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死者の声を聞く令嬢は婚約破棄されましたが、最後の竜葬師として無口な辺境伯に望まれました  作者: 磯辺


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48/59

泣けなかった母親

 翌朝。


 村の通りに。


 パンの匂いは。


 まだなかった。


 マルタさんの店の煙突からも。


 煙は出ていない。


 けれど。


 扉だけは。


 開いていた。


「……入っていいのでしょうか」


 私は。


 店の前で立ち止まった。


「開いているなら、普通は営業中だ」


 隣で。


 アルフォンス様が言う。


「パン屋の場合は」


「パンがある時だけでは?」


「それは俺に聞くな」


「領主なのに」


「領主はパン屋の営業規則まで決めない」


「そうなのですね」


「決めていたら怖いでしょう」


 後ろから。


 アンナが言った。


「パンの焼き上がりまで辺境伯令が必要になります」


「確かに」


「お前たち」


 アルフォンス様が。


 少しだけ眉を寄せる。


 その時。


 店の奥から。


「聞こえてるよ」


 声がした。


 マルタさんだった。


「入るなら入りな」


「失礼します」


 店へ入る。


 昨日まで。


 薄く埃をかぶっていた作業台は。


 きれいに拭かれていた。


 粉袋が。


 一つ。


 その上にある。


 口も。


 開いている。


 木の鉢。


 こね台。


 量り。


 水差し。


 道具だけが。


 並んでいた。


 窯は。


 冷たいままだ。


「焼くんですか」


 私は訊いた。


「焼かないよ」


「はい」


「……そこで」


「なんで残念そうな顔しないの」


「してほしいのですか?」


「そうじゃないけど」


 マルタさんは。


 粉袋へ手を入れる。


 白い粉を。


 ひと握り。


 持ち上げた。


 指の隙間から。


 さらさらと。


 落ちていく。


「出してみるって言ったから」


「出してみただけ」


「はい」


「昨日の」


 声が。


 少し小さくなる。


「テオの言葉を聞いたからって」


「今日から元通りにできるほど」


「器用じゃない」


「元通りにしなくていいと思います」


「……またそれ?」


「はい」


「ほんと」


「役に立たない慰め方するね」


「慰めているつもりはありません」


「もっと悪いよ」


 でも。


 マルタさんの声には。


 昨日までの刺が。


 少しだけ。


 減っていた。


          ◇


「今日は休めと言われています」


 私は。


 椅子へ座る。


 右手には。


 手袋をしたまま。


 昨日。


 テオさんの木剣へ触れたあと。


 手の冷えと。


 軽い頭痛。


 味覚の低下が残った。


 夜には。


 ほとんど戻ったけれど。


 オスカー先生から。


 今日は能力を使わないよう。


 言われている。


「聞いてないよ」


 マルタさんが言う。


「何をですか」


「あんたが」


「昨日」


「あれだけ痛そうにしてたのに」


「今日も普通に歩いてるから」


「もう平気なのかと思った」


「ほとんど平気です」


「ほとんど?」


「完全ではありません」


 自分で。


 口にしてから。


 少しだけ。


 違和感があった。


 以前なら。


 大丈夫です。


 と。


 答えていたはずだ。


「だから」


「今日は聞きません」


「死んだ人の声を?」


「はい」


「……そう」


 マルタさんは。


 粉のついた手を。


 見つめた。


「だったら」


「生きてる私の話くらい」


「聞ける?」


「はい」


 私は。


 すぐに答えた。


「そちらなら」


「いくらでも」


「……いくらでもは」


「言いすぎだろ」


 アルフォンス様が言う。


「オスカーに怒られる」


「話を聞くだけですよ」


「お前は」


「話を聞くだけで夜までいることがある」


「……」


「否定しないのですか」


 アンナに言われた。


「思い当たることがありました」


「改善してください」


「はい」


 マルタさんが。


 こちらを見る。


「なんなの」


「あんたたち」


「よく言われます」


「それ」


「あんたの口癖?」


「最近そうなりつつあります」


          ◇


 マルタさんは。


 小さな椅子へ腰を下ろした。


 粉のついた手を。


 膝の上へ置く。


「昨日」


「泣いたでしょ」


「はい」


「……見てた?」


「目の前にいましたので」


「忘れて」


「難しいです」


「そこは嘘でも忘れたって言いなよ」


「嘘は苦手です」


「知ってる」


 マルタさんは。


 鼻から息を吐く。


「昨日が」


「初めてだった」


 私は。


 何も言わず。


 続きを待った。


「テオが死んでから」


「ちゃんと泣いたの」


「昨日が」


「初めて」


「……」


「葬式でも」


