最後ではないパン
翌朝。
目を覚ました時。
最初に気づいたのは。
匂いだった。
「……パン?」
窓を開ける。
冷たい朝の空気と一緒に。
かすかな。
焼けた小麦の匂いが入ってきた。
まだ。
とても薄い。
けれど。
間違えようがない。
「アンナ」
「はい」
すでに起きていたアンナが。
私の後ろから答える。
「マルタさんのお店でしょうか」
「村でパン窯を持っている家は、あそこ以外にも二軒あります」
「では」
「確認しに行きましょう」
「着替えてからにしてください」
「はい」
上着へ手を伸ばしたところで。
アンナに止められた。
「それと朝食を」
「パンの確認が先では?」
「リーゼロッテ様の朝食が先です」
「……」
「昨日、ご自分で言われたでしょう」
母が亡くなったあと。
私は。
食べることも。
笑うことも。
少しずつ小さくしてきたのかもしれない。
そう気づいたばかりだった。
「分かりました」
「よろしい」
「ですが」
「何でしょう」
「パンを食べながら向かうのは」
「却下です」
「残念です」
◇
朝食を終えて。
村の通りへ出る。
そこで。
私は。
足を止めた。
マルタさんの店の煙突から。
煙が。
出ていた。
「……火が」
「ああ」
隣にいたアルフォンス様も。
煙突を見上げる。
「入ったな」
「昨日は」
「今日は入れないと」
「言っていました」
「昨日は昨日だ」
「そうですね」
変わるということは。
昨日の自分を。
裏切ることではない。
たぶん。
そういうものなのだろう。
店へ近づくと。
様子がおかしい。
「マルタ!」
「水!」
「水じゃない!」
「粉だって!」
「どっちだよ!」
「誰かあの子をどけて!」
「俺なんにもしてない!」
店の中から。
大勢の声がした。
私は。
アルフォンス様と顔を見合わせる。
「火事でしょうか」
「煙の色は普通だ」
「喧嘩でしょうか」
「それならもっと怒鳴っている」
「では」
「入れば分かる」
「はい」
扉を開ける。
「失礼――」
「そこ踏まないで!」
「はいっ」
反射的に。
足を戻した。
目の前。
床いっぱいに。
小麦粉が散らばっていた。
「……雪?」
「粉!」
マルタさんが怒鳴った。
店の中には。
村人が。
十人ほどいた。
昨日熱を出していた子どもの母親。
水汲みで見かけた老人。
畑仕事をしていた夫婦。
若い娘。
そして。
子どもが三人。
全員。
粉まみれだった。
「どういう状況でしょう」
「見れば分かるでしょ」
「見ても分からないので訊いています」
「パン焼いてんの!」
マルタさんは。
頬にも粉をつけたまま。
そう言った。
◇
「一人で焼くつもりだったんですか」
「違う」
マルタさんが。
生地を叩きながら言う。
「朝起きたら」
「なんとなく」
「窯に火を入れようと思っただけ」
「はい」
「火を入れたら」
「粉を出したくなって」
「もう出ていましたよね?」
「細かいね、あんた」
「すみません」
「それで」
「水を量って」
「塩を出して」
「そこまでやったら」
「手が止まった」
こね台の上。
まだ。
形になりきっていない生地。
マルタさんが。
それを見る。
「作り方を忘れたわけじゃない」
「体が覚えてる」
「何度も」
「何千個も焼いたから」
「でも」
「こねようとしたら」
「急に」
「怖くなった」
「……」
「これをこねたら」
「本当に」
「またパンを焼くんだって」
「思って」
昨日。
粉袋をしまわなかった。
それだけで。
十分だった。
けれど。
今朝。
彼女は。
その次の一歩を。
選んだ。
そして。
そこで。
止まった。
「それで」
私は。
周囲を見る。
「皆さんは?」
「私が呼んだの」
昨日。
熱を出していた子どもの母親が。
手を挙げた。
「朝、水を汲みに来たら」
「煙が出てたから」
「もしかしてと思って覗いたの」
「そしたらマルタが」
「粉の前で固まってるから」
「余計なことすんなって言ったんだけどね」
「言われた」
「だから」
「人を呼んだの」
「なぜ増やすのですか」
