母さんのパン
翌朝。
まだ。
村の井戸に。
最初の水桶が並び始めた頃だった。
扉が。
三度。
叩かれた。
「早いですね」
アンナが。
窓の外を見る。
「村長さんでしょうか」
「村長なら」
オスカー先生が。
薬草を刻みながら言う。
「こんな遠慮のある叩き方はしません」
「では誰でしょう」
「開ければ分かります」
「先生」
「それを言ったら会話が終わります」
「朝から会話を長引かせたい理由がありますか」
「ありません」
アンナが。
扉を開ける。
そこに。
マルタさんがいた。
細長い布包みを。
両腕で抱えて。
昨日と。
同じように。
立っていた。
ただ。
昨日とは違って。
その手は。
何度も。
布の端を握り直していた。
「リーゼロッテ」
「はい」
「……今日」
一度。
言葉が止まる。
「聞いてほしい」
私は。
すぐには。
答えなかった。
マルタさんの顔を見る。
眠れていないのだろう。
目の下に。
薄い影がある。
「中へ」
「いや」
「先に答えて」
「聞いてくれるの」
「聞けます」
私は答えた。
「ですが」
「もう一度だけ」
「確認させてください」
マルタさんの眉が。
少し寄る。
「昨日は」
「聞かないと決めました」
「うん」
「そして」
「今日」
「変えてもいいかと訊かれました」
「うん」
「変えて構いません」
「でも」
私は。
布包みを見る。
「今日聞くと決めたことも」
「今ここで」
「変えて構いません」
「……」
「私が待っていたから」
「決めなければならないと思ったのなら」
「聞きません」
「誰かに」
「聞いた方がいいと言われたのなら」
「それでも」
「今は触れません」
「私が知りたいのは」
「マルタさんが」
「今」
「どうしたいかです」
長い沈黙。
マルタさんは。
私を睨むように見た。
「……面倒くさいね」
「申し訳ありません」
「褒めてないよ」
「そうだと思いました」
「でも」
マルタさんが。
息を吐く。
「聞きたい」
今度は。
昨日より。
はっきりした声だった。
「怖いけど」
「聞きたい」
「テオが」
「最後に何を思ってたのか」
「全部は分かりません」
「分かってる」
「聞こえるものが」
「その人の全てでもありません」
「それも」
「昨日聞いた」
「死んだ本人には」
「確かめられません」
「リーゼロッテ」
「はい」
「まだ続く?」
「あと少し」
「長いね」
「大事なので」
「……うん」
マルタさんが。
布包みを。
胸へ抱く。
「続けて」
「聞こえた言葉に」
「私が意味を足さないこと」
「分からないことは」
「分からないまま伝えること」
「そして」
「一度触れれば」
「木剣に残った思いは」
「今より薄くなる可能性があります」
「……うん」
「それでも」
「聞きますか」
マルタさんは。
少しだけ。
目を閉じた。
そして。
「聞く」
そう言った。
◇
木剣を置いたのは。
村長宅の。
小さな客間だった。
窓を開ければ。
乾いた土と。
遠くの井戸が見える。
机の上には。
何も置かない。
水差しだけ。
少し離してある。
マルタさんが。
布をほどく。
出てきた木剣は。
やはり。
子どものためのものだった。
刃に見立てた部分には。
小さな傷がいくつもある。
柄には。
何度も握られた跡。
片側だけ。
色が少し濃くなっている。
テオさんは。
竜騎士に憧れて。
何年も。
この剣を振っていた。
熱病で寝台から起きられなくなってからも。
枕元へ置かせ。
最後の夜には。
長い間。
手の中に握っていた。
マルタさんが。
そう話してくれたものだ。
だから。
強い思いが。
残っている可能性は高い。
「共鳴式は?」
アルフォンス様が訊いた。
彼も。
部屋の入り口近くにいる。
マルタさんが。
来ることを許したからだ。