「泣かなかった」


 粉のついた指が。


 布地を掴む。


「泣けなかったの」


「悲しくなかったわけじゃない」


「そんなわけない」


「でも」


「泣いたら」


「終わる気がした」


「何がですか」


「母親でいること」


 その言葉に。


 私は。


 息を止めた。


「テオが生きてる間は」


「熱が上がれば布を替えて」


「水を飲ませて」


「薬を探して」


「眠れなければ背中をさすって」


「やることがあった」


「でも」


「死んだら」


「何もなくなった」


 マルタさんが。


 作業台を見る。


「村の人が来て」


「体を拭こうって言ってくれて」


「服を替えて」


「棺を作って」


「墓を掘って」


「花を用意して」


「やることは」


「たくさんあった」


「だから」


「全部やった」


「自分で?」


「うん」


「誰にも任せなかった」


 私は。


 少しだけ。


 手袋の指を握った。


「任せたら」


「私が母親じゃなくなる気がした」


「……」


「棺の蓋も」


「私が閉めた」


「土も」


「最後までかけた」


「みんな」


「マルタは強いって言った」


 口元が。


 歪む。


「強いわけないのにね」


「はい」


 マルタさんが。


 私を見る。


「そこは否定してよ」


「無理に強かったことにしなくてもいいと思います」


「……」


「怖かったのですよね」


 しばらく。


 返事はなかった。


 やがて。


「怖かった」


 小さく。


 答えた。


「泣いたら」


「本当に」


「テオが死んだって」


「分かっちゃう気がして」


「だから」


「泣かなかった」


「違うな」


 マルタさんが。


 首を振る。


「泣けなかった」


          ◇


「葬式が終わった日の夜」


 マルタさんは。


 静かに続ける。


「村の人が」


「食べ物を置いていってくれた」


「スープと」


「硬いパン」


「私は」


「昼から何も食べてなくて」


「腹が減ってた」


 手が。


 止まる。


「食べたんだ」


「はい」


「テオを」


「埋めた日の夜に」


「私」


「腹が減ったんだよ」


 その言葉に。


 私は。


 すぐには。


 答えられなかった。


「おかしいでしょ」


「いいえ」


「子どもが死んだのに」


「母親は腹が減るんだ」


「……」


「眠くもなる」


「喉も渇く」


「朝になったら」


「目も覚める」


「次の日も」


「その次の日も」


「私は」


「生きてた」


 マルタさんの声が。


 震え始める。


「テオは」


「もう何も食べないのに」


「私は食べられる」


「テオは眠ったら」


「もう起きないのに」


「私は朝になったら」


「勝手に目が覚める」


「それが」


「許せなかった」


「誰を?」


「私を」


 即答だった。


「自分を」


「ずっと」


「許せなかった」


          ◇


 母が亡くなった朝を。


 思い出した。


 窓の外は。


 妙に明るかった。


 それが。


 腹立たしかった。


 どうして。


 朝が来るのだろう。


 どうして。


 鳥が鳴くのだろう。


 どうして。


 使用人たちは。


 廊下を歩くのだろう。


 母が。


 もういないのに。


 世界は。


 昨日と同じように。


 続いていた。


 父は。


 ほとんど食べなかった。


 私は。


 父より。


 少しだけ。


 食べた。


 そのことを。


 なぜか。


 覚えている。


 誰かが。


 温かいものを食べるようにと。


 皿を置いてくれた。


 私は。


 何口か食べた。


 味は。


 ほとんど。


 覚えていない。


 けれど。


 食べたという事実だけは。


 覚えている。


 母が死んだのに。


 私は。


 食べた。


 それを。


 悪いことだと。


 はっきり思った記憶はない。


 ただ。


 その後。


 私は。


 母のいない食卓で。


 できるだけ。


 静かに食べるようになった。


 美味しいと言わなくなった。


 欲しいものを。


 もう一皿。


 頼まなくなった。


 そうしていれば。


 何かを。


 裏切らずに済むような。


 気がしていた。


「……リーゼロッテ?」


 呼ばれて。


 顔を上げる。


「すみません」


「今」


「どこ見てたの」


「少し」


「母のことを」


「思い出していました」


 言ってから。


 胸の奥が。


 小さく痛んだ。


 いつもなら。


 ここで。


 話を戻しただろう。


 私のことは。


 関係ありません。


 と。


 でも。


 今回は。


 少しだけ。


 続けた。


「母が亡くなった翌朝」


「私も」


「食事をしました」


「……」


「たぶん」


「空腹だったのだと思います」


「覚えていませんが」


「でも」


「食べたことだけは」


「覚えています」


「罪悪感があった?」


「今まで」


「そうだとは」


