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死者の声を聞く令嬢は婚約破棄されましたが、最後の竜葬師として無口な辺境伯に望まれました  作者: 磯辺


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婚約破棄より大切なこと

「……ミラ」


 見知らぬ男が口にした名前に、私は炭筆を握ったまま顔を上げた。


 彼の銀色の目は、神官たちが運び出そうとしている竜骨細工から離れない。


 黒に近い灰色の礼装には、余計な装飾がなかった。


 胸元にあるのは、銀糸で縫われた一枚の翼。


 どこかで見た紋章だと思ったが、冷え切った頭では思い出せなかった。


「その名前に、心当たりがあるのですか」


 そう尋ねようとした。


 けれど、喉から出たのは掠れた息だけだった。


 男は私の口元を一度見ると、無理に答えを求めなかった。


「まだ話せないのか」


 私はうなずく。


「そうか」


 ただそれだけを言い、彼は私の背中からゆっくりと腕を離した。


 私が一人で立てることを確かめてから。


 それから男は、竜骨細工を運ぼうとしていた神官たちの前へ進み出た。


「待て」


 低い声だった。


 大声ではない。


 それでも、神官たちの足が止まった。


 白い祭服の男が振り返り、作り物めいた笑みを浮かべる。


「何か問題でもございますか、グレイヴ卿」


 グレイヴ。


 そこでようやく、胸元の翼が何を示すものか思い出した。


 アルフォンス・グレイヴ辺境伯。


 王国北東部、竜の棲む山々と国境を守る領主。


 かつては王国最年少の竜騎士団長と呼ばれた人物。


 その名は、王都に暮らしている私でも知っていた。


 ただし社交界へ姿を見せることがほとんどなく、顔までは知らなかった。


「その骨は、彼女を傷つけた」


 アルフォンス様は私を見ずに言った。


「治療師の診察と、落下原因の調査が終わるまで、動かすべきではない」


「聖具の管理は、我々聖竜院の管轄でございます」


「ここは王宮だ。事故が起きた以上、王宮警備隊にも調べる権限がある」


「事故、と決まったわけではありません」


 白い祭服の男は、今度は給仕の少女へ視線を向けた。


「そちらの娘が、不注意で固定具に触れた可能性もございますので」


 少女の肩が大きく揺れた。


「わ、わたしは……」


 声が震えている。


「朝のお掃除で、台座の埃を拭きました。でも、鎖には触っていません。本当です」


「子どもの記憶は曖昧なものです」


 神官は穏やかに言った。


 責めているようには聞こえない。


 だからこそ、たちが悪かった。


「貴重な聖具を破損させたとなれば、相応の責任が――」


「違います」


 掠れた声が、私の口から落ちた。


 自分の声とは思えないほど弱かった。


 それでも、少女と神官の間へ一歩踏み出す。


「お嬢様、声が……」


 少女が私を見上げる。


 私は喉へ手を当て、もう一度息を吸った。


 胸の奥に、まだ女竜の寒さが残っていた。


「この方の責任では、ありません」


 一語ずつ押し出すたび、喉が裂けそうに痛んだ。


「どうして、そう言い切れるのですかな」


 神官が私を見る。


「あなたも、落下した瞬間をご覧になっただけでしょう」


 私は答えず、床へ視線を落とした。


 竜骨細工が飾られていた壁際には、外れた留め具が転がっていた。


 銀色の金具。


 その断面を見て、違和感を覚える。


 壊れたのなら、断面は歪むか、裂けるはずだ。


 しかし床に落ちた留め具は、二つの部品へ綺麗に分かれていた。


 私はしゃがみ込み、手袋を着けた右手で拾い上げる。


 直接触れても、これは死者の遺品ではない。


 それでも今は、左手を剥き出しにする気にはなれなかった。


 留め具の内側には、小さな溝があった。


 本来そこへ通されているはずの固定針がない。


「壊れたのではありません」


 私は金具をアルフォンス様へ見せた。


「固定するための針が、抜かれています」


 周囲がざわめいた。


 アルフォンス様は金具を受け取ると、光へ透かすように見る。


「確かだ。折れた跡がない」


 近くにいた王宮警備隊の騎士も進み出た。