「行いません」
私は答えた。
「今回は」
「マルタさんが」
「感情を共有することを望んでいません」
「……そう」
マルタさんが言う。
「私は」
「あの子の苦しさまで」
「感じたいとは思えない」
「それで構いません」
私は。
すぐに答えた。
「親なんだから」
「感じるべきなのかもしれないけど」
「いいえ」
「必要ありません」
マルタさんが。
私を見る。
「私は」
「死者の痛みを」
「受けることがあります」
「ですが」
「それを他の人にも受けるべきだとは」
「思っていません」
「……そう」
「だから」
「今回は私だけが触れます」
オスカー先生が。
私の横へ来る。
「まず」
「今日の状態」
「はい」
「頭痛」
「ありません」
「耳鳴り」
「ありません」
「手の冷え」
「ありません」
「味」
先生が。
小皿を差し出す。
「またですか」
「嫌なら中止しますか」
「蜂蜜ですね」
「舐める前に答えないでください」
「見れば分かります」
「味覚検査なので」
「見た目を当てる試験ではありません」
少しだけ。
マルタさんが。
こちらを見る。
私は。
蜂蜜を舐める。
「甘いです」
「正常」
次。
塩。
「しょっぱいです」
「正常」
「声」
「出ています」
「名前」
「リーゼロッテ・アルヴァ」
「年齢」
「十九歳」
「場所」
「ハルン村」
「何をする」
「テオさんの木剣へ」
「一度だけ」
「素手で触れます」
先生が。
頷く。
「強い異常が出たら離す」
「はい」
「続けたいと思っても」
「はい」
「私が止めたら?」
「離します」
「よろしい」
マルタさんが。
妙な顔をしている。
「毎回」
「こんなことしてるの?」
「今は」
「はい」
「今は?」
「以前は」
「していませんでした」
「……それで」
「何度か怒られました」
「誰に」
「主に先生に」
「主に?」
「アルフォンス様にも」
入口近くから。
低い声がした。
「俺も怒られた」
「それは」
「少し事情が違います」
「そうか」
「はい」
マルタさんが。
ほんの少し。
息を漏らした。
笑ったのかもしれない。
その程度で。
いい。
◇
「マルタさん」
「うん」
「始めます」
「……待って」
私は。
伸ばしかけた手を。
止める。
「はい」
「一個だけ」
「聞きたい」
「何でしょう」
「もし」
マルタさんの喉が。
小さく動く。
「あの子が」
「私を恨んでたら」
「ちゃんと言って」
「はい」
「優しくしなくていい」
「はい」
「都合よく」
「変えないで」
「変えません」
「私が」
「泣いても?」
「変えません」
「怒っても?」
「変えません」
「あなたを」
「また責めても?」
少し。
間があった。
「それでも」
「変えません」
マルタさんは。
目を伏せた。
「……分かった」
私は。
右手の手袋を外す。
空気が。
少し冷たい。
木剣の柄へ。
指先を近づける。
触れる直前。
一度。
息を吸った。
そして。
素手で。
木へ触れた。
◇
熱い。
最初に来たのは。
熱だった。
額。
喉。
胸。
体の内側に。
逃げ場のない熱がある。
「……っ」
息が。
浅くなる。
咳。
乾いた咳。
喉が痛い。
口の中が。
からからだ。
視界が。
低い。
寝台の上。
天井の木目。
窓。
閉じられた窓。
外で。
誰かが。
桶を置く音。
遠く。
子どもたちの声。
走る足音。
行きたい。
外へ。
剣を持って。
走りたい。
竜騎士になる。
黒い竜。
大きな背中。
空。
そんな。
途切れ途切れの映像。
でも。
それより。
強いものがある。
匂い。
パン。
焼けた小麦。
少し焦げた皮。
温かな湯気。
粉のついた手。
大きな手が。
丸い生地を。
何度も。
台へ叩きつける。
――また見てるの?
