素手で受け止めた竜骨
白い骨が、私の剥き出しの左手へ触れた。
その瞬間、夜会場が消えた。
音も、光も、床を踏む感覚さえも。
代わりに全身を包んだのは、凍えるような寒さだった。
冷たい。
指先からではない。
骨の奥から、血の中へ氷を流し込まれたような寒さ。
息を吸おうとしても、胸が動かない。
視界の端で青白い光が明滅する。
けれど、それは夜会場を照らす竜骨灯ではなかった。
暗い場所だった。
石造りの壁。
床を引きずる金属の音。
鼻を刺す薬品の臭い。
何かが首と翼を締めつけている。
これは、私の記憶ではない。
竜骨に残された、死者の記憶だ。
――寒い。
女の声だった。
人間の声よりも低く、深い。
声として聞こえているのに、それと同時に、広い空を失った苦しみが胸へ押し寄せてくる。
翼を広げたい。
飛びたい。
けれど、動かせない。
目の前を、白い衣を着た人間たちが行き来していた。
誰もこちらの目を見ない。
誰も名前を呼ばない。
彼らが見ているのは、鱗と、牙と、骨だけだった。
――帰りたい。
黒い山々が一瞬だけ見えた。
夜空を映したような湖。
岩壁に開いた大きな巣穴。
その入口に、二つの影が立っている。
一頭は大きな黒竜。
もう一頭は、まだ翼も小さな幼竜だった。
胸の奥が、引き裂かれるように痛む。
この痛みは、拘束具によるものではない。
あの場所へ帰れないと理解した者の痛みだ。
――あの子を。
映像が激しく揺れた。
幼竜が人間の腕に抱えられている。
細い翼が暴れ、鋭い爪が白い衣を裂く。
小さな口が開いている。
けれど声は聞こえない。
ただ、助けを求めていることだけは分かった。
母親を呼んでいる。
女竜の中で、恐怖が怒りへ変わった。
鎖が鳴る。
翼が無理に引かれる。
骨が軋む。
痛い。
痛い。
痛い。
それでも女竜の思いは、自分の痛みへ向かなかった。
――私の子を返して。
その言葉と同時に、左の胸を焼かれるような激痛が走った。
「……っ!」
息が漏れた。
夜会場の光が戻る。
目の前には、白い竜骨。
けれど、どこからが私の体で、どこからが死んだ竜の記憶なのか分からなかった。
左胸が痛い。
翼が痛い。
首を締めつける鎖が苦しい。
私は人間だ。
翼などない。
分かっているのに、体が理解してくれない。
「お嬢様!」
誰かの腕が、私の肩をつかんだ。
竜骨細工の重みが一気に増す。
私は巨大な装飾全体を受け止めたわけではなかった。
落下した翼の先端、その一部へ手を添え、給仕の少女から軌道を逸らしただけだ。
それでも、長く加工された竜骨は人ひとりで支えられる重さではない。
膝が床へ落ちた。
遅れて駆けつけた近衛兵たちが、傾いた骨組みを左右から持ち上げる。
「こちらへ!」
「支柱を入れろ!」
「誰か、治療師を!」
騒ぎの中で、私は左手を竜骨から離した。
触れた瞬間よりも、離した時の方がつらかった。
声が途切れる。
助けを求める思いだけを置き去りにして、自分だけ安全な場所へ戻ってきたように感じた。
「大丈夫ですか?」
先ほどの給仕の少女が、床に座り込んだまま私を見ていた。
年は十三、四歳ほどだろう。
顔は真っ青で、両手を胸の前で握りしめている。
怪我はないようだった。
「ええ」
そう答えようとした。
しかし、声が出なかった。
喉を開いても、息だけが漏れる。
強い思いに触れた後、声が出なくなることは以前にもあった。
母が教えてくれた。
死者の声を深く受け取りすぎると、生きている自分の声が一時的に追い出されることがある、と。
私は少女へうなずいてみせた。
「よかった……」
少女の目から涙がこぼれる。
「わたしのせいです。お掃除をしていた時に、留め具へ触ってしまったのかも……」
違う。
少女が触れた程度で外れるような留め具なら、それを設置した側の責任だ。
そう伝えたかったが、声が戻らない。
私は右手を伸ばし、少女の握りしめられた手へ重ねた。
右手には手袋を着けたままだ。
少女の手は震えていた。
「リーゼロッテ」
セドリック様の声がした。
顔を上げると、彼は数歩離れた場所で立ち尽くしていた。
先ほどまで婚約解消を告げていた人とは思えないほど、顔色を失っている。
「君は、何をしているんだ」
何を、と言われても答えようがない。
