死者と話す女は妻にできない
「リーゼロッテ・アルヴァ。君との婚約を解消したい」
その言葉は、楽団が次の曲を奏で始める直前に告げられた。
高く澄んだ弦の音が一つだけ響き、途切れる。
王都セレスティアの冬至祝宴。
天井から吊り下げられた竜骨灯が青白く輝く大広間で、百を超える視線が私とセドリック様へ集まっていた。
今夜、この場所へ呼ばれた時点で、何か話があることは察していた。
けれど、まさかこれほど大勢の前で告げられるとは思っていなかった。
「……理由を、お聞きしてもよろしいでしょうか」
自分でも驚くほど、声は平静だった。
右手を左手に重ね、震えを隠す。
喪に服しているわけでもないのに、私はいつも黒い手袋を着けていた。
死者の強い思いが残った品へ、素手で触れないためだ。
そのことを、セドリック様もよく知っている。
「理由なら、君自身が一番分かっているだろう」
彼は私を正面から見なかった。
淡い金色の髪も、整った横顔も、十一年前に初めて会った時とほとんど変わらない。
変わったのは、私たちの間に積み重なった沈黙の量だけだった。
「君の力だ、リーゼロッテ」
広間のあちこちで、小さな囁きが生まれる。
「死者の遺品に触れ、その声を聞く。葬儀の場で、亡くなった者の言葉を口にする。そんな力を持つ女性を、ローレン公爵家の妻として迎えることはできない」
誰かが息を呑んだ。
別の誰かが、「やはり本当だったのね」と囁く。
私は視線を落とし、自分の手袋を見た。
死者と話しているわけではない。
私は彼らへ問いかけることもできなければ、返事を受け取ることもできない。
ただ、その人が最期まで手放せなかった思いが、遺された品に染みついていることがある。
それへ素手で触れると、ほんの短い言葉や記憶が流れ込んでくる。
それだけだ。
けれど、その説明をセドリック様が求めたことは、一度もなかった。
「先月の葬儀でも、君は伯父上の時計に触れて、妙なことを言ったそうだな」
「ローレン侯爵様が、奥様へ謝りたがっておられたことですか」
「そうだ」
セドリック様の声がわずかに硬くなる。
「葬儀の席で、長年連れ添った妻に秘密があるような言葉を残せば、家族がどれほど混乱するか考えなかったのか」
「ですから、私はセドリック様にだけお伝えしました」
「伝えるべきではなかった」
即座に返された言葉に、胸の奥が冷えた。
私はあの時、亡くなった侯爵様の懐中時計に偶然触れた。
聞こえたのは、苦しげな声だった。
――庭の樹の下に。
――あれを、妻へ。
調べると、庭の古木の根元から、若い頃に侯爵様が妻へ宛てた手紙が見つかった。
渡せなかった謝罪と、何十年分もの感謝が書かれていた。
侯爵夫人は手紙を読み、静かに泣いた。
私は、それでよかったのだと思っていた。
「伯母上は、あれ以来、屋敷へ閉じこもっている」
「侯爵夫人は悲しんでおられるだけです。手紙を受け取ったことを後悔されてはいません」
「どうして君にそれが分かる?」
分からない。
生きている人の心を読む力など、私にはない。
侯爵夫人が手紙を胸へ抱き、私へ「ありがとう」と言ってくださった。その言葉を信じているだけだ。
「分かったような顔で、死者の意思を持ち出す。君のそういうところが、私は昔から――」
セドリック様は一度言葉を止めた。
言わないでほしい。
そう願ってしまった自分が、少しだけ情けなかった。
「気味が悪かった」
広間が、ひどく静かになった。
その言葉だけは聞きたくなかったのだと、言われて初めて気づいた。
十一年間、私たちは婚約者だった。
幼い頃、庭園で転んだ私へ、彼が手を差し伸べてくれたことがある。
母を亡くした後、何も食べられなくなった私のために、彼が甘い焼き菓子を届けてくれたこともあった。
それらがすべて偽りだったとは思わない。
けれど彼はずっと、私の手袋の下にあるものを恐れていたのだろう。
それを知らなかったのは、私だけだった。