「考えたことがありませんでした」


「じゃあ」


「違うの?」


「分かりません」


「……分かんないんだ」


「はい」


 私は。


 自分の手を見る。


「ただ」


「母が亡くなってから」


「以前と同じように」


「食卓を楽しむのが」


「苦手になった気はします」


 そこまで言って。


 止める。


 何を。


 避けるようになったのか。


 まだ。


 自分でも。


 うまく掴めない。


「そっか」


 マルタさんが言った。


「あんたも」


「そういうのあるんだ」


「あるようです」


「自分のことなのに」


「他人事みたいだね」


「……よく」


「言われると思います」


「まだ言われてないの?」


「これから増えそうです」


          ◇


「パンを焼けなくなったのも」


 マルタさんが。


 窯を見る。


「テオがいないからだけじゃない」


「焼いたら」


「私が生きてるみたいだったから」


「……」


「当たり前なんだけどね」


「生きてるんだから」


「でも」


「店を開けて」


「粉をこねて」


「パンを焼いて」


「美味しいって言われて」


「金をもらって」


「また明日も焼いて」


「そんなことしたら」


「私だけ」


「普通の生活に戻るみたいで」


 指が。


 作業台の傷をなぞる。


「テオを」


「置いていくみたいだった」


「だから」


「焼かなかったのですか」


「うん」


「窯に火を入れなければ」


「時間が止まると思ってた」


 私は。


 黒竜ノクスの墓の前で。


 アルフォンス様が。


 震える右手で。


 土を落とした姿を思い出す。


 六年間。


 止まっていた時間。


 生きると。


 自分の声で言った人。


 それでも。


 震えは。


 消えなかった。


「止まりましたか」


 私が訊くと。


 マルタさんは。


 苦笑した。


「止まるわけないじゃない」


「朝は来るし」


「子どもは育つし」


「村は枯れるし」


「私の髪には」


「白いの増えるし」


「腹は減る」


「はい」


「最悪だよ」


「そうですね」


「また否定しない」


「時間が進むことが」


「嬉しいとは限りませんから」


「……」


「置いていかれるように」


「感じる時もあります」


「そう」


「それ」


 マルタさんの目から。


 一筋。


 涙が落ちた。


「私が」


「テオを置いていくんじゃなくて」


「時間に」


「私だけ連れていかれるみたいだった」


 私は。


 頷いた。


「はい」


 それ以上。


 何も言わなかった。


          ◇


 しばらく。


 店の中には。


 粉袋が擦れる音だけがした。


 やがて。


 マルタさんが。


 ぽつりと言う。


「昨日ね」


「テオの声を聞いて」


「少し」


「嬉しかった」


「はい」


「それで」


「嬉しいと思った自分が」


「また嫌になった」


「……」


「死んだ息子の声で」


「救われたみたいになって」


「そんなの」


「都合良すぎるでしょ」


「救われたのですか」


 訊くと。


 マルタさんが。


 黙る。


「……分からない」


「なら」


「まだ決めなくていいと思います」


「でも」


「少し楽になった」


「それも」


「はい」


「楽になっていいの?」


「私には」


「許可を出せません」


「……」


「禁止することも」


「できません」


「ほんと」


「使えない竜葬師だね」


「申し訳ありません」


「でも」


 マルタさんは。


 涙を拭った。


「少し」


「ありがたい」


 私は。


 返事をしなかった。


 ありがとうございます。


 と言うのも。


 違う気がした。


 だから。


 ただ。


 そこにいた。


          ◇


 昼近くになって。


 店の前に。


 小さな影が現れた。


「マルタおばさん」


 昨日まで。


 熱を出していた子どもだった。


 母親と一緒に。


 立っている。


 顔色は。


 まだ少し白い。


 けれど。


 自分の足で歩いている。


「外に出て大丈夫なの?」


 マルタさんが。


 すぐ立ち上がる。


「先生が」


「少しならって」


「無理しちゃ駄目だよ」


「うん」


 その声音は。


 私へ向けたものと違った。


 柔らかい。


「それで?」


「どうしたの」


 子どもが。


 店の中を。


 覗き込む。


「パン」


「ある?」


 マルタさんの体が。


 固まった。


 母親が。


 慌てる。


「ごめんね」


「この子」


「店が開いてるの見て」


「昔みたいに」


「パンがあると思ったみたいで」


「いいんだよ」


 マルタさんが答える。


「でも」


「今日はない」


「そっか」


 子どもは。


 少しだけ。


 残念そうな顔をした。


 そして。


「じゃあ」


「また今度」


 そう言った。


 また今度。


 その言葉が。


 店の中に。


 残った。


 子どもと母親が。