「一人が嫌なら」
「大勢ならいいかと思って」
「理屈が雑ですね」
「村なんてそんなもんよ」
老人が笑った。
「その結果が」
私は。
床を見る。
「これですか」
「俺じゃないよ!」
子どもが即座に言った。
「誰もお前だとは言っていない」
「顔に書いてある!」
「どなたの顔に?」
「あんたの!」
「私は今」
「非常に冷静です」
「それが怖いんだよ!」
アルフォンス様が。
小さく息を吐く。
「お前」
「子どもにまでそう言われるのか」
「不本意です」
「諦めろ」
◇
「それで」
マルタさんが。
腕を組む。
「どうする?」
「何がでしょう」
「あんたもやる?」
「パン作りを?」
「そう」
私は。
作業台を見る。
小麦粉。
水。
塩。
少量の酵母。
それから。
長年使われてきた。
木の鉢や。
麺棒。
へら。
そこには。
多くの人の手の跡がある。
けれど。
私は。
手袋を外さない。
テオさんの声を聞いた木剣は。
今も。
布に包んで。
マルタさんが保管している。
もう。
今日は。
死者へ訊くことはない。
「やります」
「できるの?」
「……経験はありません」
「貴族のお嬢さんだもんね」
「料理は」
「ほとんど使用人に任せていました」
「じゃあ」
「役に立たないね」
「努力します」
「リーゼロッテ」
アルフォンス様が。
私を見る。
「俺も経験はない」
「では」
「一緒に役に立たない側ですね」
「なぜ嬉しそうなんだ」
「仲間ができました」
「勝手にするな」
「辺境伯様もやるの?」
村の女性が訊く。
アルフォンス様は。
一瞬。
黙った。
「……必要なら」
「じゃあ」
「そこの袋運んで」
「分かった」
躊躇なく。
粉袋を肩へ担ぐ。
女性が。
目を丸くした。
「本当にやるんだ」
「命じたのはそちらだろう」
「領主様に命令したの初めてだよ」
「今日だけにしろ」
「明日からは?」
「内容による」
「意外と融通利くね」
「そこ」
マルタさんが。
笑った。
◇
パン作りは。
思っていたより。
力仕事だった。
「押す!」
「はい」
「折る!」
「はい」
「回す!」
「はい」
「もう一回!」
「はい」
私は。
生地を押す。
折る。
回す。
押す。
折る。
回す。
「遅い!」
「努力しています」
「生地は待ってくれないよ!」
「死者より厳しいですね」
「パンと死人を比べるんじゃない!」
「申し訳ありません」
隣では。
アルフォンス様が。
別の生地をこねている。
右手は。
今日も。
わずかに震えている。
けれど。
左手だけへ任せず。
両手を使っていた。
「辺境伯様」
「力入れすぎ!」
マルタさんが言う。
「そうか」
「敵じゃないんだから!」
「……難しいな」
「なんでも力でどうにかしようとすんな!」
「騎士なんて大体そうだよ」
老人が笑う。
「失礼だな」
「違うの?」
「……否定しきれない」
次の瞬間。
「アルフォンス様」
「なんだ」
「生地が」
「ああ」
作業台から。
半分。
はみ出していた。
「落ちます」
「分かっている」
「落ちています」
「まだ落ちていない」
「あと二寸です」
「数えるな」
「一寸」
「リーゼロッテ」
「落ちた」
べちゃり。
床に。
生地が落ちた。
店の中が。
静まり返る。
私は。
アルフォンス様を見る。
「……」
「……」
「辺境伯様」
子どもが。
恐る恐る言った。
「へたくそ」
「そうらしい」
アルフォンス様は。
真顔で認めた。
それで。
店中に。
笑い声が広がった。
◇
マルタさんも。
笑っていた。
腹を押さえて。
「領主様が」
「パン一個まともにこねられないなんて」
「領主の職務に」
「製パンは含まれていない」
「言い訳するんだ」
「事実だ」
「じゃあ」
「私の方が偉いね」
「パンに関しては」
「そうだな」
その返事に。
マルタさんの笑いが。
ふっと。
止まった。
「……テオも」
小さく。
言う。
「よく」
「落とした」
店の空気が。
少しだけ。
変わった。
「パン?」
子どもが訊く。
「生地」
「手伝うって言って」