「承知いたしました」
喉の奥に何かがつかえていた。
それでも、声は震えなかった。
私はこういう時、泣き方が分からない。
母が亡くなった時も、父が私の力について口を閉ざすよう命じた時も、私は「大丈夫です」と答えてきた。
きっと今日も、同じようにできる。
「両家で必要な手続きを進めてください。私から異議を申し立てるつもりはございません」
「……それだけか?」
セドリック様が、初めて私をまっすぐ見た。
何を期待しているのだろう。
泣いて取りすがることだろうか。
人前で秘密を暴かれたと責めることだろうか。
それとも、力を二度と使わないと誓うことだろうか。
「ほかに、何を申し上げればよろしいでしょう」
「君が今後、その力を使わないと約束するなら、完全に道が閉ざされたわけではない」
思わず、彼の顔を見返した。
「遺品へ触れなければいい。常に手袋を着け、葬儀や墓地へ近づかなければ、普通の令嬢として暮らせる。しばらく王都を離れて噂が収まるのを待てば――」
「それは、婚約を解消するというお話ではなかったのですか」
「君の態度次第だと言っている」
彼は私に選択肢を与えているつもりなのだ。
おそらく、本気で。
死者の声を聞かず、見つけた遺品から手を離し、何も知らないふりをする。
そうすれば私は、再び彼の隣へ戻れるかもしれない。
かつての私なら、その言葉にすがっただろうか。
「セドリック様」
私は静かに息を吸った。
「私が聞かなければ、誰にも届かない声があります」
「また死者の話か」
「はい」
誰かが、あきれたように笑った。
けれど、不思議と恥ずかしくはなかった。
「死んだ者は、もう自分で言い直すことも、誤解を解くこともできません。聞こえたものがすべて正しいとは限りません。ですから、私は調べます。確かめます。そのうえで、生きている方へお伝えします」
「それが迷惑だと言っているんだ」
「迷惑になることもあるでしょう」
私は否定しなかった。
死者の言葉が、生きている人を幸せにするとは限らない。
謝罪が間に合わないこともある。
真実など知らない方がよかったと、責められたこともある。
「それでも、最初から聞こえなかったことにはできません」
セドリック様の顔から、わずかな迷いが消えた。
「やはり、君とは分かり合えない」
「そうかもしれません」
口にしてしまえば、驚くほど静かな結論だった。
私は左手の手袋へ右手をかけた。
指先からゆっくりと布を引き抜く。
冷たい空気が、久しぶりに素肌へ触れた。
婚約指輪は、母が亡くなった翌年に贈られたものだった。
銀色の輪に、小さな青い宝石が一つ。
十一年間、一度も外したことはない。
指輪を抜くと、そこだけ肌の色が薄く残っていた。
「こちらを、お返しいたします」
セドリック様の前へ差し出す。
彼はすぐには受け取らなかった。
「……本当に、それでいいのか」
何を今さら、と言うことはできた。
けれど、彼の目に浮かんだのは後悔ではない。
自分の思った通りに私が動かなかったことへの戸惑いだった。
「はい」
私は指輪を、近くにいた従者が差し出した銀盆へ置いた。
小さな金属音がした。
十一年という時間が終わる音にしては、あまりにも軽かった。
手袋を着け直そうとした時だった。
広間の奥で、甲高い音が鳴った。
金属の留め具が外れるような音。
振り返る。
壁際には、聖竜院から祝宴のために貸し出されたという、巨大な竜骨細工が飾られていた。
翼を広げた竜を模した、白く美しい聖具。
その前に、まだ幼い給仕の少女が立っていた。
少女は頭上を見上げたまま、動けずにいる。
竜骨細工を支えていた鎖が外れ、白い翼がゆっくりと傾いた。
「危ない!」
誰かが叫ぶ。
私は考えるより先に走っていた。
左手には、まだ手袋を着けていない。
少女を突き飛ばし、落ちてくる竜骨へ手を伸ばす。
白い骨が、私の剥き出しの掌へ触れた。