少女を助けただけだ。
けれど彼が見ているのは少女ではない。
竜骨へ触れた私の左手だった。
「まさか、今の骨からも……」
私は答えなかった。
答えられなかった。
沈黙を肯定と受け取ったのだろう。
セドリック様は眉を寄せた。
「こんな時にまで、君は――」
「お待ちください」
別の声が割って入った。
聖竜院の紋章が刺繍された白い祭服の男が、近衛兵たちの間から進み出る。
年は四十ほど。
細い顔に柔らかな微笑を浮かべているが、その視線は私ではなく竜骨細工へ向けられていた。
「こちらは聖竜院からお預けしている、由緒ある聖具でございます。これ以上傷つける前に、すぐ安全な場所へ移しましょう」
男が片手を上げる。
彼に従っていた神官たちが、竜骨細工を運び始めた。
待って。
声に出せないまま、私は立ち上がろうとした。
視界が揺れる。
足に力が入らない。
強い耳鳴りがして、遠くで鳴っているはずの楽器の音が、すぐ耳元でかき鳴らされているように響いた。
「動かないでください!」
給仕の少女が私の腕を支えようとする。
けれど、このまま持っていかせるわけにはいかなかった。
あの竜はまだ、子どもを探している。
死者の願いを、そのまま実行すればいいわけではない。
声が正しいとも限らない。
けれど、何も確かめないまま聞かなかったことにはできない。
私は床へ落ちていた左手の手袋を拾った。
指先が震え、うまく着けられない。
一度目の接触は終わった。
次に触れても、先ほどほど鮮明な記憶は得られないだろう。
だからこそ、今見たものを忘れてはいけない。
石壁。
鎖。
薬品の臭い。
白い祭服。
胸を焼く痛み。
連れ去られる幼竜。
私はそれらを頭の中で繰り返した。
神官たちが竜骨細工を持ち上げる。
傾いた翼の裏側が、こちらへ向いた。
その時、私は白い骨の内側に、黒い文字が刻まれているのを見つけた。
装飾模様ではない。
竜を讃える聖句でもない。
小さな数字と記号の列。
――BK・四七二・胸骨三。
その下には、聖竜院の紋章。
さらに、赤い染料で小さく一本の線が引かれていた。
まるで、品物を管理するための番号だった。
神聖な竜の遺骨へ刻むには、あまりにも無機質な印。
私は神官の祭服を見た。
記憶の中で、女竜を取り囲んでいた人々と同じ白。
同じ紋章。
偶然かもしれない。
死者が恐怖の中で見たものを、私が間違って解釈している可能性もある。
それでも、確かめなければならない。
私はまだ震える指で、竜骨の裏側を指さした。
「何ですかな?」
白い祭服の男が微笑んだまま尋ねる。
私は口を開いた。
声は、まだ出ない。
代わりに、番号を指したまま、男の顔を見つめた。
その微笑が、ほんの一瞬だけ消えた。
見間違いではなかった。
彼は、この番号が何を意味するのか知っている。
男はすぐに表情を戻し、竜骨を運ぶ神官へ命じた。
「急ぎなさい。この聖具は損傷している。部外者の目に触れさせてはなりません」
部外者。
先ほどまで、祝宴の中心に飾られていた物なのに。
私は立ち上がろうとした。
けれど、再び足から力が抜けた。
倒れる。
そう思った時、横から伸びてきた腕が私の背を支えた。
「無理をするな」
低い声だった。
私は、その人物を知らなかった。
黒に近い灰色の礼装。
日に焼けた肌。
王都の貴族には珍しい、剣だこの残る手。
濃い紺色の髪の下から、冷たい銀色の目が竜骨細工を見つめている。
彼の右手が、かすかに震えていた。
けれど、その腕は私をしっかりと支えていた。
男は竜骨の裏側に刻まれた番号を見る。
次いで、聖竜院の紋章を見る。
そして最後に、私へ視線を向けた。
「声が、聞こえたのか」
問いかけに、嫌悪も嘲笑もなかった。
ただ、答えを恐れながらも、聞かなければならないと決めた人の目だった。
私は小さくうなずいた。
男の表情が硬くなる。
「何と言っていた」
声は出ない。
私は震える右手で、近くに落ちていた給仕用の紙片と炭筆を取った。
紙の上へ、三つの言葉を書く。
寒い。
帰りたい。
子を返して。
男はその文字を読み、しばらく動かなかった。
やがて、ひどくかすれた声で呟いた。
「……ミラ」
その名を呼ぶ彼の右手は、先ほどよりも強く震えていた。