「余計なことして」
「床に落として」
「私に怒られて」
「それでも」
「次の日またやるって言うの」
「下手だったの?」
「下手」
即答だった。
「ものすごく下手」
「じゃあ」
「辺境伯様と一緒だ」
「なぜ俺と比べる」
「下手同士」
「反論できない」
また。
小さな笑いが起きた。
今度は。
さっきより。
穏やかな笑いだった。
マルタさんは。
作業台の隅を見る。
そこには。
昨日。
テオさんの木剣が置かれていた。
今は。
何もない。
それでも。
「……あの子」
「丸めるのだけは」
「好きだったんだ」
「はい」
「変な形にしてね」
「竜だって言い張るの」
「竜を?」
マルタさんが。
少しだけ。
苦い顔をした。
「そう」
「あの子」
「竜騎士になりたかったから」
竜を憎んでいた母親。
竜に憧れていた息子。
その二つは。
簡単には。
同じ場所に置けない。
でも。
どちらかを。
消す必要もない。
「今日は」
マルタさんが。
生地をちぎる。
「一個だけ」
「変な形にしてもいいかな」
「誰に訊いているのですか」
「分かんない」
「じゃあ」
「自分で決めたらいいだろ」
アルフォンス様が言う。
「……そうだね」
マルタさんは。
しばらく。
生地を見つめた。
それから。
細長く伸ばし。
二枚の翼らしきものをつける。
「……竜には」
「見えませんね」
「うるさい」
「黙ります」
◇
焼き上がりを待つ間。
村の人たちが。
店の外へ。
長机を運び出した。
「これほど焼いて」
「どうするのですか」
私は訊いた。
籠には。
まだ焼く前の生地が。
いくつも並んでいる。
「墓に持っていく」
マルタさんが言った。
「テオさんの?」
「うん」
「一つはね」
「一つ?」
「全部置いたら」
「テオでも食べきれないでしょ」
「……そうですね」
「死んでるんだから」
「食べないけど」
マルタさんは。
それを。
自分で言った。
声は。
少し震えた。
けれど。
言葉を。
取り消さなかった。
「だから」
「一つだけ置く」
「残りは?」
「食べる」
マルタさんが。
外を見る。
子どもたちが。
井戸のそばで走っている。
「生きてる連中で」
「食べる」
◇
最初のパンが。
窯から出てきた。
焼けた小麦の香り。
薄い焦げ目。
ふくらんだ表面。
それが。
店中を。
あっという間に満たす。
誰も。
しばらく。
声を出さなかった。
マルタさんが。
一番手前のパンを見る。
手が。
動かない。
私は。
何も言わない。
触れもしない。
村人たちも。
急かさない。
やがて。
「……焦げてる」
マルタさんが言った。
「少しだけね」
「久しぶりだったから」
「違う」
老人が言う。
「お前が喋ってて時間忘れたからだ」
「うるさい!」
「昔からそうだったろ」
「テオのせいにしてたくせに」
「……」
マルタさんが。
目を見開く。
「そうだったっけ」
「そうだよ」
「『テオが騒ぐから焦げた』って」
「毎回言ってた」
「違うよ」
「半分くらいは本当にあの子のせい」
「半分は?」
「私」
老人が笑う。
「変わらんな」
「変わったよ」
マルタさんが。
パンを見ながら言う。
「変わった」
「……」
「でも」
「全部は」
「変わってないみたい」
焼きたてのパンを。
一つ。
両手で持つ。
「熱っ」
慌てて。
台へ戻した。
「熱いに決まっているでしょう」
「久しぶりなんだから!」
「熱さは久しぶりでも変わりません」
「ほんと腹立つね、あんた!」
「すみません」
笑いながら。
マルタさんは。
泣いていた。
◇
昼前。
私たちは。
村の外れにある墓地へ向かった。
大きな墓ではない。
名も。
立派な石碑もない。
小さな平たい石に。
テオ。
と。
刻まれているだけだった。
マルタさんは。
籠から。
一つだけ。
パンを取り出した。
少し。
不格好な。
竜の形をしたパン。
「これ」
「竜に見える?」
私に訊く。
「正直に答えてよ」
「……」
「なんで悩むの」
「嘘をつけませんので」
「もういい!」
少し離れたところで。