 離れていく。


 マルタさんは。


 開いた扉を。


 長く見ていた。


「……また今度だって」


「はい」


「勝手な子だね」


「子どもですから」


「テオも」


「ああだった」


「明日」


「また明日って」


「簡単に言って」


「明日が来るって」


「疑ってなかった」


 マルタさんが。


 粉袋を見る。


 それから。


 冷たい窯を見る。


 私は。


 何も言わない。


「火は」


 彼女が言った。


「今日は入れない」


「はい」


「でも」


「これ」


 粉袋を。


 ぽんと叩く。


「しまわないことにする」


「はい」


「明日も」


「ここに置いとく」


「はい」


「その次の日も」


「まだ焼けなかったら?」


「置いておけばいいと思います」


「腐らない?」


「粉なので」


「湿気には気をつけた方が」


「そういう話じゃないよ」


「失礼しました」


 マルタさんが。


 笑う。


 また。


 涙が落ちる。


 笑いながら。


 泣いていた。


「私」


「こんなに」


「泣けたんだね」


「そうですね」


「昨日から」


「ひどい顔」


「……それは」


「否定します」


「そこは否定するんだ」


「外見については」


「不用意な発言を避けるよう」


「教育されております」


「貴族って大変だね」


「はい」


 少し。


 笑い声が続いた。


          ◇


 店を出ると。


 アルフォンス様が。


 私の横を歩いた。


「無理は?」


「していません」


「本当に?」


「はい」


 私は。


 少し考えてから。


 言い直した。


「少し疲れました」


「そうか」


「でも」


「話してよかったです」


「そうか」


 アルフォンス様は。


 それ以上。


 休めとも。


 戻れとも。


 言わなかった。


 ただ。


 歩く速度を。


 少しだけ。


 落とした。


 私は。


 その速度に。


 合わせる。


「アルフォンス様」


「なんだ」


「人は」


「生き残ったことに」


「罪悪感を持つものなのでしょうか」


「持つ人もいる」


「あなたも?」


 足音が。


 一つ。


 間を置く。


「ああ」


「ノクスが死んで」


「俺が生きていることを」


「間違いだと思ったことはある」


「……」


「今も?」


「今は」


 右手が。


 わずかに震えている。


「間違いだとは」


「思わないようにしている」


「思わない」


「ではなく?」


「思わないようにしている」


「違いますね」


「違う」


 アルフォンス様は。


 正直だった。


「そう簡単には」


「変わらない」


「はい」


「マルタも」


「明日パンを焼くかもしれない」


「一月後かもしれない」


「もう二度と焼かないかもしれない」


「それでも」


「今日」


「粉をしまわなかった」


「はい」


「それで十分だろう」


「……はい」


 私は。


 少しだけ。


 後ろを見る。


 開いた店の扉。


 作業台。


 その上の。


 白い粉袋。


 窯には。


 まだ。


 火がない。


 パンもない。


 テオさんも。


 戻らない。


 それでも。


 母親は。


 泣いた。


 息子がいないのに。


 腹が減った自分を。


 眠った自分を。


 朝に目を覚ました自分を。


 生き続けた自分を。


 長い間。


 責めていた。


 私は。


 自分の胸へ。


 手袋をした手を置く。


 母がいなくなったあと。


 私も。


 朝を迎えた。


 食べた。


 眠った。


 育った。


 十九歳になった。


 そのどこかで。


 私は。


 生きることを。


 少しずつ。


 小さくしてきたのかもしれない。


 笑いすぎない。


 求めすぎない。


 食べたいと言わない。


 痛いと言わない。


 大丈夫だと言う。


 そうすれば。


 死んだ母より。


 幸せになりすぎずに済むような。


 そんな。


 馬鹿げた決まりを。


 自分でも知らないうちに。


 作っていたのかもしれない。


 でも。


 まだ。


 そこまでしか。


 分からない。


 私は。


 答えを急がなかった。


 死者の声に。


 意味を急いで与えないように。


 生きている自分の気持ちにも。


 勝手な答えを。


 つけない。


 ただ。


 一つだけ。


 分かったことがある。


 生き残った人が。


 腹を空かせることも。


 眠ることも。


 笑うことも。


 死者を忘れた証ではない。


 マルタさんが。


 今日。


 泣きながら笑ったように。


 悲しみと。


 生きることは。


 同じ場所にあっていい。


 店の奥で。


 粉袋が。


 まだ。


 作業台の上に置かれている。


 火の入らない窯の前で。


 それは。


 小さく。


 明日を待っていた。

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