女の声。
生きていた頃の。
記憶だろう。
――腹減った。
少年の声。
――焼けるまで待ちな。
――一個だけ。
――まだ生だよ。
笑い。
頬を。
指で押される感覚。
粉がつく。
温かい。
安心。
そして。
熱。
苦しい。
喉。
息。
暗くなる部屋。
誰かが。
水で濡らした布を。
額に置く。
手が。
震えている。
女の人。
マルタさんだ。
泣かないように。
口を強く結んでいる。
少年は。
見ている。
何かを。
言おうとしている。
でも。
声にならない。
苦しい。
怖い。
まだ。
死にたくない。
外へ行きたい。
剣を振りたい。
もう一度。
そして。
もっと。
小さく。
もっと。
日常に近い。
願い。
声が。
聞こえた。
――母さん。
木剣を握る。
指に。
もう力がない。
でも。
離したくない。
――母さんのパンを。
匂い。
焼きたての。
丸いパン。
――もう一度。
少年の声が。
かすれる。
それでも。
はっきり。
残った。
――食べたい。
◇
「離してください」
オスカー先生の声。
私は。
すぐに。
手を離した。
木剣から。
指が離れる。
視界が。
自分のものへ戻る。
「名前」
「……リーゼロッテ」
「姓」
「アルヴァ」
「場所」
「ハルン村」
「年齢」
「十九歳」
「誰の記憶」
「テオさん」
「あなたは?」
「リーゼロッテです」
「よろしい」
頭の奥が。
少し。
ずきりとする。
右手が。
冷たい。
「症状」
「右手の冷え」
「軽い頭痛」
「耳鳴りは」
私は。
少し待つ。
「ありません」
「吐き気」
「ありません」
「味覚」
「今は」
「後で確認します」
「そうしてください」
私は。
自分で。
手袋をはめる。
指が。
少し震えた。
でも。
動く。
椅子へ座る。
マルタさんは。
何も言わない。
ただ。
私を。
見ている。
「聞こえた?」
「はい」
「何て」
声が。
掠れている。
「その前に」
「痛かったの」
私は。
マルタさんを見る。
「はい」
嘘は。
つかない。
「熱がありました」
「喉が渇いて」
「息も苦しかった」
マルタさんの。
顔が歪む。
「やっぱり」
「苦しんでたんだ」
「はい」
「怖がっていました」
「……」
「死にたくないという」
「強い感覚もありました」
マルタさんが。
木剣を見る。
「じゃあ」
「あの子」
「最後まで」
「苦しかっただけなの」
「いいえ」
私は。
静かに答える。
「苦しみだけでは」
「ありませんでした」
マルタさんの目が。
こちらへ戻る。
「何が」
「あったの」
「パンの匂いがしました」
「……え」
「焼けた小麦の匂いです」
「少し」
「表面が焦げたような」
「香ばしい匂いでした」
マルタさんが。
瞬きをする。
「それから」
「粉のついた手」
「丸い生地」
「焼けるまで待つように」
「誰かが言っていました」
「……」
「テオさんは」
「一つだけ欲しがっていました」
マルタさんの。
唇が。
少し開く。
「それ」
「私だ」
小さな声。
「いつも」
「待てないから」
「生の生地を」
「つまもうとして」
「叩いてた」
マルタさんの右手が。
宙で。
小さく動いた。
子どもの手を。
払うように。
「それで」
「何て」
「言ったの」
私は。
一度。
息を整えた。
「聞こえた言葉を」
「そのまま伝えます」
「うん」
「最初に」
「『母さん』」
マルタさんの肩が。
震える。
「それから」
「『母さんのパンを』」
「……」
「『もう一度』」
声を。
変えない。
足さない。
引かない。
「『食べたい』」
◇
マルタさんは。
動かなかった。
泣かなかった。
しばらく。
ただ。
木剣を見ていた。
「……それだけ?」
「言葉として」
「はっきり聞こえたのは」
「それだけです」
「私を」
「恨んでなかった?」
私は。
すぐには。
答えない。
「この木剣に残っていた」
「最期の思いの中には」
「あなたを責める言葉は」
「ありませんでした」
「じゃあ」
「恨んでなかったんだ」
「そこまでは」
「言えません」
マルタさんの。
顔が上がる。
「どうして」
「私が聞いたのは」
「最期に残った」
「一部だけだからです」
「テオさんが」
「病気になってから」
「一度も怒らなかったか」
「一度も悲しまなかったか」
「あなたを責めた瞬間がなかったか」
「それは」
「私には分かりません」
「……」
「でも」
私は。
木剣へ。
視線を落とす。
「少なくとも」
「この剣に残っていた最後の言葉は」
「あなたへの恨みではありませんでした」
「パンを」
「食べたいという」
「願いでした」
マルタさんの。
口元が。
歪んだ。
「そんなの」
ようやく。