アルフォンス様が。
口元を押さえた。
「今笑った?」
「笑っていない」
「笑ったでしょ」
「気のせいだ」
「領主だからって嘘ついていいと思ってんの?」
「俺は竜葬師ではない」
「そういう問題!?」
墓地に。
笑い声が落ちる。
マルタさんは。
息を整えてから。
墓前へしゃがんだ。
「テオ」
パンを置く。
「焼いたよ」
返事はない。
もちろん。
ない。
風が。
乾いた草を揺らす。
「聞こえてるかは」
「分かんないけど」
「……いや」
「聞こえてなくても」
「いいか」
マルタさんは。
自分で言い直した。
「母さん」
「焼いた」
「久しぶりだから」
「ちょっと焦がした」
「でも」
「みんなが手伝った」
「領主様は」
「生地を床に落とした」
「それは報告しなくていい」
アルフォンス様が言う。
「大事でしょ」
「大事ではない」
「私は」
「重要な証言だと思います」
「リーゼロッテ」
「冗談です」
「お前まで」
マルタさんが。
声を上げて笑った。
そして。
また。
墓石を見る。
「テオ」
「これは」
「最後のパンじゃないから」
風が。
止まった。
「母さん」
「また焼くよ」
「明日か」
「明後日か」
「嫌になって」
「しばらく焼かない日も」
「あるかもしれない」
「でも」
「これで最後にはしない」
マルタさんの声が。
少し。
震える。
「だって」
「生きてる子たちが」
「腹減ったって言うから」
後ろにいた子どもが。
「うん!」
と。
大きな声で答えた。
「今言わなくていい!」
「腹減った!」
「聞こえてるよ!」
墓地に。
また笑い声が起きる。
マルタさんは。
泣きながら。
笑った。
「だから」
「また焼く」
「お前の分だけじゃなくて」
「みんなの分も」
墓前のパンへ。
触れない。
死者から。
答えを求めない。
ただ。
生きている母親が。
自分で決めたことを。
口にした。
それで。
十分だった。
◇
村へ戻ると。
店の前には。
長机が並べられていた。
焼きたてのパン。
薄い野菜のスープ。
少量の干し肉。
水不足の村だから。
豪華な食事ではない。
それでも。
人が。
次々に集まった。
「一人一個!」
マルタさんが叫ぶ。
「子どもも一個!」
「大人も一個!」
「二個目は全員に回ってから!」
「俺、朝から手伝った!」
「だから?」
「二個!」
「駄目!」
「横暴だ!」
「私の店だよ!」
子どもが。
パンを持って逃げる。
「こら!」
「一個しか取ってない!」
「なら走るな!」
笑い声。
食器の音。
パンをちぎる音。
久しぶりに。
この村で。
大勢の人が。
同じ場所に集まっている。
最初に来た時。
ハルンは。
静かだった。
人はいても。
家の扉は閉じられ。
竜葬師の私を。
遠巻きに見ていた。
今も。
全員が。
私を信じたわけではない。
こちらを。
まだ警戒している人もいる。
ルゥを見れば。
家へ入る人だっている。
何も。
解決していない。
井戸の水は。
少ないまま。
畑も。
乾いている。
テオさんも。
帰ってこない。
それでも。
今日。
パンを食べている。
「リーゼロッテ様」
アンナが。
一つ。
パンを差し出す。
「ありがとうございます」
「味は分かりますか」
「昨日より」
「戻っています」
「なら」
「確認してください」
「何を?」
「味を」
私は。
パンを一口。
かじる。
表面は。
少し硬い。
中は。
驚くほど柔らかい。
小麦の甘み。
塩気。
ほんの少し。
焦げた香り。
「……美味しいです」
口にして。
私は。
少しだけ。
驚いた。
美味しい。
それを。
誰かの前で言った。
ただ。
それだけのことなのに。
胸の奥が。
少し。
ざわついた。
「どう?」
マルタさんが訊く。
「美味しいです」
「本当に?」
「はい」
「お世辞じゃない?」
「嘘は苦手です」
「知ってる」
「ただ」
「少し焦げています」
「余計だよ!」
周りから。
笑い声が上がった。
◇
「リーゼロッテ」
アルフォンス様が。
隣へ座った。
手には。
パンが一つ。
