似ていた。
同じだったとは言わない。
私の能力は、断定するためのものではない。
「その後、黒い山と湖が見えました。巣穴の前に、大きな黒竜と幼い黒竜がいました」
「大きな黒竜は、どんな姿だった」
「夜のように黒い鱗でした。左の角が、先端だけ少し欠けていたと思います」
アルフォンス様の呼吸が止まった。
「間違いないのか」
「記憶が正しければ」
「左の角が欠けた黒竜は、ノクスだ」
ノクス。
アルフォンス様の相棒だった黒竜の名。
王都でも、英雄として知られている。
六年前の国境戦で命を落としたと聞いていた。
「では、あの女竜は……」
「ミラはノクスの伴侶だった」
その声には、長い年月を越えてきた重さがあった。
「人間とは契約していなかったが、グレイヴ領の北にある谷で暮らしていた。ノクスが自由に空を飛ぶことを許していたのも、ミラがいたからだ」
「幼い竜は、二頭の子ですか」
「ああ」
アルフォンス様の視線が、机の上へ落ちる。
「名はルゥ。孵化してまだ三年にもならなかった」
記憶の中で暴れていた幼竜。
人間の腕に抱えられ、母親を求めていた小さな影。
胸の奥が再び冷たくなる。
「ミラとルゥは、六年前に失踪した」
「二頭ともですか」
「同じ夜に」
「ノクスは?」
「二頭を追った」
アルフォンス様の右手が強く震えた。
今度は左手で押さえても止まらない。
「そして戻らなかった」
それ以上、彼は話さなかった。
私もすぐには尋ねられなかった。
ノクスは国境戦で死んだのではない。
少なくとも、アルフォンス様の言葉からはそう聞こえた。
ミラとルゥを追い、そのまま戻らなかった。
その出来事と、竜骨に残った記憶。
聖竜院の白い祭服。
胸骨へ刻まれた管理番号。
すべてが一本の線になりかけている。
けれど、まだ断定してはいけない。
「ミラは亡くなっています」
私は静かに伝えた。
アルフォンス様は目を閉じた。
覚悟していたのだろう。
驚きは見えなかった。
それでも、右手の震えだけが大きくなった。
「そうか」
短い一言だった。
悲しんでいないようにも聞こえる。
けれど、本当に何も感じていない人の手が、あれほど震えるはずはない。
「申し訳ありません」
思わず口にすると、アルフォンス様が目を開いた。
「なぜ君が謝る」
「お伝えすることで、傷つけたかもしれません」
「死んだのは君のせいではない」
「ですが――」
「聞こえたことを話しただけだ」
彼は一度言葉を切った。
「俺が知りたがった」
その言い方には、自分の選択の責任を私へ押しつけない強さがあった。
「ありがとうございます」
「礼を言うのは俺の方だ」
アルフォンス様は震える右手を、今度は隠さなかった。
「六年間、ミラがどこかで生きている可能性を捨てきれなかった」
待っていたのだ。
帰ってくるかもしれないと。
黒い空から翼の音が聞こえるたび、顔を上げていたのかもしれない。
諦めれば、二度と戻らないと認めることになるから。
「期待を奪ってしまいましたか」
「いや」
アルフォンス様は首を横に振った。
「期待ではない。止まっていただけだ」
それはまるで、自分へ言い聞かせる言葉だった。
「ですが、まだ一つ分かりません」
私は机の上の紙へ、竜骨から聞こえた最後の言葉を書く。
――私の子を返して。
「ミラは、ルゥが連れ去られたと思っています」
「そのようだな」
「ルゥも亡くなっているとは限りません」
アルフォンス様が私を見る。
「死者の声は、亡くなった時点で止まっています。ミラがルゥのその後を知らないまま亡くなったのなら、あの言葉だけでルゥの生死は判断できません」
「生きている可能性があると?」
「可能性がないとは言えません」
希望を与えるつもりはなかった。
だから、慎重に言葉を選ぶ。
「ただし、竜骨から見た記憶だけでは何も証明できません。管理番号の台帳や、当時の輸送記録を調べる必要があります」
「分かっている」
アルフォンス様は、すぐにうなずいた。
「君の声を証拠として王へ訴えるつもりはない」