声が震えた。
「そんなの」
「言ってくれたら」
「焼いたのに」
ぽたり。
木剣の鞘代わりの布へ。
涙が落ちる。
「何個でも」
「焼いたのに」
「焦げたのが好きだった」
「柔らかい真ん中より」
「端っこの」
「ちょっと焦げて固いところ」
「好きで」
「いつも」
「私の分まで取って」
また。
涙が落ちた。
「言ってくれたら」
声が。
崩れる。
「焼いたのに」
私は。
何も言わなかった。
言えなかったのだ。
とは。
言わない。
テオさんの喉が。
どれほど動いたのか。
あの言葉を。
生きている間に。
母へ伝えようとしたのか。
それとも。
ただ。
心の中に浮かんだだけなのか。
私には。
分からない。
だから。
代わりに。
答えを作らない。
「私」
マルタさんが。
ぽつりと言う。
「あの子が」
「最後に」
「私を恨んでたって」
「ずっと思ってた」
私は。
顔を上げる。
「水も足りなくて」
「薬も足りなくて」
「村の治療師も」
「別の子を診てて」
「熱が上がって」
「何をしても」
「下がらなくて」
マルタさんの指が。
木剣へ触れる。
「私」
「途中で」
「あの子に」
「怒鳴ったんだ」
「……」
「水を飲んでって」
「薬を吐かないでって」
「お願いだから」
「言うこと聞いてって」
「苦しいのは」
「テオなのに」
「私」
「怒鳴った」
涙が。
止まらない。
「だから」
「最後に」
「母さんなんか嫌いだって」
「思ってたんじゃないかって」
「ずっと」
「……ずっと」
私は。
手を伸ばしかけた。
けれど。
止める。
昨日。
アルフォンス様が。
布を求めるまで。
待ったことを思い出す。
マルタさんが。
今。
何を望むか。
私には。
分からない。
「リーゼロッテ」
「はい」
「布」
「はい」
すぐに。
アンナが。
私より先に。
布を差し出した。
「どうぞ」
「……ありがとう」
マルタさんは。
顔を拭く。
アンナは。
何も言わず。
一歩下がった。
◇
「ねえ」
しばらくして。
マルタさんが言った。
「パンの匂いって」
「本当に」
「したの?」
「はい」
「私のパン?」
「そう断定はできません」
「……そこも?」
「はい」
「本当に」
「面倒くさいね」
「申し訳ありません」
「でも」
マルタさんは。
鼻をすすった。
「粉のついた手も」
「見えたんだよね」
「はい」
「その手」
「どんなだった」
「大人の女性の手です」
「生地を」
「丸めていました」
「顔は?」
「はっきりとは」
「分かりませんでした」
「そう」
「ただ」
「テオさんは」
「その場で」
「安心していました」
マルタさんの。
呼吸が止まる。
「安心?」
「はい」
「それは」
「かなり強く」
「感じました」
「……」
「ですが」
「それが」
「あなたと一緒だから安心していたと」
「断定はしません」
「分かってる」
マルタさんが。
目元を押さえる。
「そこまで言われたら」
「もう分かってるよ」
「すみません」
「謝らなくていい」
鼻をすすり。
「そのまま言ってくれるって」
「約束したから」
私は。
頷く。
「はい」
◇
やがて。
オスカー先生が。
私の前に。
小さなカップを置いた。
「味」
「今ですか」
「今です」
水を飲む。
ほとんど。
味はない。
水なのだから。
当然だ。
次に。
蜂蜜を。
ほんの少し。
舌へ乗せる。
甘い。
けれど。
薄い。
「少し」
「味が弱いです」
「程度は」
「普段の七割くらい」
「手の冷え」
「まだあります」
「頭痛」
「少し」
「今日は」
「これ以上能力を使わない」
「はい」
「即答」
「驚きましたか」
「少し」
「成長しています」
「自分で言うものではありません」
マルタさんが。
泣きながら。
少し笑った。
「あんた」
「本当に」
「変な人だね」
「最近」
「その評価が増えています」
「いいじゃない」
「悪くはないかもしれません」
木剣は。
もう一度。
布で包まれた。
私は。
触れない。
一度目の思いは。
もう。
少し薄くなっている。
次に触れれば。
聞こえるものは。
もっと短くなるだろう。
だからこそ。
今日聞いたものを。
都合よく変えない。
「言葉」
マルタさんが言う。
「書いてもらえる?」
「はい」
「そのまま」
「一字も変えないで」
「分かりました」
アンナが。
紙と筆を出す。
私は。
ゆっくり。
言葉を口にした。
『母さん』
『母さんのパンを』
『もう一度』
『食べたい』
アンナが。
そのまま記す。
その下に。
別の欄を作る。
「これは?」
マルタさんが訊く。
「言葉と」
「私が受け取った感覚を」
「分けて残します」
「感覚?」
「熱」
「喉の渇き」