「朝の点検時には、異常なしと報告されています」


「ならば、祝宴が始まった後に誰かが抜いたというのか?」


「給仕の娘がやったのでは?」


 招待客たちの間から声が飛ぶ。


 少女が唇を噛む。


 彼女の小さな手では、壁の高い位置にある留め具へ届かない。


 踏み台を使えば別だが、人の多い祝宴中にそんなことをすれば、誰かが見ていたはずだ。


「彼女には届きません」


 私が言うと、別の貴族が鼻で笑った。


「かばっているだけではないのか。婚約を破棄された直後に騒ぎを起こし、注目を集めようとしているとも考えられる」


 あちこちで囁きが広がる。


「確かに、あまりにも都合がよすぎる」


「竜骨へ触れて倒れるなど、芝居ではないの?」


「死者の声が聞こえると言えば、誰も確かめられませんものね」


 言葉の一つ一つが胸へ刺さった。


 冷え切っていた指が、さらに冷たくなる。


 婚約を解消された直後。


 確かに、私が何を言っても腹いせに見えるのだろう。


 セドリック様の言う通り、死者の声は誰にも確かめられない。


 私が嘘をついていると決めつけられても、証明する方法はない。


「もういい、リーゼロッテ」


 セドリック様が歩み寄ってきた。


「君は混乱している。今日は帰った方がいい」


「混乱は、しておりません」


「婚約を解消された直後なんだ。平静でいられるはずがないだろう」


 その言葉に、奇妙な息苦しさを覚えた。


 私の言葉は信じないのに、私の感情は分かったつもりでいる。


「セドリック様は、先ほど私と婚約を解消なさったはずです」


「それとこれとは別だ」


「いいえ」


 声はまだ掠れていたが、先ほどよりは出るようになっていた。


「別ではありません」


 セドリック様の眉が寄る。


「私が何を感じているかを決めることも、今後どのように振る舞うべきかを命じることも、もうあなたのお役目ではありません」


 広間が静まった。


 言ってから、胸の奥が小さく痛んだ。


 十一年間、彼へ向かってこんな言い方をしたことはなかった。


 いつも彼の言葉を受け入れた。


 困らせないように。


 嫌われないように。


 その結果、最後まで彼は私が何を考えているのか知らなかったのかもしれない。


 そして私も、彼が何を恐れているのか知ろうとしなかった。


「君は……」


 セドリック様が息を詰める。


「そうやって、また死者の話を優先するのか。自分の婚約が終わったというのに」


 私は返事をしなかった。


 優先しているつもりはなかった。


 ただ、目の前に助けを求める少女がいる。


 持ち去られようとしている遺骨がある。


 それを放置して、自分の悲しみだけを抱えて帰ることはできなかった。


「そういうところだ」


 セドリック様の声が低くなる。


「人の気持ちより、死者の言葉を選ぶ。今も、自分がどれほど異様に見えているか分かっていない」


 彼は床に落ちた留め具でも、泣いている少女でもなく、私だけを見ていた。


「そういうところが、気味が悪いんだ」


 また同じ言葉だった。


 今度は、不思議と先ほどほど痛くなかった。


 私が慣れたわけではない。


 少女が私の袖を小さくつかんだからだ。


「お嬢様」


 少女は涙を拭いもせず、私を見上げていた。


「助けてくださって、ありがとうございました」


 その一言で、胸に刺さっていたものが少しだけ抜けた。


 私は少女の前へしゃがむ。


「お怪我は、本当にありませんか」


「はい」


「では、今は誰かと一緒にいてください。一人になってはいけません」


「でも、わたしのせいで……」


「あなたのせいではありません」


 今度は、はっきり言えた。


「仮に朝、台座へ触れていたとしても、掃除をするよう命じたのは大人です。あなた一人へ責任を負わせることではありません」


 少女の顔が歪んだ。


「怒られませんか」


「怒らせません」


 それは、私が言えるようなことではなかった。


 伯爵令嬢であっても、王宮の使用人を守る権限はない。


 それでも、少女を一人にしたくなかった。


「私が証言します」


 少女の手から少しだけ力が抜ける。


 背後で、白い祭服の神官が息を吐いた。


「お優しいことです。しかし聖具をこのまま放置するわけには参りません」


「放置する必要はない」