予想外の言葉だった。
「信じていないのですか」
「信じることと、証明することは別だ」
私がいつも他人へ説明してきた言葉を、彼が先に言った。
「君が聞いたものを疑っているわけではない。だが、死者もすべてを知っているわけではないのだろう」
「はい」
「ならば、声は答えではない」
アルフォンス様は、私が書いた紙を見つめた。
「探すべき場所を示す手掛かりだ」
胸の奥で、何かが小さくほどけた。
力を否定されなかったからではない。
力を盲信されなかったことに、安堵したのだ。
「その通りです」
初めて、自然にそう答えられた。
アルフォンス様は立ち上がった。
「明日、王宮警備隊が作成した事故記録を確認する。聖竜院へも台帳の提出を求める」
「提出するでしょうか」
「しないだろうな」
あまりに即答だったので、少しだけ目を見開く。
「では、どうなさるのですか」
「拒否した記録を残す」
「拒否したこと自体を、後の証拠にするのですね」
「ああ」
力ずくで奪うのではない。
相手が何を隠そうとするかを見極める。
この人は、無口ではあるが、何も考えていないわけではない。
むしろ、言葉にする前に多くを考えすぎる人なのかもしれない。
「リーゼロッテ嬢」
名前を呼ばれ、顔を上げる。
「君は、もう一度あの骨に触れるつもりか」
「必要であれば」
「一度触れるたび、君の体はああなるのか」
「強い思いが残っている場合は」
「声は何度でも聞ける?」
「いいえ。触れるたび、遺品に残った思いは薄くなります。次は先ほどほど鮮明には聞こえないでしょう」
アルフォンス様は考え込むように黙った。
「なら、今は触れるな」
「ですが――」
「先に、生きている者が調べられることを調べる」
静かな声だった。
「死者の声を使い切る前に」
私は反論できなかった。
正しい。
それなのに、胸のどこかが焦っていた。
ミラは六年間、あの骨の中で子どもを探していた。
一刻も早く、何かをしてあげなければならない気がする。
「焦る気持ちは分かる」
アルフォンス様が言った。
「私の心は読めないはずですが」
「読んでいない」
彼は私の包帯を巻かれた左手を見る。
「君が自分の体より、あの骨を気にしているから分かる」
指摘され、言葉に詰まった。
「今夜は休め」
「まだ、確認したいことが――」
「それは明日でもできる」
「死者は待っています」
「君が倒れれば、さらに待たせることになる」
痛いところを突かれた。
私は視線を落とす。
「……分かりました」
「本当に?」
「努力します」
アルフォンス様は、ほんのわずかに眉を寄せた。
おそらく、納得していない。
けれど、それ以上は命じなかった。
扉の外から、控えめなノックの音がした。
治療師が温かい飲み物を持って戻ってきたのだろう。
アルフォンス様が扉へ向かう。
「グレイヴ辺境伯様」
私は彼を呼び止めた。
「ミラについて、まだ何かご存じなのですね」
彼の足が止まる。
振り返らないまま、沈黙が落ちた。
「ノクスが亡くなった場所と、ミラの遺骨が加工された場所がつながっているのではありませんか」
「今は話せない」
「ここでも、ですか」
「違う」
アルフォンス様の右手が、再び震え始める。
「俺自身が、まだ話せない」
その言葉だけで、尋ねるのをやめた。
秘密を守っているのではない。
口にすれば、六年前へ戻ってしまうのだ。
アルフォンス様は扉を開ける前に、低い声で言った。
「ただ、一つだけ確かなことがある」
彼がこちらを振り返る。
「ミラの骨が王都にあるのなら、あの夜について王都は何かを隠している」
そして、私が書いた紙の最後の一行へ視線を落とした。
――私の子を返して。
「俺は、ルゥの遺骸を見ていない」
心臓が強く鳴った。
「では……」
「六年前から、あの子が死んだ証拠は何もない」
アルフォンス様の銀色の目に、初めて感情らしいものが浮かんだ。
希望ではない。
希望を抱くことを恐れている人の目だった。
「ルゥは、生きているかもしれない」