「どうですか」
「美味い」
「焦げは?」
「香ばしい」
「……」
「なんだ」
「貴族的な表現ですね」
「同じ貴族だろう」
「私は正直なので」
「俺が嘘をついているみたいに言うな」
「違うんですか?」
「美味いのは本当だ」
アルフォンス様が。
パンをちぎる。
右手は。
まだ。
震えている。
「昔」
彼が言った。
「ノクスは」
「焼いたものを好んだ」
「リンゴですか」
「ああ」
「パンも食べた」
「黒竜はパンを食べるのですか」
「食べる」
「何でも?」
「何でもではない」
「硬い黒パンは嫌った」
「贅沢ですね」
「俺もそう言った」
「どうしました?」
「俺の朝食を全部食べられた」
「抗議だったのでは?」
「そうかもしれない」
「死者の意図を」
「勝手に決めてはいけません」
「今それを言うのか」
「職業病です」
私は。
パンを。
もう一口食べた。
ノクスを思い出して。
アルフォンス様は。
それでも。
食べている。
悲しい記憶と。
美味しいという感覚は。
同時に。
そこにある。
それでいい。
◇
村の端。
少し離れた岩の上に。
黒い影があった。
「ルゥ」
私が名前を呼ぶと。
幼い黒竜が。
こちらを見る。
村人の何人かが。
体を強張らせた。
それ以上。
近づいてくる様子はない。
ルゥも。
こちらへ来ない。
私は。
パンを持ったまま。
立ち上がろうとして。
やめた。
呼ばない。
持っていかない。
食べさせようとしない。
ここへ来るかどうかは。
ルゥが決めればいい。
「竜も」
近くの子どもが訊く。
「パン食べる?」
「食べることはあるようです」
「じゃあ」
「これあげていい?」
子どもの手には。
自分のパンがある。
「あなたの分ですよ」
「半分でいい」
「……」
私は。
ルゥを見る。
次に。
子どもを見る。
「置くなら」
「近づかず」
「あの辺りにしてください」
「投げてはいけません」
「分かった」
子どもが。
パンを半分にちぎる。
岩から。
かなり離れた地面へ。
そっと置いた。
そして。
走って戻ってくる。
ルゥは。
動かない。
村人たちも。
見ている。
「見ない方がいいです」
私が言うと。
「なんで?」
「食べるかどうか」
「見られていると」
「嫌かもしれません」
「分かった」
子どもは。
すぐに背を向けた。
他の村人たちは。
完全には。
目を逸らせない。
それでも。
誰も近づかなかった。
ルゥも。
すぐには動かなかった。
今日。
食べなくてもいい。
近づかなくてもいい。
そのパンは。
ルゥの許しを買うためのものではない。
人間を信じさせるためでもない。
ただ。
一人の子どもが。
自分のパンを。
半分。
置いた。
それだけだ。
◇
「マルタ」
老人が。
空になりかけた籠を見て言った。
「足りんな」
「だから一人一個って言ったでしょ!」
「明日は倍だな」
「簡単に言うね」
「皆で手伝う」
「また床を粉だらけにするつもり?」
「掃除も手伝う」
「だったら」
マルタさんが。
言葉を止める。
長机を見る。
そこには。
子どもがいて。
大人がいて。
老人がいて。
領主がいて。
元婚約者を失った竜葬師がいて。
少し離れた場所には。
人間をまだ恐れている。
黒竜がいる。
「……明日も」
マルタさんが言った。
「朝から来な」
「本当に?」
「ただし」
「働かないやつには売らない」
「客にも?」
「客には売るよ!」
「どっちだ」
「村の連中の話!」
「分かりにくいな」
「うるさい!」
また。
笑い声。
マルタさんが。
私を見る。
「リーゼロッテ」
「はい」
「明日も来る?」
「私は」
答えようとして。
止まる。
明日は。
別の仕事があるかもしれない。
調査も。
水不足の原因も。
まだ何一つ解決していない。
だから。
「時間があれば」
「来たいです」
「そ」
「無理して来なくていいから」
「はい」
「でも」
「来たら」
「一個は食べな」
「……」
「なんで黙るの」
「いえ」
「命令される側になるのは」
「少し新鮮で」
「食べろってだけでしょ」