「息苦しさ」
「恐怖」
「外へ出たいという気持ち」
「パンの匂い」
「安心」
私は。
少し間を置く。
「ただし」
「こちらは」
「私が受け取った感覚です」
「言葉と同じものとしては」
「扱いません」
「……うん」
「分かった」
マルタさんは。
紙を。
長く見つめた。
◇
帰る前。
マルタさんは。
扉のところで。
立ち止まった。
「リーゼロッテ」
「はい」
「私」
「パン屋なんだよ」
「はい」
「知っています」
「でも」
「あの子が死んでから」
「一度も」
「パン焼いてない」
知っていたようで。
私は。
知らなかった。
店には。
古い看板がある。
窯も。
粉袋も。
作業台も。
残っている。
けれど。
村へ来てから。
あの店から。
パンの匂いがしたことは。
一度もない。
「窯に」
「火を入れると」
「あの日を思い出すから」
マルタさんが言う。
「あの子が」
「パンを食べられなくなった日」
「思い出すから」
「それで」
「ずっと」
「焼けなかった」
布包みを。
抱き直す。
「なのに」
目が。
また少し。
赤くなる。
「最後に」
「食べたかったんだって」
私は。
何も言わない。
「ひどいよね」
「何がですか」
「私」
「あの子が死んでから」
「パンなんて」
「二度と焼くもんかって」
「思ってた」
「パンなんか焼いたって」
「テオは戻らないって」
「ずっと」
「……」
「なのに」
マルタさんが。
少し。
笑った。
泣きながら。
「最後に食べたかったなんて」
「言われたら」
「困るじゃない」
「そうですね」
「そこは」
「否定しないんだ」
「困っているように」
「見えるので」
「……生きてる人の心は」
「読めないんじゃなかった?」
「顔は見えます」
一瞬。
静かになる。
それから。
マルタさんが。
声を出して笑った。
ほんの少し。
だけれど。
初めて。
ちゃんと。
笑った。
「ねえ」
「はい」
「明日」
「パンを焼くとは」
「まだ言えない」
「はい」
「窯に火を入れるかも」
「分からない」
「はい」
「でも」
「粉だけ」
「出してみようかな」
私は。
頷いた。
「それでいいと思います」
「また勝手に」
「弔いとか言う?」
「言いません」
「どうして」
「明日」
「マルタさんが粉を出す理由は」
「マルタさんのものだからです」
死者の願いを。
生者への命令にはしない。
テオさんが。
パンを食べたかったからといって。
マルタさんが。
パンを焼き続ける義務はない。
「焼いても」
「焼かなくても」
「いいんです」
「……そう」
「でも」
私は。
少しだけ。
言葉を選んだ。
「もし」
「焼きたいと思った日が来たら」
「その気持ちは」
「テオさんの命令ではなく」
「マルタさん自身のものです」
マルタさんが。
私を見る。
何かを。
言いかけて。
やめた。
「じゃあね」
「はい」
「また」
その言葉に。
私は。
少しだけ。
驚いた。
「はい」
「また」
◇
夕方。
村の道を。
歩いていると。
パン屋の前で。
マルタさんが。
しゃがんでいた。
店の扉は。
開いている。
窯には。
まだ。
火が入っていない。
ただ。
入口の横へ。
古い粉袋が。
一つ。
置かれていた。
マルタさんは。
私に気づくと。
少し嫌そうな顔をした。
「見ないでよ」
「通り道です」
「別の道もあるでしょ」
「あります」
「じゃあそっち行って」
「分かりました」
本当に。
方向を変える。
「ちょっと」
呼び止められた。
「はい?」
「……別に」
「そこまで素直に行かなくてもいい」
「難しいですね」
「ほんとにね」
マルタさんは。
粉袋へ。
手を置いた。
それ以上。
何もしない。
窯へ。
火も入れない。
パンも。
焼かない。
ただ。
何年も閉じていた袋を。
店の中へ。
運ぶ。
それだけだった。
死者の声を聞けば。
何かが。
すぐ解決するわけではない。
テオさんは。
帰ってこない。
マルタさんの悲しみも。
消えない。
水不足も。
村の傷も。
そのままだ。
それでも。
少年の最後に残ったものは。
恨みだけではなかった。
熱でも。
痛みでも。
死でもなかった。
焼けた小麦の匂い。
粉のついた手。
母の作った。
いつものパン。
それを。
もう一度。
食べたい。
ただ。
それだけだった。
そして。
その小さな願いを聞いた母親は。
今日。
パンを焼かなかった。
代わりに。
粉袋を。
ひとつだけ。
店の中へ戻した。
私は。
それでいいと思った。
弔いは。
死者の言葉通りに。
生きることではない。
その声を抱えたまま。
明日。
自分がどうするかを。
生きている者が。
自分で決めることなのだから。