 アルフォンス様が答えた。


 彼は王宮警備隊の騎士へ、先ほどの留め具を渡す。


「警備隊の管理下へ置け。誰にも触れさせるな」


「しかし、グレイヴ卿」


「この骨には、聖竜院の管理番号が刻まれている」


 神官の目が細くなった。


「当然でしょう。当院の所有物なのですから」


「聖具にも、あのような番号を刻むのか」


「管理上必要なものです」


「ならば台帳があるはずだ」


 アルフォンス様は淡々と言った。


「番号に対応する、竜の種類、部位、入手時期、入手場所。すべて提出してもらおう」


 神官の笑みが固まった。


 ほんのわずかな変化。


 けれど、私は見逃さなかった。


「王宮の祝宴中に起きた事故です。辺境伯閣下といえど、聖竜院の内部資料を要求する権限は――」


「では王へ願い出る」


 アルフォンス様は遮った。


「この場には証人が百人以上いる。給仕一人の責任として終わらせるには、少々騒ぎが大きすぎる」


 王宮警備隊の騎士が、竜骨細工を運んでいた神官たちの前へ立った。


「調査が終わるまで、こちらで預かります」


 白い祭服の男はしばらく黙っていた。


 やがて、ゆっくりと頭を下げる。


「承知いたしました。ただし、神聖な遺物です。取り扱いには十分ご注意ください」


 彼が踵を返す。


 そのまま立ち去るかと思ったが、私の横を通る際に足を止めた。


「アルヴァ伯爵令嬢」


 柔らかな声だった。


「死者の声に耳を傾けすぎると、生きている者の声が聞こえなくなることもございます」


 忠告の形をしている。


 けれど、私には警告に聞こえた。


「ご心配、ありがとうございます」


 私は答えた。


「ですから私は、どちらの声も聞きます」


 神官は微笑んだ。


 目だけは、まったく笑っていなかった。


「それは、さぞお疲れになることでしょう」


 白い祭服が人々の間へ消えていく。


 緊張が切れた途端、膝から力が抜けそうになった。


 けれど、倒れる前に自分で近くの椅子へ手をついた。


 アルフォンス様がこちらを見る。


「治療師を呼ぶ」


「その前に」


 私は竜骨細工へ視線を向けた。


 王宮警備隊が布を掛け、周囲を封鎖している。


「先ほどの番号を、書き残させてください」


「覚えているのか」


「はい」


 BK・四七二・胸骨三。


 忘れるはずがなかった。


 アルフォンス様は何も言わず、私へ紙と炭筆を差し出した。


 私は番号を書き、その下へ、記憶の中で見たものを記す。


 石壁。


 鉄の鎖。


 薬品の臭い。


 白い祭服。


 幼い黒竜。


 最後に、あの三つの言葉。


 寒い。


 帰りたい。


 子を返して。


 書き終えた紙を見ていると、左手の震えが強くなった。


 婚約は終わった。


 十一年という時間も、指輪を置いた瞬間に終わった。


 本当なら今は、そのことを考えるべきなのかもしれない。


 泣くべきなのかもしれない。


 けれど私の耳には、もう聞こえないはずの声が残っていた。


 ――私の子を返して。


 このまま帰ることはできない。


 この声を、聞かなかったことにはできない。


 私は紙を握りしめた。


 その横で、アルフォンス・グレイヴ辺境伯が、布に覆われた竜骨を見つめていた。


 彼の右手は、まだかすかに震えている。


「グレイヴ卿」


 呼びかけると、彼がこちらを向いた。


「先ほど、ミラとおっしゃいましたね」


 銀色の目が、わずかに揺れた。


 けれど彼は、すぐには答えなかった。


 その沈黙だけで分かった。


 あの死んだ竜を知っている。


 そして彼もまた、まだ口にできない何かを抱えている。


 やがてアルフォンス様は、低い声で言った。


「ここでは話せない」


 彼は神官たちが去った扉を見た。


「誰が聞いているか分からない」


 その言葉と同時に、大広間の竜骨灯が一度だけ強く瞬いた。


 青白い光が、招待客たちの顔を照らす。


 天井を見上げた私は、初めて考えた。


 この王都には、いったいどれほどの竜の骨が使われているのだろう。


 そして、その一つ一つに。


 まだ誰にも届いていない声が、残っているのだろうか。


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