「はい」
私は。
笑った。
「では」
「いただきます」
◇
夕方。
人が減ってから。
私は。
もう一度。
店の前を通った。
窯の火は。
消えかけていた。
それでも。
石には。
まだ熱が残っている。
マルタさんは。
店先を掃除していた。
「今日は」
「ありがとうございました」
「なんであんたがお礼言うの」
「食べさせていただいたので」
「金取ってないけど」
「では」
「次は払います」
「貴族からなら高く取ろうかな」
「適正価格でお願いします」
「冗談だよ」
マルタさんが。
箒を止める。
「墓に」
「パン置いてきたでしょ」
「はい」
「明日の朝」
「鳥に食べられてるかもね」
「そうですね」
「雨が降ったら」
「ぐちゃぐちゃになる」
「はい」
「テオが食べるわけでもない」
「はい」
「でも」
「置いてよかった」
私は。
頷く。
「はい」
「変だね」
「食べられない子のために」
「パンを焼いて」
「食べられる子にも」
「パンを配る」
「どっちが弔いなんだろう」
私は。
少し考える。
「どちらも」
「違うかもしれません」
「え?」
「弔いと」
「日常を」
「分けなくてもいいのではないでしょうか」
マルタさんが。
私を見る。
「墓前へ置いたパンは」
「テオさんを忘れないためのものです」
「皆さんが食べたパンは」
「生きている人が」
「今日を生きるためのものです」
「どちらか一方だけでは」
「いけない理由はありません」
「……」
「死者を思いながら」
「生きている人が食べてもいい」
「私は」
「そう思います」
マルタさんは。
しばらく。
黙っていた。
「じゃあ」
「明日は」
「墓には?」
「マルタさんが」
「置きたければ」
「置けばいいと思います」
「置きたくなかったら?」
「置かなくていいと思います」
「……楽だね」
「何がですか」
「決まりがないから」
「そうですね」
「弔いって」
「もっと」
「ちゃんとした作法があると思ってた」
「作法はあります」
「あるんじゃない」
「ですが」
「作法のために」
「人が苦しむ必要はありません」
「死者を忘れないための作法が」
「生者を縛るものになってしまえば」
「何のための弔いか」
「分からなくなりますから」
マルタさんが。
小さく。
笑った。
「やっぱり」
「変な竜葬師」
「よく言われます」
「誰に?」
「最近」
「いろいろな方に」
◇
宿へ戻る途中。
岩の近くを。
通った。
昼間。
子どもが。
パンを置いた場所。
そこには。
もう。
パンがなかった。
地面には。
小さな。
爪の跡。
けれど。
私は。
ルゥが食べたとは。
決めつけない。
鳥かもしれない。
小動物かもしれない。
誰かが。
片づけたのかもしれない。
分からないことを。
分かったことにはしない。
ただ。
一つ。
分かることがある。
今日。
ハルンでは。
パンが焼かれた。
墓前へ。
一つ。
置かれた。
そして。
残りは。
生きている人たちが。
食べた。
死者のために焼いたからといって。
最後のパンにする必要はなかった。
むしろ。
それは。
次のパンを焼くための。
最初の一つになった。
私は。
手袋をした手で。
自分の腹へ。
そっと触れる。
夕食には。
まだ少し早い。
それなのに。
今日は。
もう。
少し。
お腹が空いていた。
以前なら。
気づかないふりをしたかもしれない。
でも。
今日は。
その感覚を。
消さなかった。
「アルフォンス様」
「なんだ」
「夕食は」
「何でしょうか」
隣を歩いていた彼が。
こちらを見る。
「腹が減ったのか」
「少し」
私は。
そう答えた。
アルフォンス様は。
何も笑わなかった。
ただ。
「そうか」
と。
言った。
その声が。
なぜだか。
少しだけ。
優しく聞こえた。
私は。
もう一度。
パンの匂いが残る村を。
振り返る。
墓前の一つは。
死者を忘れないために。
食卓のいくつもは。
生きている者が。
明日へ進むために。
どちらも。
同じ窯から。
焼かれたパンだった。




